ルキウスの羨望
*ルキウス視点です。
明日はユリアの五歳の誕生日だ。
しかし、我が家の家族全員がお通夜のような顔つきをしている。
一人朗らかなのはユリアで、俺たちに心配かけまいと必死に振舞っていることが分かる。
その健気さが涙が出るくらい愛おしかった。
***
初めて赤ん坊のユリアを見た瞬間、俺はその愛らしさに胸を打ち抜かれた。
なんだこれ? 可愛すぎだろう? 金色の瞳? けぶるような長い睫毛。真っ白な肌。
天使のようだ。むしろ、女神?
ああ、可愛い可愛い可愛い可愛い……どうしてこんなに可愛いんだ!!!!!
呪文のように『可愛い』が頭の中に溢れる。
暴力的と言ってもいいほどの強い衝動で彼女に惹きつけられた。
愛おしい、という気持ちが一番しっくりくると思う。
こんな感情は生まれて初めてで、俺はどう処理して良いのか分からずに戸惑っていた。
しかし、ユリウスが同じように感じていることが分かった瞬間、俺は『ダメだ!』と自分の心にブレーキをかけた。
父さんとユリウスは俺にとって絶対的な存在だ。特に父さんが亡くなってから、ユリウスは家族を支えるために身を粉にして働いてきた。
いつも笑顔でみんなを励ましてくれるユリウスは、カエサル家にとってお日様のように明るく照らしてくれる存在だ。
兄さんがいてくれたから家族は生きてこられた。俺たちは兄さんに返しきれないほどの恩がある。
だから、兄さんがユリアを可愛がるなら、俺は邪魔をしないようユリアには触れずにいようと思ったんだ。
もちろん、ラザルスも可愛くて堪らなかったから、俺はいつもラザルスと遊んでばかりだった。ユリアに触れたら箍が外れそうで怖い、という恐れもあった。
それに、ユリアの前に出ると不思議と緊張してしまって、彼女が話をするようになってからもほとんど口をきいたことがない。
口も体もぎくしゃくと強張ってしまうんだよな……。
そのせいかユリアも俺には懐かなかった。
認めるのは辛いが……多分、嫌われているんだと思う。
俺と一緒にいる時の彼女の顔は緊張で強張っているし、たまに息を止めていることさえある。
俺といると息が詰まるんだな、と思うと、胸がズキンと痛んで逃げるように部屋を出ていってしまうこともあった。
ユリウスやラザルスと楽しそうに笑っているユリアを見ると、胸が苦しくなった。
俺には滅多に笑顔も見せてくれないから……。
彼女に笑いかけられるユリウスやラザルスが羨ましかったが、俺は無愛想だし一緒にいてもつまらない人間だ。
苦手に思われていても仕方がないな、と諦めていた。
「ルキウス……。あなたは本当に不器用よね。ユリアも器用そうに見えて不器用だから……」
母さんにため息まじりに言われた時は戸惑った。
それでも、ユリアがますます愛らしく成長するのを一つ屋根の下で見ることができて幸運だったと思う。
朝起きて、窓からユリアが鶏小屋に卵を取りにいくのが見えると、その日はいい日になると根拠もなく信じることができた。
口元に柔らかい笑みを浮かべて得意げに鶏小屋に向かうユリアの横顔に、俺はただ見惚れるばかりだった。
ユリアの鼻歌が聞こえた日なんかは、鈴を転がすような声に身悶えしたものだ。
ただ、彼女は素直で明るい女の子だったが、一人になると暗い表情を見せることがあった。
五歳になったらあの女王のところに行かなくてはいけない。
それが不安なのだろうと、ユリアがずっと俺たちと暮らせないかどうか兄さんに尋ねてみた。
兄さんもそれをずっと心配していたらしく、ユリアの処遇や女王について王城で調べていたそうだ。
残念なことに、ユリアが五歳になったら王城に引っ越すことは決定事項らしい。王城でどんな扱いを受けるか分からないが、これまでの女王の振舞いを見ていて希望が持てるはずもない。
