政務官キースの結婚
その日は、朝からおかしな天気だった。
横殴りの雨が降ったかと思うと急に晴れ、輝く光が降り注いだり、生暖かい突風が整えた髪をぐしゃぐしゃにしたかと思うと、分厚い雲が広がって辺りを薄暗く覆ったり。
どんよりとした鉛色の空を眺めながら、自分の心と同じでついに天気もおかしくなったか、と勝手に考えたキースは、辺りに聞こえるくらいの大きなため息をついた。
休日の今日、キースは実家に呼ばれた。嫌々ながら向かった実家は暖かくて優しくて、キースは逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
自分を信頼していることがわかる弟や妹の視線が痛い。父母の無条件の愛が怖い。
多少の作り笑いを貼り付けて訪れた実家で、キースの表情は一瞬で崩れることになった。
「は……? 今なんて?」
「やだわあ、キース。性格だけじゃなくて耳まで悪くなっちゃったの?」
少女のように笑う母が、辛辣なことを言いながらキースの背を叩いた。
父はそれを見てうんうんと頷きながら、一枚の紙をキースの目の前に差し出す。
それはきちんと折りたたんだ手紙で、かなりの年数が経っているものだった。
「だからね、この前この手紙を渡されてね、そこに書いてある通りキース、結婚してね」
にこりと笑って言う父の顔は危険だ。この笑顔の時の父は何を言っても意味がない。幼い頃から何か反抗しても無言の圧力を感じる、そんな恐ろしい笑顔なのだ。
キースは恐る恐る手紙を手に取ると、折りたたんだ紙を開いた。
そこには少し癖のある字が二つ。
一つはキースの祖父の名前、並んで別の男性の名前書いてある。
内容はお互いの孫が異性の場合は結婚させるとあり、これは魔術契約によるもので、魔術師二人によって締結されお互い以外には解除できないとなっている。
「なんだよ、魔術契約って……じいさん確か魔術師だったよな、ということはこれ、本物か? おい、俺にどうしろって言うんだよ!」
思わずテーブルを押して立ち上がってキースは叫ぶ。ガタガタとテーブルが揺れる音だけが部屋に響いた。
魔術契約とは、魔術を用いた契約である。
契約内容によって様々だが、その中には契約解消は術を施した者以外にはできないようになっているものがある。キースの祖父が残したのはまさにそれで、祖父はすでに他界しているためキースの側からは契約を解除できない。そうなるとあとは、相手の魔術師だけなのだが……
「まさか、相手の魔術師も死んでるなんてことは……」
キースは視界の奥で、両親が深く頷くのを見た。
「そこに名前のある方も魔術師だったらしい。それで二人で契約したと……」
「うそだろ……」
キースは頭を抱えて、テーブルに突っ伏した。
祖父二人ともすでにこの世になく、他の魔術師も解除することができない契約では、キースになす術はない。
孫が同性の場合は契約は無効になったのだろうが、キースの他にも弟と妹がいるのだ。相手の性別がもし男だったとしても、キースの妹がその対象になっていただろう。そう考えると、かわいい妹に苦労をさせるよりはまだマシなのかもしれない。
「もし、誰もこれに従わない場合はどうなるんだ」
ふと気がついてキースは問う。
一方的に破棄した場合はどうなるのか、普通の商売の契約の場合は、それ相応の負債を負ったりするが結婚の契約の場合はどうなるのだろう。
「それはわからないが、きっとお前も相手も、一生結婚できないんじゃないか」
「そ、それは……」
キースだって人並みに結婚に夢をもっていた。いずれやさしくてかわいらしい女性とあたたかい家庭を築きたいと思っていたのだ。そのささやかな夢も叶えることができないのはあまりに切ない。
キースの心の動きを察したのか、母がやさしく、しかし少し棘のある言葉を発し、続けて父がのんきに言う。
「逃げちゃダメよ。相手のお嬢さんには誠意を見せて、優しく大切にするのよ。いくらあんたが女心がわからないろくでなしでも、それくらいできるでしょ」
「おい、ひどい言い方だな」
「いや、その通りだ。相手の方には明日会うことになっているからそのつもりでね」
「おい、親父もさらりと同意するなって、明日って急すぎないか⁉︎」
「相手のお屋敷でお会いすることになっているよ。お前一人で行くことになってるからよろしく」
