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アメリカに転勤する彼氏に、プロポーズされる話

作者: 木谷未彩

「アメリカに転勤することになったんだ。結婚して一緒に来て欲しい」

高そうな指輪の入った箱を、開きながら彼が言った。

昔好きだったドラマの最終回も、こんな展開だったなと、どこか他人事に考える私がいる。

ドラマの主人公は、彼氏についていき、海外で幸せに暮らしていた。

私は?私はこの指輪をつけるのだろうか。


これが結婚して欲しいの一言だったなら、すぐに『喜んで』と返事をして、指輪をつけていただろう。

ずっと待ち望んでいたプロポーズなのに、嬉しい気持ち以上に、海外生活の不安の方が、大きかった。


「期間はどれくらいなの?」

彼は私の質問に、少し驚いた顔をしたあと

「長かったら5年くらい」

と答えた。

5年……思っていた以上に長い。

5年後には、35歳だ。

その年まで、海外生活をしている私を、どうしても想像できなかった。

でも子どもの頃から、ずっと一緒に居た貴方と、離れ離れになることも、同じくらい想像できない。



海外生活には、不安な点が多すぎる。

英語のテストは、赤点以外とったことがないし、平和な日本で暮らしてきた私が、いきなり銃社会のアメリカで生活できるのだろうか。

それに仕事だって、去年主任になったばかりだし、2ヶ月前に入った新人に、仕事を教えているところだ。そんなタイミングで辞めるのは、さすがに気が引ける。

少人数の会社だから、私が急に辞めると、他の人の残業も増えるだろうし。


そこまで考えて、ふと気付いた。

私、アメリカに行かない理由ばかりを探してる。

私は貴方と居ることと、日本で生活すること。どちらがより大事なのだろうか。


今すぐ答えを出すのは、ダメな気がする。

もっとじっくり考えないと、どっちを選んでも後悔しそうだ。

「ごめんなさい。今すぐには決められない」

そう言うと、貴方は少し寂しげに笑った。

「出国まで2か月あるから、大丈夫だよ。でも結婚するのにも、向こうに行くのにも、手続きが色々あるし、なるべく早めだと助かるかな」

「……うん。そうだよね」

「話題を変えようか。来週のデートなんだけど、初デートで見た映画の監督が、7年ぶりに新作を出したらしいんだ。それを見に行かない」

ああ、彼と付き合ってから、7年も経ったのか。昨日のことのような。7年前のことのような。

不思議な感じがする。

「いいけど。準備は大丈夫なの?」

「うん。自分の準備は大体終わらせてるから。それに日本でのデートは、しばらく出来ないだろうしね」

準備する前に教えてくれていたら、もう少し考える時間があったんじゃないか。

喉まで出かけた不満は、唾と一緒に飲み込んだ。


「じゃあ、土曜日。11時に迎えに行くね。大好きだよ」

彼の大好きを聞いたのは、随分、久しぶりな気がする。

「うん。ありがとう」

大好きは返さなかった。

想ってないとかじゃない。

その言葉を言ったうえで、ついて行かない選択をすると、とんでもない悪女になってしまう気がしたから。

彼はまた、寂しげな笑顔を浮かべて、去っていった。


次の土曜日までに、答えを出そう。

彼をそれ以上、待たせる訳にはいかない。



『3時間、真剣に考えて、結論を出したら、3年間、真剣に考えても、結論は変らない。』

昔、ネットで見て、なるほどと思った言葉だ。

私の場合、一週間近くある。

それだけの時間、真剣に考えたら、一生、結論は変わらないと思う。

いや、それ以上考えると、情とかに流されて、自分の本当の気持ちを、見失ってしまうかもしれない。


一週間、ちゃんと考えよう。

後悔が少ない方を、選べるように。



その夜、日課のラジオを聴いていると、『アメリカに転勤する彼氏に、ついていくか悩んでいます。英語も全くできず、正直、アメリカで暮らしていく自信がありません。どうしたらいいと思いますか?』と聴こえてきた。