兄さんは真剣な顔でユリアをどこかに逃がせないか、母さんと話し合っていた。
俺も彼女を逃がすためなら何でもする覚悟でいた。
ユリアにはいつも笑っていて欲しい。
彼女はたまにとても自信がなさそうな、心細そうな表情を見せる。彼女にそんな顔をさせたくないんだ。
俺が苦手だからそんな表情になってしまうのかもしれないが……。そう考えると胸が鉛のように重くなる。
ただ、ユリア自身は逃げることに消極的だ。俺たちに迷惑をかけるようなことをしたくないと言う。
ユリアが王城に行った場合、彼女に近づくためにはクレメンス王太子の専属護衛になるしかない、と真剣な顔でユリウスから言われたことがある。
「弓の腕では護衛になれないんだ……」
悔しそうに呟くユリウス。
亡くなった父さんは剣と弓の両方を俺達に教えてくれた。ユリウスは弓に適性があり、俺は剣技の方が得意だった。
しかし、王宮で騎士となり王族の護衛になれるのは剣技に優れた者だけだ。
ユリアが王宮に行っても、王太子の護衛なら彼女に近づくことができるかもしれない。
それは俺に明確な目標を与えてくれるものだった。
幸い、兄さんの紹介で近衛騎士団の雑用係として雇ってもらえた。
雑用しながらも騎士の訓練を見れば勉強になる。休み時間に騎士団長が直々に剣の使い方を教えてくれることもあった。
幼いなりにそれなりの使い手だと分かると、他の騎士も手合わせをしてくれるようになり、俺の剣技はメキメキと上達した。
騎士団長が正式に騎士団に入らないかと勧めてくれた。文句のつけようのない成績で入団試験に合格した俺は史上最年少での入団になるらしい。
家族も皆喜んでくれたが、特にユリアが花のような笑顔で「おめでとう! すごいわ! ルキウス」と言ってくれた時は天にも昇る心地だった。
……頑張って良かった。くぅぅっ!
気持ちも新たにやる気が湧いてきた。
*****
そんな幸せな日々も明日で終わってしまう……。
結局ユリアは逃げろという説得には応じなかった。
誕生日の前日、母さんはユリアの好きな食べ物を山ほど作った。
でも、全員食がなかなか進まない。明日のことを考えるとどうしても気持ちが落ち込んでしまうんだ。
ユリア一人がみんなの気持ちを引き立てるように明るく笑い、美味しい美味しいと言いながらご馳走を沢山食べていた。
深刻な面持ちで黙り込んでいた兄さんが我慢できなくなったようにバンとテーブルに手をついて立ち上がった。
「ユリア! 朝になったら王宮から迎えが来てしまう。その前に……今夜中にここから逃げろ!」
「私たちのことは心配ないから、どうか逃げてちょうだい。信用できる知り合いがいるの。そこまでユリウスとルキウスが送っていくから……」
母さんもユリアを説得しようとする。ラザルスも頷いた。
そうだ。俺たちはユリアを逃がすために、色々と話し合ってきたんだ。
俺もどうか逃げてほしい、という思いをこめて彼女を見つめた。
しかし、ユリアは顔面蒼白になった。
「……私のために……本当にありがとうございます。私がこれまで幸せに過ごしてこられたのは皆のおかげです。感謝してもしきれないです。だからこそ、逃げることはできません!」
震える指先で口元を押さえながらもきっぱりとした口調で言い切った。
「ユリア! 俺たちのために逃げてくれないか? 俺は……君が王宮で辛い思いをすると想像するだけでも耐えられないんだ」
ユリウスが必死に訴える。母さんも目に涙を浮かべてユリアを抱きしめた。
でも、ユリアは気丈な態度を崩さず笑顔を浮かべた。
「大丈夫。私は教会から聖女として認められています。女王だって下手なことはできないでしょう。何かあったら教会に助けを求めますから」