「は……? お屋敷? お屋敷って……」
「相手の方は貴族だから失礼のないようにね」
キースは、死んだ祖父を恨んだ。
翌日、政務官の制服に身を包んだキースは、王都の外れにある屋敷の前に立っていた。
案内されて入ると、門から続く緑のアーチが心地よく、手入れが行き届いている様子が伺える。屋敷の中も華美ではないが整えられ、嫌な印象はない。
貴族と聞いて、ゴテゴテ飾り付けられた家だったら帰ろうかと本気で考えていたキースは、ほっとして胸を撫で下ろす。
仕方ない話ではあるが、それでも相手の家族とは価値観が違いすぎない方がいいと思うのだ。と言っても貴族と平民の間には根本から異なるものがあるのだが、そこはあえて考えないようにした。
「少しお待ちくださいませ」
「あ、はい」
応接室に案内されしばらくすると、屋敷の主人とその令嬢がしずしずと部屋に入ってきた。
「君がキース君だね、よろしく頼むよ」
「キース・アクトです、局長」
「はは……局長はやめてくれるかい? 君は義理の息子になるんだからね。ああ、腰掛けて楽にしていいよ」
「は……」
キースは促されるままにソファに腰掛け、目の前の親子に視線を移した。
ゆったりと座るのはこの家の主人であるスウェイト子爵で、隣は令嬢のマリーベルである。
夫人はこの場にいないからわからないが、おそらくマリーベルは父親似であると思う容姿だった。
二人ともアッシュブラウンの髪に、深緑の瞳の美しい顔をしており、マリーベルの頬にさす赤みがかわいらしい。
父親のテオルド・スウェイトは財務局の局長で、切れ者だと噂の男である。同じ政務官でもその立場には天と地の差があり、宰相補佐官のその部下のさらに部下、という立ち位置のキースとは全く接点がない。しかし当然顔と名前は知っている。
あの手紙を見せられた時に相手の魔術師の名前からまさかと思い、その後自分の記憶の引き出しの中身をひっくり返して探して一致した時には身震いしたものだ。
父親も自分もただの政務官の家の者が、局長の娘と縁付いていいものだろうか、と。
「君のことは宰相補佐官殿から聞いてるよ」
「は……恐れ入ります」
──何を聞いたんだ、何を!
心の中ではキースは滝のような汗を流していたが、当然おくびにもださない。政務官ならば身につけるべき初歩の処世術である。
「私は君の上司に直接聞いたわけではないけどね、補佐官殿の話では君の上司にはなくてはならない存在だとか。それほど頼りにされている右腕ならば、娘の伴侶としても間違いはなかろうと思ってね」
意外にも自分の上司が評価してくれているのを知り、キースは動揺した。何せキースの上司は有能なくせに優柔不断で仕事が遅い。遅いというよりやりたがらない。そんな上司に文句ばかり言っているのである。もちろん、そうやって強く言わないと仕事をしない上司なので、必然的にキースの役割がそうなってしまっただけなのだが。
「では、よろしく頼むよ」
そう言ってテオルドは、笑顔で部屋を出て行ってしまった。
部屋に残されたのはキースとマリーベルの二人。
通常、貴族の令嬢は男と二人きりになることはない。普通は必ず使用人が控えているのだが、その時は完全に二人きりだった。
よほど自分を信頼してくれているのか、それとも他に理由があるのか、キースには判断がつかなかった。
「あの、キース様は、お付き合いされている方は?」
しばらく談笑した後、突然マリーベルがキースに問いかけた。若い女性としては気になることなのだろう。キースは苦笑いを浮かべながら答えた。
「仕事が忙しくて、なかなかそういう機会はありませんでした。ですので、恋人はいません。これからはマリーベル様、あなただけです」
「まあ!」
マリーベルはその白くほっそりとした手で口元をおさえた。
キースには恋人はいない。
しかし、一夜を共にする女性は存在する。だが、それをわざわざ伝える必要はないし、結婚が決まったらキッパリと精算するつもりでいる。それがマリーベルに対する誠意だと思っているからだ。
「私達は結婚するのですから、様はいりませんよ。キースと呼んでいただけませんか?」
「うふふ、では私のこともマリーベルと呼んでもらえるかしら? 話し方も普段のものに変えてもらえるとうれしいわ、キース」
「ありがとう。君のことベルと呼んでもいい?」
