逃避行
*ユリア視点に戻ります。
ルキウスとユリウスが無事に悪魔憑きの調査から戻ってきたとココとピパが教えてくれて、私はほっと胸を撫でおろした。
「もしかしたら腕輪の外し方が分かったのかもしれない。何か動き始めたみたいだよ。ユリア、逃げられるかもしれない」
二人は嬉しそうに報告してくれたが私は戸惑った。
本当にそんなことが可能なのかしら?
しかし、ルキウスから準備をしておけというメッセージを受け取って以来、常に逃げられる支度はしてある。
いつになるか分からないけど来たるべきその日のために。
*****
その日、城内は朝からザワザワと落ち着かなかった。
王太子は散歩のために朝と夕方に部屋にやってくるはずだが、それが急遽キャンセルされたと連絡があった。
毎朝世話をしてくれるはずのアガタも休みを取っている。嫌でも心がざわめいた。
ココとピパに頼んで王宮内を探ってもらうことにした。
窓の外を眺めていると王宮に多くの竜のような魔物が飛来した。十数頭だが、体のサイズが大きいので物凄い迫力がある。
中でも特に大きな魔物に女王が乗り、空へ飛び去った。他の魔物も後に続く。
どこに行くんだろう?
その時、ココとピパが慌てて戻ってきた。
「何かあったの!?」
「ファビウス公爵邸で悪だくみをしているから反逆者を捕まえにいくって女王が! そこにユリウスとルキウスもいるかもしれない!」
ココが両手をブンブンと振り回して叫んだ。
ピパも真っ蒼な顔をしている。
「魔物がもっと沢山集まってくるって。逃げても空から追われたらすぐに追いつかれちゃう!」
ルキウスが残してくれた魔法学入門に『空からの追跡―その対処法』というチャプターがあったのを思い出した。
内容はほとんど記憶しているが確認のため慌ててページをめくる。
空を飛ぶ魔物は主に視覚と嗅覚で獲物を捕らえる。なので、姿を消す魔法と匂いを消す魔法をかけるのが効果的だという。
転移魔法を使って追跡させないというのが一番だが、転移できる距離には限界があり、他の人も一緒に転移させるとその距離が短くなるという。なるほど……。
といっても、この忌々しい腕輪があるから私は魔法が使えないけどね!
それにこの部屋からも出られないし……。
魔法学入門に書かれたことは暗記するくらい何度も読み返した。感覚的に魔力さえ戻れば魔法が使えるような気がする。
でも、現実にそれが叶わない。ユリウスたちを助けたいのに何もできない自分がもどかしかった。
ユリウスとルキウスはとても強い。女王に襲撃されてもきっと逃げ出せるだろう。
それに……もしかしたら、本当にもしかしたらだけど、混乱に乗じて逃げるチャンスがあるかもしれない。
可能性は万に一つよりも少ないだろうけど、備えあれば憂いなし。
逃げる準備だけはしておこう。
最近クレメンスが乗馬をさせてくれるようになったので私には乗馬服がある。これが一番動きやすい。
持っていくものはほとんどない。魔法学入門くらいか。
その本にルキウスからもらったメッセージを全て挟むと、落ちないように本ごと長めのスカーフに巻きつけて、斜め掛けにしてお腹の辺りで結び目を作る。本を背中に括りつける感じだ。その上から乗馬服のジャケットを着た。
他には何も必要ない。ココとピパは勝手についてきてくれるだろう。
ここまで準備して何も起こらなかったらちょっと哀しいかもと思い始めた頃、外が突然騒がしくなった。
庭を警備兵たちがバタバタと走り回っている。
警戒しながら神経を研ぎ澄ましていると部屋のドアの鍵がガチャガチャと音を立てた。
私とココとピパは顔を見合わせた。強い緊張が走る。
しかしドアが開くと、そこに立っていたのはアガタとルキウスだった。
ルキウス……。また一段と格好良くなったように見える。
少し痩せたかもしれない。でも、少し細くなった頬も精悍な顎や顔立ちも少年っぽさが抜けてすっかり大人の男性だ。
こんな状況なのに私は呆けたように彼に見惚れてしまった。
彼も目を見開いてじっと私を見つめている。
ほんの数秒だったのだろうけど、時間が止まったように感じた。
その時、アガタが必死の表情で何か言おうとしていることに気がついた。
ダメだ! 今は緊急事態だ。シャンとせねば!
