お母さんだよ
ミュリエルはフィオナが気にくわない。
理由は単純。大好きなマティアスを取られたからである。兄のように慕っていたマティアスがフィオナにばかり構い、自分の相手をしてくれなくなったのだ。腹が立って仕方がない。
ミュリエルはフィオナと戦場で何度か戦ったことがある。戦ったというよりは一方的に攻められていたというべきか。
神器の使い手であるフィオナの攻撃はすさまじく、倒す術などなかった。
強く美しく凛とした孤高の魔術師、それがミュリエルが抱いていたフィオナの印象だ。
そんな彼女が戦いの最中に倒れた。つい直前まで平然とした顔で特大魔術を放っていて、王国側の人間は誰一人として彼女にかすり傷ひとつ付けていないはずなのに。
ぐらりと前に倒れたフィオナは、慌てて駆け寄ったマティアスに受け止められた。彼は自身の膝の上に彼女の頭を乗せ、ルークに枷を装着させる。そして抱き上げたのだ。
彼は、『残りの敵は蹴散らしておけ』と王国の魔術師たちに命じ、そのまま戦場から消えた。
ミュリエルは言われるがまま敵の魔術師たちを追い払う。先程見た光景を思いだし、マティアスのあんな顔は初めて見たなぁなんて思いながら魔術を放っていった。
彼が女性を愛しそうに見つめるところは初めて見たのだ。
任務を終えて拠点に帰ってくると、フィオナの事情は団長によって第一魔術師団の団員たちに知らされることとなった。
何年も隷属の呪印に縛られていたこと、敵である自分たちを攻撃しながらも手助けしていたこと。
ミュリエルは今まで不自然に思っていたことが腑に落ちた。
もう絶対助からないと死を覚悟した時に誰かが放った魔術によって助かったことが数度あったのだ。
彼女は辛い思いをしてきたんだなと同情はした。だけど彼女がここに来てからというもの、マティアスが構ってくれなくなった。廊下で出会っても挨拶をするだけ。
モヤっとした気持ちが段々と苛立ちに変わる。
たまに食事を一緒に食べていたのに、彼は食堂に来なくなってしまい、やっと来たかと思えば隣にフィオナの姿があった。苛々ムカムカが募る。
翌日からフィオナは第一魔術師団で共に訓練に励むことになり、自己紹介をするフィオナを見て衝撃が走った。
なんだ、このぼんやりとした子は。戦場での凛とした姿の欠片もないじゃないか。
こんなボケっとした子にマティアスを取られただなんて。しかも今は魔力を封じられていると言う。それじゃ何の取り柄もないただのお荷物じゃないか。
心の中で思い切り悪態をついた。
しかしフィオナは鋭い観察眼と知識で団員たちの魔術の向上に励んでいく。そして自分も指摘を受けてしまい、見たこともない紋様を勧められる。
ムカつくけれど、第一魔術師団の一員として能力向上に努めるために渋々受け入れた。
ある日の午後、中庭でフィオナの姿を見かけた。
長い空色の髪をさらりとおろし、藍色の半袖のワンピース姿でベンチに座って空を眺めている。
ただそれだけなのに絵になるような綺麗さで、心の底からムカついた。だから泥水をかけて汚してやった。
フィオナは怒ることもせずキョトンとなる。
そして、『できれば頭から水をかけてくれると嬉しいんだけど』などと淡々とお願いをしてきたのだ。
イラッとして無言でその場から走って逃げた。でもすぐに気になって、遠くからこっそりと覗いて様子を見ることにした。
しばらくするとグレアムが通りがかり綺麗にしていたので、少しだけホッとする。
そして現在、魔力をほんの少しだけ使えるようになったというフィオナと手合わせをすることになり、ボロ負けした。
魔術式の構築速度も正確さも自分とは比べ物にならないほどで、全く太刀打ちできなかった。神器の有無どころか魔力の量すら関係なく、フィオナは強かったのだ。
悔しくて涙で前が滲む。
「っっ、嫌いっ。マティ兄を一人占めするアンタなんて大っ嫌いっ」
ミュリエルは震える声でフィオナに言い放つ。
「マティ兄……マティアスのこと?」
フィオナは少し困った顔で静かに質問する。
「そうよ。私にとってお兄ちゃんみたいな存在だったのに、アンタが来てから構ってくれなくなったのよ。一緒に食事もしてくれなくなったしっ」
「かまって……」
フィオナは口に手を当てて下を向いて少し考え、そして顔を上げてミュリエルの顔を見た。
「あなたは私が敵だったから嫌っている訳じゃないってことで良いのかな? 私のこと恨んでないの?」
「はぁ!? 当たり前じゃない。今はもう敵じゃないんだから。アンタの境遇には同情したし。そんなの関係なしにムカついてるって言ってんの! マティ兄を独占しないでよっ」
ミュリエルは眉を吊り上げながらわめき散らす。
「そっか……関係ないのかぁ……」
フィオナは安心し、目の前で散々わめかれているにも関わらず微笑んだ。