「お父様とお母様はマリーと呼ぶの。特別な感じがしていいわね」
マリーベルには弟がいて子爵家はこの弟が継ぐことになっている。いくら財務局局長の娘とはいえ貴族の令嬢がただの政務官の妻として暮らすことに不安はないのか、そう思って疑問を口にすると意外にも明るい言葉が返ってきた。
「私、貴族令嬢らしくないとずっと言われていたから大丈夫だと思うわ。でも、慣れるまでは大変かもしれないから、お父様に助けていただくことになると思うけど」
「できるだけ、君が困らないように努力するよ」
恥ずかしそうに笑うマリーベルに、案外この結婚は悪くないかもしれないとキースは思った。
マリーベルは子爵家に生まれた。
領地を持たぬ名ばかりの爵位だが、二年後弟が生まれたため、当然のように家督は弟が継ぐことになった。
マリーベルはいずれ誰かと結婚して家庭を築く。その決められた、貴族の常識では当たり前だとされることに疑問を持っていた。祖父が魔術師、父が財務局局長という家庭に育ったこともあり、少し変わった子供だったのかもしれない。
体を動かすのが得意だったマリーベルは、父を説得した後、十六で騎士団に所属した。男性に比べれば少ないが女性騎士も増えてきている中で父はマリーベルの意思を尊重してくれた。騎士団での任務は厳しいが充実したものだった。
マリーベルが二十になった時、父に呼び出されて聞いた話は、とてもではないが信じられるものではなかった。
「つまり、私には婚約者がいると?」
「そういうことになるな。亡くなったお前の祖父の遺言としてこれを預かっていた。お前が二十歳になった時、まだ一人だったらこれを開けるように、そうでなければ開けずに燃やすようにと」
そしてその手紙は開かれ、内容がマリーベルに伝えられたというわけである。
マリーベルは父から受け取った手紙の文面を、食い入るように見つめた。
二人の魔術師の名前と、その内容に馬鹿げたことと思いながらも、小さな諦めのため息をつく。
「魔術契約が施されているのでしょう? きっと私がこの手紙を見ることで発動し、誰にも解除はできないのでしょうけどね」
「冷静だな」
「いずれ誰かと結婚しなければならないと思っていたから、誰でも同じだと思うわ。せめておじいさまのご友人の孫という人がまともだったらいいんだけど」
申し訳なさそうに娘を見つめる父の視線が少し気になったが、マリーベルはつとめて淡々と振る舞った。
祖父がどういうつもりでこんな契約をしたかはもうわからないが、これもいい機会なのかもしれない。
明日からこの魔術師の孫のことを調べてみようと、彼女は思った。
魔術師の孫の名は、キース・アクトと言った。
年齢はマリーベルの四つ上の二十四歳。王城の政務官で、宰相補佐官の部下の部下という、出世コースにギリギリ乗りそうという微妙な位置にいるようだ。仕事はできるしうまく立ち回っており、上司に頼りにされているのでいずれ実力相応の評価を得るだろうことが予想された。
身長は男性の平均より少し高めで、騎士などと違って鍛えていないため細身だ。彼が武術や体術が得意だという話は聞いたことがなかったので、戦えば必ず勝つ自信がマリーベルにはあった。
顔立ちは普通。しかしそこそこ整っているから嫌悪感はなく生涯を共にするのに問題はない──そうマリーベルは結論づけた。
ただ一つだけ、彼には体の関係の女性がいるらしい。当然そちらとは縁を切ってくれるものと信じているが、もし続くようならそれ相応の制裁を課すのもいいかもしれない。
そうしてマリーベルはこの話を進めてほしいと父親に伝え、数日後、緊張した面持ちでやってきたキースと対面したのであった。
王城の政務棟に複数ある執務室の一つで、キースはひとつの陳情書に取り掛かっていた。
キースの仕事は主に各都市から上がってきた陳情書を精査し、それを上司に報告する業務である。もともとキースともう一人同じ業務を行う担当者がいたのだが、病気で休職してからもう半年も空席のままだ。
怠けがちな上司の背中を押してなだめて叱咤するのも仕事のうちなので、キースの仕事は膨大で、とても休みを取る暇がない。
それでも、そろそろ休みを取って相手との時間を作らなければ失礼だろうと、上司に報告する。
「婚約者と会いたいので休みをください」