一瞬、自分が質問したのかと思ったが、私は聴き専だ。

質問を送ったことは、一度もない。

同じ時期に、同じことで、悩んでる人がいることに、なんだか嬉しくなる。

回答者がなんて返すのか、気にしていると

『私だったら、迷わず行くなー。言葉なんて半年も向こうに住んでたら、話せるようになるだろうし。相手のこと好きなら、行くべきでしょ』

本当にそうだろうか。

好きだけで、行動していいほど、人生は甘くない気がする。

そんなことを思う私は、薄情な人間なんだろうか。



翌朝、窓の外を見ると、ポストマンが隣の家のポストに手紙を入れていた。

それを見て、子どもの頃の、正月のことを思い出した。

私と彼は、家が隣同士で、物心ついたときから仲が良かった。

毎年、正月には、朝の8時から二人でポストの前で、年賀状が届くのを待ち侘びていた。

私たちが住んでいた場所は、10時頃まで届かないのに。

二人で『まだかな。まだかな』なんて言って、手を繋いで待っていた。

あの頃は、それだけで楽しかった。

些細な一つ一つが、幸せだった。

いつから、それに気づかなくなったんだろう。


付き合ったのは、23歳の時だけど、私は小学生の時には、彼に恋心を抱いていた。

彼はすごくモテて、中学生の時から、彼女は途切れなかったけど、私は誰とも付き合わなかった。彼だけを見ていた。


23歳の時、彼に告白されて、二つ返事でOKした。

彼と付き合えることはないと思っていたから、夢かと思った。


付き合ってすぐは貴方の言うことが、何でも正しいような気がして、あんまり好きじゃない、花のワンピース着たり、可愛いメイクをしたりした。

貴方が可愛いと言ってくれたら、それだけで良かった。


あの頃の私なら、海外生活の不安も感じず、貴方について行っただろう。


でも今は、貴方と居ることに慣れてしまった。

薄化粧に、Tシャツとジーンズで会うのも、気にならなくなった。

海外生活だって、不安で仕方ない。

私はどうしたらいいんだろう。どうしたいんだろう。


仮について行かないなら、日本に戻ってくるまで待つか、今別れるかを考えないといけない。

何年でも待ちたい。

でも子どもが欲しい。

35歳を超えると、妊娠の確率が一気に減るらしい。

胎児や母体へのリスクも、大きくなるそうだ。


叶うなら、祖父母にひ孫の顔も見せてあげたい。

祖父母は全員、平均寿命を超えている。

認知症になる可能性もあるし、少しでも早い方がいいだろう。


そう考えると、貴方について行くか、日本に残り、別れるかしかない気がした。


まだ時間はある。もっとゆっくり考えよう。

そう思っていたが、1週間は想像の5倍、早く過ぎていった。


「おはよう」

彼は約束通り、11時に車で迎えに来た。

「……おはよう」

どうしよう。

まだ答えは、決まってないのに。

彼の車に乗り、シートベルトを締めたとき、彼にキスされた。

随分、久しぶりな気がする。

どれくらい前かも、覚えてないくらい。

「じゃあ、行こうか」

平然と微笑みながら、車を走らせる彼の横で、私の心臓は理性が飛びそうなくらい、波打っていた。

子どもじゃないんだから、キスくらいで。

頭ではそう思っても、心臓は言うことを聞いてくれなかった。


ずるい。ずるい。

キスなんて、ずっとしてくれなかったくせに、こんな日だけするなんて、本当にずるい。

今、アメリカへ行こうと言われたら、なにも考えず、『はい』と言ってしまいそうだ。


運転する彼の隣に居る時間は、とても長く感じられて、このままずっと、終わらないんじゃないかなんて、夢みたいなことを考える。


だけど、当然終わりはくる訳で、今私たちは、映画館の座席に座っている。

当たり障りのないことばかり、話した。

昨日の夜ご飯が美味しかったとか、昨日見た動画が面白かったとか、仕事のちょっとした愚痴だとか、そんないつも通りの会話。


今日、別れるかもしれないことなんて、忘れてしまうくらい、いつも通りだった。