慌てて「大丈夫。逃げる準備万端です!」と大きな声で伝えると、ルキウスの背後からとても綺麗で色っぽい女の人が現れた。
彼はその人の耳元で「腕輪を」と囁く。親しそうな仕草に胸がグサッとえぐられた。
一体誰……?
「分かってるわよ」
その女性は場違いなくらい余裕な態度でニコニコ笑っている。
彼女が私に近づき腕輪に向かって呪文を唱えると、腕輪がぽろっと床に落ちた。
えっ、えっ、えっ――――――!?
どういうこと? この腕輪は絶対に外せないって、クレメンスが何度も言っていたのに……。
この女性はすごい魔法使いに違いない。
そんなことを考えていたら突然強い光に包まれた。体の中に魔力が満ちてくるのを実感する。物凄いエネルギーが体に入って来る感覚……。
「……ああ、魔力が……戻って……」
そうしているうちに警備兵たちが部屋に押し掛けてきたようだ。
新しい感覚に体がうまく動かない。
ルキウスが稲妻のような速さで警備兵たちを次々に倒していく。剣を鞘から抜いてもいないのに。
鬼神のように強いとココやピパから聞いてはいたけど、話を聞くのと実際に見るのとでは大違いだ。あまりの強さに呆気に取られてしまった。
あっという間に警備兵たちを片付けたルキウスに、美人の彼女が近づいて彼の背中を叩いた。
「凄いスピード。やるわねぇ。さすが私の婚約者!」
それを聞いた瞬間、全身に氷水を浴びせられたような気持ちになった。
……婚約者?! ルキウスの?!
体から血の気が引いていくのを感じる。
ルキウスに恋人がいたって不思議じゃない。ましてや、こんなに魅力的で魔法も強い恋人なんてお似合いじゃないか、と自分に言い聞かせても、どうしても受け入れがたい感情が湧きあがってくる。
「……婚約者?」
つい小さな声で呟いてしまった。声が震えるのを止められない。
ルキウスは私の声が聞こえたようだ。
「後で説明する。今は逃げるぞ!」
大声で怒鳴られて我に返った。そうだ。今はそんなことでショックを受けているヒマはない。
気持ちを奮い立たせて頷くと皆で部屋の外に出た。
「部屋の外に出れば魔法が使えるのよね? 聖女、あんた転移はできる?」
「大丈夫です!」
本で勉強しただけで実際に魔法を使ったことはないけど、それを言うのは何故か悔しかった。
「……いい返事ね。その子と一緒に北から二時の方向100kmのところに転移して!」
彼女は指示しながらルキウスの手を握る。
私はすぐにアガタの手を握り、言われた方向に必死で転移魔法を念じた。
暗記するくらい魔法学入門を読み込んで勉強したけど、初めての魔法で一気に100km転移するなんて無理だった。
最初は数キロしか進まない。何度か転移魔法を繰り返している内にコツがつかめてきた。
あの魅力的な女性は、ルキウスを連れても軽く100kmくらい転移できるのか。優秀な魔法使いだな。
ルキウスとお似合いだなと考えると、また胸がズキズキして集中できなくなる。
ちゃんとしないと!
心の中で気合を入れて何度目かの転移魔法をかける。
気がつくと私とアガタは草原の真ん中に立っていた。少し離れたところに小さな町があって、教会の尖塔が中心に見える。
北から二時の方向に100㎞くらいって、頭でイメージしながら念じたんだけど……。上手くいったのだろうか?