全く敬う態度も見せずに伝えると、上司は目を丸くして飛び上がる勢いでキースに駆け寄った。
「え、キースいつのまに婚約したの。ま、まさか子供ができたからすぐに結婚して、地方にある相手の家で暮らすから辞めるとか言わないよね?」
「辞めませんし、子供もいませんし結婚は半年後です。それに、相手の家も王都にあります」
「よ、よかったー。お前が辞めたら僕、宰相補佐官様の下で働く自信ないから、そうしたら僕も辞めるから」
「何言ってるんですか。生まれたばかりの娘さんのために稼ぐんでしょ。奥さんに怒られますよ」
「そ、そうだった」
「それに、補佐官様が絶対に辞めさせてくれないと思いますが」
キースはじとりと上司を眺めた。
この男はキースより五つ年上のはずなのに、いつも年下のように扱ってしまう。この男はとても有能で宰相補佐官に信頼されているのに、やる気に乏しいのが困ったところなのだ。
「ということで、私が辞めなくていいように定期的に休暇を取らせていただきます。よろしいですね?」
こうしてキースは休暇の許可を取ると、マリーベルと何を理由にして会ったらいいか考えた。
婚約者なのだから結婚式について話し合うのでもいいのだが、これから家庭を作っていくのだから、もっとお互いを知る機会があってもいいと思った。
よく考えるとキースはマリーベルについて、財務局長であるテオルド・スウェイトの娘で子爵令嬢であることしか知らない。初めてあったあの日からもう二週間以上が経っているというのに、キースは彼女の性格も好みも、何も知らなかったのだ。
業務終了後、政務棟を出て夕焼けに染まる中庭を歩いていると、前方から見知った政務官の女性が歩いてきた。
彼女はキースに気がつくと、笑みを浮かべてすれ違いざまにキースの手に触れる。それはいつもの二人の逢瀬の合図だった。
「なあ」
キースは後ろを振り向いて女を追った。
「もう、終わりにしていいか。結婚することになったんだ」
すると歩みを止めた女は、意外そうに目を大きく見開き、小さく笑った。
「実は私もそろそろ飽きてきたところ。だから、いいわ」
「ごめんな」
「いいのよ。お互い割り切った付き合いだったしね。それにしても、あなたに先を越されるとは思わなかったわ。お幸せにね」
少し寂しそうに笑う姿を見送りながら、キースが踵を返して歩き出したとき、前方に騎士団の制服を着た二人の騎士の姿が見えた。
楽しそうに話しながら歩く二人は男女の騎士で、一人はたくましい体型の騎士、そしてもう一人は女性のようだった。
キースにずっと横顔を見せた状態で騎士団棟の方角に消えた二人の騎士は、どちらも明るい笑顔を浮かべていた。
「──ベル……!」
アッシュブラウンの髪を後ろで一つにまとめ、男性と同じ騎士団の制服に身を包み帯剣するその女性騎士は、間違いなく彼の婚約者のマリーベルだったのだ。
自慢ではないが、キースは一度自分が意識して覚えた人間の顔は忘れない。目もいいし、遠目でもはっきりと認識できる。
──マリーベルが騎士だと?
王城に勤務する以上、騎士団長、副団長クラスの騎士は接点がなくとも顔も存在も知っている。しかし、それ以外の騎士とはいつも決まった相手との会話がほとんどだ。まして数の少ない女性騎士のことなど知ろうとも思わなかったのだ。
これはまずい。
これでは母が「女心がわからない」というのも当然かもしれない。
マリーベルと初めて対面した時、もし彼女のことを少しでも知っていればそこから会話が広がったはずなのだ。その時点で知らなくても、その後今日まで二週間もあったのだから、それを知る努力はできたはずだ。仕事が忙しいのは今に始まったことではないのに何も動かなかったのは自分の落ち度だ。
決められた結婚だからこそ歩み寄らなければならないのに、一歩躓いてしまったことに今更ながら気がついて、キースは頭を抱えた。
マリーベルは、緊張した面持ちで彼女を待つキースの姿を見つけて、意外なほど気分が浮き立つのを感じた。
その日、マリーベルはキースに誘われて王都の商業地区にいた。
王都は貴族の居住区と平民の居住区、そして商業区の三つにわかれ、農民は王都を囲む町で農業を営んでいる。商業区には貴族向けの高級店から平民用の手頃な店まで豊富にあった。
キースとはなかなか休みが合わず、会うのはこれが二回目だ。最初の対面からすでにひと月が経っていた。
