楽になりたい
戦場の中、黒いローブを羽織った魔術師はただ静かに、襲いくる全てを無力化させていった。
氷の矢が降り注げば疾風で薙ぎ払い、濁流が襲いくれば全て凍らせる。炎の渦は水の渦に飲み込んで、大きな岩盤はさらさらと砂に還す。
後ろで緩く編み込まれた空色の長い髪を靡かせ、紫色の瞳で前を見据える。ガルジュード帝国最強の魔術師フィオナは今日も戦場で静かに佇んでいた。
息をするように自然にいくつもの魔術を放ち、どんな攻撃が来ようと少しも動じることはない。涼しげな顔で凛と立っている。
彼女は今日も黙々と役目を果たす。そしてこの場を制圧できるまであと少しというところまできた。
目の前の深緑色のローブを身に着けた十数人、エルシダ王国の魔術師たちを退ければようやく帰れると、目を細めて大きくため息を吐いた。
────眠い。
昨日の夜、さぁ寝ようとベッドに向かった直後に呼び出され、とある洞窟にわいた魔物の討伐を言い渡されて一人で向かった。
討伐を終えて帰って来たのは朝方で、シャワーを浴びてようやく寝れるとベッドに向かった直後にこの戦場に駆り出されたのだ。
彼女はここ最近まともに寝ていない。いくら最強だ無敵だと言われても寝不足に勝てるはずはない。
もうやだ。エロ皇子のばか。大嫌い。
心の中でそう呟いたと同時に彼女の腹部に施された制約の呪印は熱を持ち、体に呪いの棘を張り巡らせていく。
「ぐっっ……」
強い痛みが全身を襲う。心の中で悪態をつくことを止めると痛みはじわじわと引いていき、はぁとまたひとつため息を吐く。
もう嫌だけど、今はとにかく目の前の敵に集中しようと気持ちを切り替える。
向かいくる魔術師たちは実力者ばかりで、薙ぎ払おうと疾風を何度か放ってもびくともしない。かなりの魔術耐性を持っている精鋭たちだ。
フィオナは眠すぎてふらりとしながらも集中し魔力を集める。空中にいくつもの大規模な魔法陣を描いていった。
完成した魔法陣は魔術師たちの頭上で金色に光り輝く。
──これで終われる。やっと寝れる。
雷が雨のように魔術師たちの頭上から降り注ぐことになるが、彼らが死ぬことはないはず。
防御で魔力を使い果たし、そのままさっさと撤退してくれたらそれで任務完了だ。怪我をしても命さえあれば治癒士が癒やすので問題ない。
こちらはもう限界なのだから早く終わってと切実に願う。
そんな彼女の願いはむなしく、攻撃が魔術師たちに届くことはなかった。
蒼い閃光が全ての魔法陣を斬り裂いて消し去ってしまう。放ったのは魔術師たちの後方から歩いてくる黒い騎士服の一人の人物だ。
さらりとした金色の髪に鋭い藍色の瞳を持つ男。蒼く光る剣を持つこの男は、エルシダ王国最強の神器使い。フィオナが万全の状態で対等に戦える相手だ。
男は後方に白いローブを身に着けた赤髪の男を従えてゆっくりと歩いて向かってくる。足を止めようと彼女がどれだけ魔術を放っても、いくつ魔法陣を描いても全て斬り裂いていく。
「……もうやだ」
眠さでまともに攻撃ができなくなり、男が持つ蒼い光を放つ剣をぼんやり見つめる。
あの綺麗な剣にこのままスパッと斬られたら楽になれるだろうか。
この男を退けて帰ったところで、終わりの見えない辛い人生が続くだけ。そこから解き放ってもらえるなら、一瞬で楽になれるなら、それはすごく良いことに思えてきた。
「……それ良いな」
フィオナは生きることを諦めた。
張り詰めていた気持ちが緩み、重い瞼を頑張って持ち上げることを止めて目を閉じる。
すぐに眠さが限界に達してそのまま意識を手放した。
* * *
……ここはどこだろう。
目を覚ましたフィオナは、ぼんやりと上を眺める。目の前にある青みがかったグレーの天井は自室の天井ではない。
頭がすっきりとする。ここ最近ずっと寝不足が続いて頭は常にずーんと重かったから、よく寝たなぁという久々の感覚だ。