そんな風に一緒に居ると、ずっと一緒に居たいって、やっぱり思ってしまう。


映画が始まった。

メディアにも注目されている、冒険物のアニメ映画だ。

キャラが個性的で、ストーリーもありそうでない感じで良かった。


映画の中盤、貴方が手を繋いできた。

映画に来ると、大体いつも、これくらいの時間に繋がれる。

昔は、映画が頭に入らない程、ドキドキしたけど、付き合って一年後くらいには、手を繋がれると、逆に落ち着くようになってきた。


キスではあんなにドキドキしたのに。

少し寂しいけど、ずっと一緒に居るなら、ドキドキするより、落ち着ける方がいいのかもしれない。


映画は旅に出た主人公が、ヒロインの元へ戻り、再会を喜びあって終わった。

いいな。私も彼の帰りを待っていたい。

いくつになっても、出産のリスクが上がらなければいいのに。

祖父母が全員、100歳まで健康に生きられたらいいのに。

こんな、たられば、考えたってしょうがないのに。

早くどうするか、決めなきゃいけないのに。

今すぐ、どこかに逃げ出したい。

逃げる場所なんて、ないけど。


「面白かったね」

彼が言った。

「うん。そうだね」

久しぶりに感動した気がする。

ここが良かった。あそこが良かった。

貴方と感想を言い合う時間は、映画を観ている時間より、楽しかった。

あー、嫌だな。終わらせたくないな。

でも私の心は、決まってしまった。


貴方と別れよう。


今のタイミングで、仕事を辞める訳にもいかないし、英語も全く出来ない。銃社会も怖い。

祖父母が元気な間に、子どもが欲しい。


今の生活を壊して、飛び越えて、貴方をおいかける勇気は私にはない。


「ご飯食べに行く?」

正直行きたい。

最後の思い出作りに。

でも行ったら、決意が揺らぎそうだ。

少し迷って

「ポップコーンいっぱい食べたから、やめとく」

と答えた。

「……そっか。じゃあ、帰ろうか。送るよ」

そう言って、彼は歩き出した。


別れを切り出すのは、少しでも早い方がいいだろう。

本当は今すぐ言った方が、いいのかもしれない。

でも今は、今だけは、貴方の隣りにいたい。

これで絶対、最後にするから。


行きではあんなに、ドキドキしたのに、別れると決めたせいだろう。空気が鉛のように重たく感じた。

貴方との最後の時間くらい、心の底から楽しみたいのに。

信号が見える度、赤くなれと願ったけど、全部青のまま車は止まらず、あっという間に、家に着いてしまった。


早く言わなきゃ

『別れよう』

たった5文字なのに、世界一言いづらい言葉な気がした。

早く。早く。早く。

「アメリカについて来てくれるか、まだ決めれてないよね?」

彼が言った。

ここで頷けば、もう一度くらいは、デートができるかもしれない。

もう一度くらい、いいんじゃないか。

彼だって、決めれてない前提で聞いてくれている。

頷けば。頷けば。頷けば。




あー……私って本当に嫌な女だな。

そんなの、いい訳ないじゃないか。

先延ばしにしても、言いづらさが増すだけだし、海外転勤前の彼の時間をこれ以上、奪う訳にはいかない。

「ごめん。別れよう」

あんなに言いづらかった言葉が、いやにあっさり出た。

理由はわからない。

でも先程までと、180°違い冷静だった。

人間、本当に追い詰められると、案外冷静になるのかもしれない。


ドラマの主人公みたいに、別れたくないって、泣き叫ぶ女になりたかった。

貴方のことが本当に大好きなのに、その気持ちに偽りなんて、1mmもないのに。

目は少しも、潤んでくれない。


貴方は10秒程、黙ったあとで

「日本で待っていて欲しい」

と言った。

「ごめんなさい。今すぐにでも、子どもが欲しいの」

「なるべく早く、帰ってこれるように頑張るから」

「……ごめんなさい。待てない」

一週間、悩みに悩んで出した答えだ。

感情に流されて、答えを変えたら、きっと一番後悔することになる。