キースは忙しい仕事の合間を縫ってマリーベルに手紙を送ってくれたし、マリーベルもできるだけ丁寧に返事を書いた。手紙の送り先はそれぞれが暮らす政務官と騎士団の官舎だったため、何回か手紙のやりとりをする頃には他の人間にも二人の手紙に生暖かい視線を送るほどになっていたのである。
「待たせて悪かったわね、ごめんなさい」
思わず駆け寄って声をかけると、キースがすぐに視線を向けた。その顔が一瞬喜びに満ちるのをしっかりと目に焼き付けると、マリーベルの口元にも自然に笑みが浮かぶ。
その日のキースは、平民の若い男性が好んで着ているシャツとズボンという格好だ。シンプルながらも生地は良い素材を使用しているようで、それがマリーベルの目にもよくわかり、自分とのデートにきちんとした服装で来てくれるキースの心づかいにうれしくなった。
一方、マリーベルは町娘の装いである。
仕事は騎士服で、官舎に帰ってからはこれも支給品の部屋着という服装しか持っていないマリーベルは、まさか貴族令嬢の着るものを用意するわけにもいかず、女性騎士の仲間に相談してこの服装になっている。
「いや、それほど待ってないよ──ああ、ベル。そういう格好もよく似合うな。とても素敵だ」
さらりと褒めるキースに、自然と頬が赤くなる。
やはり政務官、無骨な騎士などとは違って言葉で相手の気持ちを揺さぶることができるようだ。
「あ、ありがとう。あなたも、制服しか見たことなかったけど、そっちの方が自然でいいわ」
「そう? うれしいね」
にこりと微笑んでさりげなくエスコートするキースに、マリーベルはこの男はもしかしたら女性の扱いに慣れているのかもしれない、と認識を改めていた。
庶民向けのレストランの個室は陽の光の差し込む明るい部屋だった。
キースは向かい合って座るマリーベルの表情に目が離せない。
キースは食事中のマリーベルの美しい作法に感心し、食事の味にも舌鼓をうち、普段の自分からは考えられないくらい饒舌になった。
マリーベルと思った以上に打ち解けて話ができることに感激し、余計なことを口走っていないか心配になるレベルだ。
すでに手紙のやり取りでお互いの状況は知っていたが、実際目の前で動いて喋っている彼女は、キースの想像を超え遥かにかわいらしい女性だった。
最初、ただの貴族令嬢としか思っていなかったマリーベルは、意外にも騎士団に所属しており、数少ない女性騎士として自分の仕事に誇りを持っていた。政務官として、責任をもって仕事にあたっているキースとしても、彼女の態度は好ましい。騎士として働いているせいか、激務のキースの事情も理解してくれる得難い人物だと思う。
不思議なことに意識しだした途端、王城でマリーベルを見かけることが多くなった。
それだけならまだいい。その時はなんとなく気分が良くなるのだから。問題は彼女が他の騎士と一緒にいた時だ。
マリーベルは男所帯の騎士団においては高嶺の花だ。凛として美しく、財務局長の娘で子爵令嬢。それなのに気取ったところがなく、一騎士として真面目に任務に取り組んでいる。もしかしたら……と思う男がいてもおかしくない。
マリーベルを見つめていると、彼女を自分と同じように見つめる視線にぶつかることが何度かあった。
おそらく鈍いマリーベルは気づいていないと思うが、さりげなく彼女の腰や尻に触れる男も複数いて、思わずキースは駆け寄って男を引き離したくなったことが何度かあった。
──彼女は俺のものだ。
そんな気持ちがふつふつと湧いてきて、キースは眠れない夜を過ごしたこともある。
マリーベルを思うと、体が熱くなる。そして、心が締め付けられる。
自分がここまで誰かを求めることは初めてのことだった。
しかし、それを表に出してしまったらマリーベルは手に入らない。
キースは荒ぶる気持ちを押さえつけて、できるだけきれいな言葉を綴った手紙を送った。ドロドロした男の気持ちを見透かされぬように細心の注意をはらって。
「──実は、王女殿下付の近衛への内示があったの」
キースが心の中の自分に問いかけている最中、マリーベルが爆弾を投下した。
「──は?」
「王女殿下は先日ご病気から回復されたばかりでまだ本調子ではないから、お側に仕える騎士を増員するそうよ。その中の一人は女性にするみたいで私に話があったの」