むくりと上半身を起こすと、ジャラリと金属の音がした。自身の両手を見て、あぁこの音かと納得する。特に動じることはない。
両手首に取り付けられている白銀の枷には黒い紋様が描かれている。彼女は呪印を扱えないので知識はなく、描かれた紋様からどのような効力を持つものなのかは把握できないが、自分の力を封じるものだろうと思った。
試しに指先から炎を出そうとするが、蝋燭程度の小さな炎すら出ない。やはり魔力を封じる呪印が施された枷のようだと納得する。
枷には鎖が付いていて、ベッド下まで長く続いていた。今いる部屋の中なら端から端まで自由に行き来できそうなほどの長さだ。
下を覗き込むと鎖はベッドの足にがっちりと巻き付いて錠で固定されている。簡単には外せそうにない。
服は着替えさせられたようで、締め付けのない黒いズボンと白い半袖のチュニックを着ていた。髪は緩い編み込みのままだ。
自分は今、どういう状況なのだろうと彼女は考える。捕虜という立場なのは間違いないと思うのだが、それにしてはやたらと良い部屋にいるのだ。
大きなベッドは分厚いマットレスでふかふかで、シーツも肌掛けも柔らかく気持ち良い手触りだ。
ベッドの上には枕の他に可愛いクッションが数個置いてある。
棚やチェスト、テーブルなどのいくつかの家具は何だかお高そうで、大きな布張りのソファーにはクマのぬいぐるみがちょこんと置いてあって可愛い。
窓際のステンドグラスのような花瓶には色とりどりの綺麗な花が飾ってあり、ほのかな甘い香りを放つ。
どう見ても捕虜には不釣り合いな部屋で、なぜ自分はこんなところにいるのだろうという疑問しかわいてこない。
捕虜用の部屋が空いていなかったのだろうか。そもそも捕虜なんて牢屋の冷たい床に転がされているイメージしかない。自国の皇子なら間違いなくそうしている。
「何でだろ……」
考えたところで自分の置かれた立場は分からない。楽になれるかなと期待していたのに、それは叶わなかったということしか分からない。
ぼんやり座っていると部屋の扉が開いた。
入ってきたのは黒いズボンに灰色のシャツというラフな格好をした金色の髪の男だ。腰には蒼い鞘に収めた剣を携えている。
男はフィオナと目が合うと足をピタリと止めた。
「……すまない。起きていると思わなかったからノックもせず入ってしまった」
男は開口一番に謝罪を口にする。彼女はこの男の声を今初めて聞いた。幾度となく戦ってきたが、会話をしたことはなかったのだ。
初めて聞いた声は聞き心地のよい低く色気のある声で、見た目から想像していた以上に素敵な声だなぁなんて、そんな風にぼんやりと思った。そして彼女も口を開く。
「えっとね、そんなこと気にしないから大丈夫だよ。そもそも敵に気を遣う必要はないと思うの」
フィオナは凜とした涼し気な容姿からは想像がつかないような、のんびりゆっくりとした口調で穏やかに話す。
大抵の人は違和感を感じるほどののんびり具合だ。目の前の男も一瞬ポカンと口を開けた。
「……そうか、それなら良かった。少し不自由をさせているが我慢してほしい。女性を鎖で繋ぐということは本当はしたくなかったのだが、今はそうするしかないんだ。すまないな」
男はまた謝罪を口にした。なぜ捕虜にこんなにも気を遣うのだろうと、フィオナはおかしくなってクスッと笑った。
「どうした? 何かおかしかったか?」
「うん、だって私のこともっと雑に扱っていいはずなのに、すっごく丁寧だからおかしくて」
おかしいけれど何だかくすぐったくなる初めての経験だ。自国ではこんなに大切に扱われたことがなかったから。
帝国の皇子は、女は自分の世話を焼き欲を満たすだけの存在としか思っていない。彼女はまだギリギリ手を出されていないけれど、クズ皇子のせいで散々な人生だった。
──ここでは今は丁重に扱われているみたいだけど、そのうち処刑されるんだろうな。