「っんなっっ。何で笑ってんのよっ!」
「だって。ホッとしたから……」
「何でホッとしてんのよ」
「何でって言われても……」
「少しは怒んなさいよ」
「えー……怒る理由ないよ」
「いろいろあるでしょうがっ!」
「あーはいはい。続きは訓練が終わってからにしなさい。さっさとそこどいて!」
ミュリエルがわめくのは想定内だが、温度差の激しい言い合いが始まった。これは収拾がつかなそうだとレイラは割って入り一喝する。
二人は急いで対戦場から待機場所に戻る。フィオナは左の方へと歩いて行くので、ミュリエルは正反対へ行く。
「フィオナさん、すごかったよ」
「ほんとな。みみっちい魔術の連発だったけど発動速度えげつないなオマエ」
ニナに褒められ、グレアムにも言い方はともかくとして感心される。
他にもちらほらとお褒めの言葉をもらい、フィオナはちょっぴり恥ずかしくなって、へへと笑った。
ミュリエルは遠く離れたところでムスっとした顔で腕を組みながら佇む。
他の団員の手合わせを見ていると苛々した気持ちはだんだんと収まっていって、もういいやという諦めの気持ちに変わっていった。
訓練が終わるとミュリエルはさっさと部屋に帰ってしまったので、フィオナは声をかけそびれた。
仕方がないので自分も部屋に戻り、シャワーを浴びて着替えた。
そして四階へと行き、レイラから場所を聞いたミュリエルの部屋の前までやって来た。
コンコンッ
「フィオナです。今いいかな」
声を掛けても返事はなかったが、数秒後に扉がゆっくりと開き、隙間から気まずそうに目を細めるミュリエルが顔を出した。
「……何よ」
「話がしたいんだけど」
「……分かった。入って」
扉が大きく開かれたので、フィオナは部屋に入る。
ミュリエルは扉をパタンと閉めると、そのままもたれ掛かる。そして目を逸らしながら口を開いた。
「泥水をかけて悪かったわね。アンタにつっかかることはもうしないよ。皆の迷惑になるようなことはもうしないで、同じ第一の仲間として協力してやっていきたいと思ってるから」
ミュリエルは不貞腐れながらも謝罪した。彼女はカッとなりやすい性格であることは自覚している。
第一魔術師団の一員としての誇りも持っているので、和を乱すような行為は本当はしたくなかった。フィオナは何も悪くないということも頭では分かっている。
「ありがとうミュリエル。私もあなたとはうまくやって行きたい。あのね、私も謝りたいことがあって来たんだ。今までマティアスを独占しててごめんなさい」
フィオナはペコリと頭を下げた。
「マティアスは私の監視役だったから、ずっと世話を焼いてくれていたの。監視が必要なくなった今でも気にかけてくれて、一緒に食事を取ってくれるけど、それはもう必要ないって言っておくから」
本当はそんなことを言いたくないし一緒に過ごせなくなったら寂しくなる。けれど仕方がないと諦める。
優しさに甘えることはもうやめて、ミュリエルへ大切なお兄ちゃんを返すことにする。後から来た自分が我慢しないといけないから。
フィオナは少し寂しそうに笑みを浮かべた。
「これからもよろしくね。それじゃ」
フィオナは部屋を出ようと扉へと向かったが、ミュリエルは扉の前から動こうとしない。
「……あのさ、べつにアンタ……フィオナがマティ兄と仲良くしててもいいよ。フィオナにとってもマティ兄は大切な人なんじゃないの?」
ミュリエルは少し俯きがちに尋ねた。気にくわないからといって、二人の恋路の邪魔をするほど野暮ではない。
フィオナとマティアスが相思相愛なのは傍から見ても明らかなのだから。
「うん、そうだね。マティアスは私にとってお母さんみたいで大切な人だよ」
少しも考えることなくそう言い切って、ふんわりと微笑むフィオナ。
何だかおかしな返答がきた。ミュリエルは大切な人と言ったが、そういう意味で言った訳ではない。
「は? お母さんって……いやさ、せめてお兄ちゃんじゃない?」
「ううん。お母さんだよ。お母さん以外の何者でもないよ」
フィオナは少しも引かない。現時点では彼女の中ではマティアスはお母さん、それはもう揺るぎないようだ。
ミュリエルは唐突にマティアスが可哀想に思えてきた。そしてなぜこんな子に腹を立てていたのだろうと脱力する。
「……あー、うんそっか。それならさ、私たち二人とも我慢しなくていいじゃん。お兄ちゃんとお母さんだもん」
「なるほど。そうだね、役割が違うもんね」
無理やりな理屈にすんなりと納得して頷くフィオナに更に脱力感は増す。
「……私バカみたい」
「え? 何で?」
「あー、うん。こっちの話だから気にしないで」
「??」
ミュリエルは、このぼんやりとした鈍い子がマティアスの想いを受け入れる日は来るのだろうかと心配になった。