近衞騎士。
王族の近くに仕える花形だ。
キースとは全く縁のない人間たちで、マリーベルがその場所に立つことが想像できない。
「でもね、近衞騎士になってしまうと今以上に時間が読めない生活になってしまうから……五ヶ月後には結婚することになってるし……」
「近衞騎士は結婚できないのか?」
「そんなことはないと思うわ。確か既婚者もいるもの」
「じゃあ、問題ないじゃないか? これまでだってお互い忙しくて会えないことばかりだ。実際これが二回目だしな」
「そうだけど……キース、結婚したら一緒に暮らすのよね?」
「当然だろ? 結婚するからには一緒に暮らすし子供も欲しい」
「こっ……子供は私もいずれは欲しいけど……で、でも、私、あまり帰ってこれないかもしれないわよ?」
突然、ガン、と頭を殴られたような衝撃がキースを襲った。
マリーベルはこの話を断らないだろう。一騎士の身分で断るという選択肢はないから、それを強引に行う場合は騎士も辞めるということになる。
「ベルは辞めたいわけじゃないんだろ? それなら、仕方ないじゃないか。そんな結婚生活も悪くないかもしれないぞ」
声がかすれた。
本当は、結婚したら自分に惚れさせて、ドロドロに甘やかして濃厚な夜を過ごし、気だるい朝を迎えて笑ってお互いが仕事に向かう──そんなことを想像したりもしたのだが、それは絶対に言えないことだった。
「ありがとう、キース」
うれしそうに笑うマリーベルの笑顔を崩したくない。
キースは務めて真面目な表情を作ると、かわいらしい騎士の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「──好きだよ、ベル。俺と恋人になってくれる?」
五ヶ月後、キースとマリーベルはささやかな結婚式をあげた。
快晴のその日、マリーベルはアッシュブラウンの艶やかな髪をまとめ、花嫁の初々しさと若い娘のさわやかな色気をまとっている。
彼女の白いドレスには薄い青の花が飾られ、それが自分の瞳の色だと気づいてキースは胸を熱くした。
マリーベルは美しかった。
まるで女神か妖精かというほどの美しさだった。
やっと彼女が手に入る、そう思うとキースは歓喜で震えた。
参列者はお互いと両親だけ。もしここにマリーベルの同僚の騎士がいたら、見せつけるような態度をとって彼女を泣かせてしまったかもしれない。
マリーベルに恋人になってほしいと話したあの日から、キースは彼女に対する態度を変えた。
誰が見てもマリーベルが自分の恋人であることがわかるように溺愛したのだ。
業務終了後は必ず騎士団へ迎えに行き彼女の官舎まで送ったし、マリーベルの勤務に合わせて自分も休みを取り一緒に過ごした。
マリーベルの得意な馬で王都外れの湖を訪れた時は、自分のあまりの乗馬技術の下手さに情けなくなったが、颯爽と馬に乗るマリーベルの姿は美しく、まぶしかった。
彼女の父親とは良い関係が続いているが、屋敷を訪問すると仕事の話になってしまうのがマリーベルにはおもしろくないらしい。マリーベルの母親は美しく穏やかな人で、弟はキースを本当の兄のように慕ってくれた。
キースの実家では当然文句などなく、大歓迎である。子爵家の令嬢と結婚するのだから平民のキースの家からは何か言える立場ではないし、弟や妹は騎士のマリーベルにあこがれを抱いているようだった。
マリーベルは奥手で、全く男女の関係について経験がなかったが、手を繋いだり口付けたりすることは許してくれた。
当然真っ赤になって涙目になるマリーベルの姿に、それすらも愛しいと思うのだから、もう完全にキースは彼女に囚われている。
「どうしたの?」
押し黙ったキースに、マリーベルが不安そうに問う。
王女の忠実な騎士のマリーベルとは違う、年相応の娘の表情にキースは息を飲んだ。
これから彼女のたくさんの表情を知ることができると思うと、キースの鼓動は速くなる。
「ああ……ベル」
そして、マリーベルを安心させるように軽く抱きしめると、キースは耳元に顔を近づけ、少し低めの声でささやいた。
「君のそのドレスを、どうやって脱がそうか想像してたんだよ」
直後、マリーベルの全身が一瞬で真っ赤に染まるのを、キースは笑顔で幸せそうに見つめた。
きっかけをくれた祖父に感謝しながら。