俺は気づいていた。勇敢に大丈夫と言いながら、彼女の膝がガクガクと震えていることに。笑顔を浮かべる顔も血の気が引いていることに。
怖いだろうに凛とした態度を崩さないユリアが愛おしくて堪らなかった。
どうか俺たちに甘えてくれ、怖いなら怖いと言ってくれ、と願うような気持ちで彼女の瞳を覗きこんだ。
「ユリア、王宮に行っちゃダメだ!」
ラザルスもユリアに抱きついて泣きだした。
ユリアはそんなラザルスの頭を優しく撫でる。
「ラザルス、ありがとう。エミリア母さん、ユリウス、ルキウス。本当に本当にありがとう。みんなと過ごせてとても幸せだった。私はなんて幸運なんだろうって思いながら、毎日を過ごしてきました」
俺は言葉もなく彼女の横顔を眺めていた。
まだ、五歳だというのに決意を秘めた彼女の横顔は女神のように美しかった。
金色の瞳から一筋の涙が零れ落ちる。それをユリウスが指先で掬い彼女の頬を撫でた。
「みんな、誰よりも大切な人たちなんです。私にとって大切な家族。だからこそ逃げるわけにはいかない。みんなを危険な目に遭わせたくないんです。逃げても絶対に捕まるでしょう。どんな処罰があるか分からない。だから、どうか私を王宮に送りだしてください」
ユリアは目に一杯涙を溜めながら、切々と訴える。
宝石みたいな涙だなと場違いなことを考えながら、俺はユリアの芯の強さに感動していた。
その夜、俺たちがどんなに説得しようと彼女の気持ちは変わらず、結局逃がすことはできなかった。
*****
翌日の早朝、王宮の迎えがやってきてユリアを連れ去った。あっという間の別れだった。
母さんは泣き崩れてベッドに倒れ込んでしまったし、ラザルスも静かに涙を流しながら、庭で鳥たちと話をしているようだった。
その日、俺は仕事に集中できず騎士団長から何度もゲンコツを喰らった。
ユリアはどうなるのか? 酷い扱いを受けているのではないか?
その後も同じ王城にいながら、まったく彼女の様子は伝わってこなかった。兄さんは必死で伝令をしながら情報を集めているらしい。
訓練中も俺は気持ちが荒れてどうしようもなかった。
剣術の演習で相手の騎士を滅茶苦茶にやりこめてしまった俺に、騎士団長が近づいてきた。
またゲンコツを喰らうと身構えたが、団長は俺の肩にポンと手を置いた。
「今日はもう帰っていい。少し頭を冷やせ」
心なしか団長の顔色は悪く顔に新しい傷ができている。その上、俺に同情している様子が不安をかきたてた。
家に帰ると相変わらずお通夜のように暗い。
しかし、兄さんが帰宅すると雰囲気が変わった。
「やはりユリアは酷い目に遭っている。絶対に俺たちで助けるぞ」
きっぱりと断言する兄さんの言葉に、俺たちの気力が戻ってきた。
やっぱりこの家の大黒柱は兄さんだ。
兄さんの話だと、ユリアは魔力を搾り取られる腕輪をつけられ、食べ物もろくに与えられずに監禁されているらしい。
王太子の護衛である騎士団長がそれを知り女王に抗議をしたせいで、団長は罰を受けたという。
団長の顔にあった傷を思い出した。団長の顔色が悪かったのはそのせいか……。
しかし、国を守る上で重要な地位にいる騎士団長の言葉でさえも女王は聞く耳を持たない。
どうやってユリアを助けたらいいのか……?
兄さんに訊ねると「分からない」という答えが返ってきた。
「まずは情報収集だ。彼女の状況を把握して少しでも早く助けたい。そのためにも、ルキウス、何とか王太子の専属護衛になれないか? 彼女に近づけるのは女王か王太子だけなんだ」
「分かった。任せてくれ」
現在、王太子の護衛は騎士団長と副団長が交代で行っている。
まずは団長を超えないといけないな。ユリアのために。
俺は心に固く誓った。
必ずユリアを助けてみせる!