プロローグ-前世の記憶
*異世界に転生するまで少々お待ち下さい。
気がついたらいつも視界に彼女がいた。
知らず知らずのうちに好きになっていたんだと思う。
僕は農学部で応用生命科学を専攻する大学院生だった。博士課程に入ったばかりの僕を丁寧に指導してくれたのが彼女だった。彼女はポスドクとして研究を続けながら、教授の手伝いも含め、学生の指導や研究室の雑用全般も担当してくれていた。
彼女に質問すると、いつも簡潔に分かりやすく答えてくれた。バイト先の無駄口ばかりで仕事をしない人間にうんざりしていた時でもあったから、彼女の無駄のない、ある意味素っ気ない態度が逆に新鮮だった。
それに彼女は学生達のために道具を揃えたり、困っている学生の指導をしてくれたり、多くの面倒な仕事を引き受けてくれる研究室にとって無くてはならない存在だった。
でも、無口で……多分すごく不器用な人なんだと思う。あまり人と打ち解けることをせず、教授にも学生達にも一線を引いているような印象があった。
彼女は端整な顔立ちの美人だったが、常に無表情で口数も少ない。「ロボットみたいだな」などと影で揶揄する学生もいた。
教授秘書を除くと研究室の紅一点だったのにも関わらず、男どもはどこか彼女を恐れていた。学術誌への論文掲載数も学会での発表数も、研究に関して彼女が間違いなくトップレベルに優秀だったことも理由かもしれない。
彼女はいつも独りで作業をしていた。培養は時間と手間がかかる作業なので、常にタイマーを首からぶら下げて、皆で昼食を食べている時でもタイマーが鳴ると慌てて走って研究室に戻る。
そんな後ろ姿を見ながら「彼女が笑う時なんてあるのかな」なんてぼーっと考えていた。誰も彼女の笑顔を見たことがなかったから。
ある日、培養中の細菌が気になって朝早く研究室に来たら、実験室でカシャカシャ音がする。
「こんな早くに誰かいるのか? まだ5時だぞ」と思って覗いたら、彼女がシンクで試験管や装置を洗っていた。あれは……夕べ誰かが使ったまま放置した道具じゃないか?
黙々と実験道具を洗う彼女の後姿を見ていたら、少し腹が立って来て、彼女に少し乱暴に声を掛けた。
「なんでそんなの洗ってるんすか?使った奴に洗わせればいいじゃないすか?」
彼女は驚いたのだろう。ビクッとして恐る恐る振り返った。
そして俺の顔を見ると、安堵したように微笑んだ。
「なんだ~! 鴨くんか! びっくりした。どうしたの? こんなに早く?」
初めて見る彼女の微笑みに僕は一瞬硬直したが、一度深呼吸をすると落ち着いた。
……可愛い。
「いや、ちょっと用事があって。それより、それ夕べ学部生が使ってた道具ですよね? なんで高田さんが洗ってるんすか? 使った奴にやらせればいいじゃないすか?」
僕は仏頂面で話を戻した。
彼女は一瞬虚をつかれたように無言になったが、ほっと息をついて首を振った。
「他の人が使いたい時に無かったら困るでしょう? 使った人が洗うまで待つのも面倒くさいし。皆が使うものだから。私の仕事は基本雑用だからいいのよ」
そう言ってもう一度洗い物の続きを始めた。
「手伝いますよ!」
僕は何だか腹が立って、腕まくりしながら彼女の隣に立った。
彼女は驚いたように僕を見つめている。
「ありがとう。優しいのね」
今度は大きくニッコリ笑った。
その笑顔に内心ドキドキしながら、慎重に試験管を洗っていく。
二人で並んで洗いながら僕達は色々な話をした。
普段無口な彼女が思いがけなく饒舌になって、僕は少し舞い上がってしまった。
この時間帯はいつも研究室には誰もいないから、彼女は独りで伸び伸びと実験できること。
今後就職をどうしようか悩んでいること。
実は彼女の研究テーマは土壌学、水理学といった分野で、今の研究室のメインのテーマからは少し外れていること。だから、助教になれる可能性は低いこと。
「だから、一般企業に就職することも一つの可能性として考えてるんだけどね……」
少し不安そうに言う彼女の横顔を見ながら、僕は今まで知らなかった彼女の一面を垣間見た気がして、胸がときめいた。
優秀でしっかりしていて悩みなんて無さそうな彼女が僕に胸の内を打ち明けてくれているということで僕は浮かれていたんだと思う。
「一緒に朝御飯食べに行きませんか?」
今まで女の子なんて誘ったことなかったのに、つい調子に乗って声を掛けてしまった。
「やべ、断られるかも」と不安に思ったのは一瞬で、彼女は驚いたように目を見開いたけど、少し照れくさそうに頷いてくれたのだった。
その日LINEの連絡先も交換して、僕達は親しくなった、と思う。
僕は朝早く研究室に行くのが日課になった。
彼女の雑用を手伝ったり、研究の指導をお願いしたり、という実利的なものだけでなく、彼女と二人で話が出来る一時が何よりも楽しかった。
いつもは滅多に見られない彼女の笑顔を沢山見ることができた。
少しでも迷惑そうな素振りをされたら、朝早く行くのは止めにしようと思っていた。
彼女と二人きりだと嬉しくてつい口笛を吹きながら作業することもあった。
彼女は目を丸くして「口笛、上手いのね!」と手を叩いた。
「その曲、聴いたことある……。えーと、何かのアニメのテーマじゃなかった?」
「ああ、昔好きだったんで……。このテーマソングはすごく人気があって」
「うん、私が聴いたことあるってことは相当人気が高かったんだと思うわ」
無邪気に笑う彼女を見ていると、可愛すぎて思わず抱きしめたくなる。勿論、そんなバカはしなかったけど。
僕達はあくまで親しい研究室仲間、という範囲を出ることはなかった。僕は過去に付き合った恋人は何人かいたけど、自分からアプローチしたことがなくて、どうやって距離を縮めたら良いのかさっぱり分からなかったし、彼女も常に僕から一定の距離を置いていたと思う。
そんな僕達の関係が変わる時がきた。
学生は何かと理由をつけて飲み会を開くのが好きだ。彼女はほとんど飲み会に参加することはなかったけど、世界的に有名な学術誌に彼女の論文が掲載されたお祝い、という名目の飲み会はさすがに断れなかったようだった。
居酒屋で、慣れない座敷に戸惑いながらも、足を崩さずに背筋を真っ直ぐ伸ばして正座する彼女は綺麗だなと思った。すかさず以前から彼女を狙っていると公言していた助教が彼女の隣に座る。胡坐をかいた膝が彼女の腿に思いっきり触れている。
おいおい、やたら距離が近くないか?