痛いかな。痛いのは嫌だな。皇子のばか。人でなし。大嫌い。
元凶をしみじみと恨んだところではたと気づく。心の中で悪態をついたのに呪印による痛みが襲ってこないのはなぜだろう。
疑問に思ったフィオナは服をめくり上げ、腹部にあるはずの制約の呪印を確認する。
「んなっ……」
いきなり目の前で何の躊躇いもなく肌を露にする少女にぎょっとし、男はとっさに目を逸らした。そんな男を少しも気にすることなく、彼女は自身の腹部をじっと見ながら淡々と語りかける。
「ねぇ、ここにあった呪印知らない? 黒い薔薇の模様みたいなやつだったんだけど」
男は目を逸らしながらも質問に答える。
「それならうちの呪印士に解かせたぞ。どんな効力を持つものかは分からなかったが、君にとって良いものではなさそうだったからな」
「……そうなんだ」
眠っている間に自身の心と体を縛り付けていたものが無くなっていた。大嫌いな皇子に縛り付けられていた呪いだったから、じわじわと喜びが溢れてくる。
「ありがとう。蒼い神器の剣士さん」
彼女は心から感謝してふんわりと微笑みながらお礼を言った。敵の呪印を消すだなんてこの国の人間はお人好しだなと思いながらも嬉しくて堪らないのだ。
「気にするな。ところで君の名を聞かせてもらえるだろうか。俺はマティアスだ」
「私はフィオナよ。よろしくね、マティアス」
「フィオナ……フィオナか。良い名だ」
マティアスは少しだけ目元を和らげた。戦場ではいつも眉間にシワを寄せていた男の柔らかな表情に、フィオナはきょとんとなった。
「何だその顔は」
「えっとね、あなたも笑うんだなって思ったの」
「失礼だな君は」
「ごめんなさい。だって私、あなたの怖い顔しか見たことなかったし」
そう言われ、マティアスは眉間にシワを寄せながら自身の頬をむにっと掴んだ。
──怖い顔か。表情が豊かな方ではないとの自覚はあるが、怖い顔と思われていたとは心外だな。しかしこの子もあまり人のことを言えた義理ではないぞ。
「そういう君だって……」
いつも涼しげな無表情だっただろう。そう言いかけたところで、部屋の扉がガチャリと開いた。
「あっれー? 起きてたんすね。ノックもせずに失礼したっす」
白いローブを身に着けた赤い髪の男が陽気に笑いながら部屋に入ってきた。背中まである長い髪は後ろで一纏めにしている。
「金の魔術師さん元気になったっすか?」
男は朗らかに話し掛ける。
「うん、いっぱい寝たから元気だよ。ありがとう」
フィオナがのんびりゆっくり口調で穏やかに話し掛けると、男は茶色の目を大きく見開いた。
「あれれ? おかしいっす。ここは『気安く話しかけないでもらえるかしら』って虫けらを見るような目で見るか、フッと冷めたように笑って無視されるかのどっちかだと思ってたのに。びっくりっすよ。あ、オレはルークっていうっす」
「そう、よろしくねルーク。私はフィオナっていうの」
彼女は前半の主張は全て無視し、のんびりゆっくりと挨拶を返す。
ルークはきょとんとした後マティアスに駆け寄って彼の肩をがしっと組み、彼女に背中を向けてヒソヒソと話す。
「マティアスさん、なんすかあの子。イメージと違うっすよ。クールで格好いいイメージが一瞬で消え去ったっす。ほわっほわでこれはこれで可愛いっすけど。むしろキュンとなっちゃってこの気持ちどうすればいいっすかね?」
小さな声で矢継ぎ早にマティアスの耳元に訴えかける。
「あぁ、俺も同じことを思っていたところだ。だがお前はその気持ちは捨てろ」
「そんなぁ〜酷いっすよ」
「うるさい」
二人はしばらく小声でやんややんやと話していて、フィオナはそんな二人の背中を仲が良いなぁなんて羨ましく眺める。
自分には友人と呼べる人間なんていないからだ。死ぬ前に一人くらい友達が欲しかったのになと、元凶である憎き皇子の悪口を心の中でひたすらに呟くことにした。