「ユリア様! あそこに」
アガタが指さした方向に二人の人影が見えた。
200メートルくらい離れているだろうか?
目を凝らすと男性とドレスをきた女性の人影に見える。あの二人に違いない。
アガタと手をつないで走り出した。
近づくとやっぱり間違いない。ルキウスも必死で走ってきてくれた。
ハァハァ息を切らして首筋にも汗をかいているルキウスはとても色っぽい……なんておバカなことを考えていたら、いきなりルキウスに抱きしめられた。
「……ユリア、良かった……。無事で……。会いたかった……」
振りしぼるような声で耳元に囁かれると、ときめいてしまうから止めてほしい。
……だって、ルキウスにはあんなに素敵な婚約者がいるんでしょ?
その言葉は口には出せなかった。
代わりに涙がボロボロこぼれて、思いっきりルキウスにしがみついた。
「わ、わたっ、わた、私も会いたかった。寂しかった……」
しゃくりあげると抱きしめるルキウスの腕の力が強くなる。
ルキウスは私の首筋に顔を埋めながら背中に回した腕に力を入れた。首に彼の熱い吐息を感じて心臓が激しく波打った。武骨な大きな手で愛おしそうに頭や髪を撫でてくれるのが気持ちいい。
アガタは傍でそっと涙を拭っていた。彼女もずっと味方でいてくれた。感謝してもしきれない大切な存在だ。
「……感動の再会ってとこかしら? 私の紹介はしてくれないの。ねぇ、ルキウス? 愛しい人」
突然降ってきた声に背中に冷や水をかけられたような気持ちになった。
慌ててルキウスから離れると「ごめんなさいっ」と頭を下げる。
ルキウスがのろのろと頭を動かして婚約者の方を見ると、何故だか彼女の瞳はキラキラと煌めいていた。
「……ユリア、彼女はモナ。俺の……婚約者だ」
ルキウスが言うと、モナさんは両手で私の手を握りしめた。
「噂はずっと聞いていたの。ユリウスとお似合いだって。お会いするのをとっても楽しみにしていたのよ! ルキウスと結婚したら、妹になるんだものね! ルキウスはあなたのことを血はつながっていないけど、妹のような存在だってずっと話していたから……」
内心衝撃を受けながらも、表情には出さないように気をつけて笑顔で応対する。
「私もルキウスの大切な方にお会いできて嬉しいです。素晴らしい魔法使いでいらっしゃるのね。こんなに綺麗で素敵な方が婚約者なんてルキウスは幸せ者だね。おめでとう!」
ルキウスが私を妹のようにしか思っていないことはずっと知っていたのに、彼女に強調されるとどうしてこんなに胸が痛いんだろう?
ユリウスとお似合いって言われて、どうしてこんなに悲しいんだろう?
モナさんは無邪気なだけで悪気はないんだろうな。人懐っこくて社交的な女性なのだろう。
「それよりもこの後どうするかと考えよう。ユリウスとファビウス公爵も逃げたはずだ……落ち合う場所はこの近く。まずは彼らと合流しないと」
ルキウスが独り言ちた。
「あ、あの、とにかく隠れた方がいいと思います。今朝女王は空飛ぶ魔物に乗っていました。魔物は空から視覚と嗅覚で獲物を探すらしいです。だから、取りあえず姿と匂いを隠す魔法を皆さんにかけてもいいでしょうか?」
そう提案するとモナさんが面白いものを見るような目で私を眺めていた。
何となくモルモットを見る研究者の視線に似ているような気がして居心地が悪い。前世でよく見かけた目つきだ。
全員に姿を目視できなくする幻惑の魔法と、嗅覚で匂いを感じられなくするような攪乱の魔法をかけた。
うまくいきますようにと祈るような気持ちであった。