文句を言いたくなるのを堪えて、反対側の彼女の隣を死守することに成功した。
彼女はちらっと僕の方を見ながら会釈をする。その目が安堵しているように見えるのは僕の希望的観測なんだろうか。他の学生達がヒソヒソと僕達を見ながら噂話をしていたが、もう外聞なんて構っちゃいられなかった。
酒が回ってくると助教はますますボディタッチが増えた。セクハラじゃね?と思うような言動が多くなって、彼女は無表情ながらも腰が引けているのが分かった。逃げるように少しずつ僕の方に身を寄せて来る。僕も波風立てないように助教のセクハラから彼女を守ろうとしたが限界があった。
「……だからさぁ!高田ももう20代後半だろう?そろそろ男作った方がいいぞ!まだ処女なんだろう?俺が懇切丁寧に教えてやるからさぁ」
そう言いながら、ガバッと彼女に抱きついた助教を押し返そうと彼女は真っ蒼な顔をしながら必死だった。俺はもう我慢が出来なくて、助教を無理に彼女から引きはがした。幸い僕はガタイが良い。趣味は筋トレだ。
「高田さん、気分が悪そうなので、僕が送って行きますね。清算は後でお願いします」
ポカンと僕を見る助教にきっぱりと言って、彼女の手を引いて立ち上がった。
研究室の面々も呆気に取られて僕達を見つめている。
そんな中、彼女の手を引いて店を出るのは何だか気分が良かった。
彼女はカバンを胸に抱えたまま、大人しく付いて来てくれる。
「あの、家どこですか? 安全なところまで送りますから」
僕が尋ねると俯いていた彼女が顔を上げた。
何故かひどく焦った顔をしている。
「あの……ごめんね。助けてくれてありがとう。でも、どうしよう……? みんな誤解したよ。迷惑かけちゃった。本当にごめんね」
慌てて謝り始めた彼女に僕は驚いた。
「え!? 何の話? 迷惑なんて全然かかってないけど……。僕が無理に連れ出したんだし」
しかし、彼女は焦れたように言い募る。
「もう! 絶対みんな誤解したよ。『あいつらデキテル』とか絶対今ごろ酒のネタにされてるよ? どうしよう……? 誤解だって説明しないと鴨くんに迷惑がかかっちゃうから。鴨くんの彼女さんにも悪いよ」
「僕は別に迷惑じゃないし……。それに彼女はいませんけど……。高田さんにとって迷惑だったら、僕から訂正しておくので……」
彼女の顔が急に紅潮した。
「え? いや、そんな、私も別に迷惑じゃないよ。ただ、私みたいなおばさんと変な噂になったら鴨くんは嫌じゃない?」
思わず僕は噴き出した。
「おばさんって……? 年だってたった三つしか違わないじゃないすか。僕にとっては、そんな噂も結構嬉しいけどな」
彼女の顔が更に赤くなる。
「わ、私も! 嬉しいけど! 鴨くんは……優しくて素敵だなって……いつも思ってた」
僕の心は思いっきり弾んだ。
「え!? ホント? それじゃ噂を本当にしちゃう?」
まだカッコつけたい僕はあくまで冗談っぽく告白してみる。
彼女は俯いてモジモジしながら呟いた。
「……それは、その、遊びで付き合うってこと……かな?」
彼女の不安そうな声を聞いて、僕は男らしくなかった、と後悔した。
「変な言い方してごめん。遊びじゃない。高田さん。あなたがずっと好きでした。僕と付き合って下さい!」
相手の目を見ながらはっきりと言うと、彼女の顔が真っ赤に染まり、両目に涙が盛り上がった。
「あ、あの……私、今まで男の人とお付き合いしたことなくて……。その、迷惑かけたりするかもしれないし」
両頬に手を当てながら彼女が呟く。
「僕のこと、どう思います? 好き? 嫌い?」
「そりゃ! す、好きよ……。でも、鴨君モテるのに……わざわざこんな地味なおばさんじゃなくても……」
「僕の好きな人を悪く言わないでもらえます? 地味でもないし、おばさんでもない。可愛いなっていつも思ってました」
ポロっと彼女の目尻から涙が零れると、僕は我慢できなくなって彼女を抱きしめた。想像よりも華奢な体に愛しさが増す。
彼女が力を抜いて僕に身を預けるのを感じると、僕は彼女の耳元に口を近づけた。
「……付き合ってくれる?」
念を押すと、僕の腕の中で彼女はコクリと頷いた。耳まで真っ赤な彼女は堪らなく可愛かった。
*****
その日から、高田実奈という女性は僕にとっての特別になった。
だけど……
その数か月後、僕が横断歩道を渡っていたところに暴走車が突っ込んできて、僕は呆気なく死んでしまったのだ。
彼女を残して……