きっと、正解ではない。

でもこれ以外に、選べる答えもないんだ。


何の音もしない時間が、30秒程続いた後で

「………………わかった。勝手に海外行くって決めてごめん」

と貴方が言った。

「仕事だから仕方ないよ。貴方が悪い訳じゃない」

本心だ。


なら、私が悪いのかな。

そんな考えが、浮かんだ直後

「ありがとう。杏も悪くないよ」

と貴方が言った。

そうだ。そうだ。こういう人だった。

いっつも欲しい時に、欲しい言葉をくれる、そんな人だった。

すでに過去形になってしまった思考に、寂しさを覚える。


貴方のことを考えなくなる日も、いつかくるのだろうか。

今は想像もつかないけど。

来て欲しくないな。

でも来ないと、先に進めないのかもしれない。


「見送りだけでも、来て欲しいな」

貴方の言葉に、少し迷って

「……ここでお別れした方がいいと思う」

と言った。

きっと別れまでの、時間が長くなればなるほど、心がどうしようもなくなる。

お互いにとって、きっと良くないことだ。


「………………そっか、そっか。うん。そうだね」

「……うん」

私は頷いて、シートベルトを外し、ドアハンドルを動かした。

自動でゆっくり開く、スライドドアに恨めしいような、ありがたいような、なんとも言えない気持ちになった。


ドアが開ききる直前

「大好きだよ。杏」

と貴方が言った。

別れの時に、そういう言葉を言う人だったのね。

『私も』と言って、今の私と同じ気持ちを、感じて欲しくて仕方なかったけど、私はそのまま歩き出した。




アパートの自室前で、初めて振り返ると、貴方の車がまだあった。


他の車が来たら、迷惑になるだろうなと思った。

別れたばかりの恋人に、こんなことを思う女は、ドラマの主人公なんて、絶対なれないんだろう。

ドラマの主人公なら、盲目的に彼のことだけ、見ていないと。


1分程経った後、貴方の車が走り出した。

心なしか、いつもよりゆっくり、走っている気がする。

都合良く、そう見えているのかも、しれないけど。

そのまま走って、止めないで。

貴方の優しい言葉なんて、もういらない。

なくても、生きていかなくちゃいけない。


貴方の車が見えなくなると、勝手に涙が頬をすべった。

私に泣く資格なんて、あるのかな。

そう思っても、涙は止まりそうになかった。

誰かに見られる訳には、いかない。

急いで部屋に入り、玄関に座り込んだ。

こんなところに座ったら、服が汚れる。

でも、立ち上がることさえ、億劫だった。


涙がキラキラ光って見えて、それが嫌で嫌で仕方がなかった。

いっそ泥のように、汚ければいいのに。

どう形容していいかもわからない、感情の色で、流れてくれたらいいのに。


10分くらい泣き続けた。

泣くことさえ、疲れてしまった。

もう、いいや。寝よう


壁に手をつき立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ。

風呂、着替え、食事、歯磨き。

しないといけないことが、頭を回るけど、どれもやる気が起きない。

せめて化粧だけでも、落とさないと。


いや、もういいか。

可愛く見られたい相手も、もういないんだし。


しばらく寝転んで、やる気が起きたらしようと思ったが、あっという間に眠ってしまった。




彼と別れて、一週間経った。

そして始まった今は、これまでと大して変わらない。

昔、好きだったドラマで、失恋したら世界がモノクロに見えると言っていたけど、そんなこともない。

普段目にする物は、これまでと大して変わらないし、キレイな物を見たら、キラキラと輝いて見える。

ここまでいつも通りだと、貴方に恋をしていたことさえ、嘘みたいで少し寂しいけど。

でも、確かに恋をしていた。

それだけは、否定しないで生きていこう。

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