ぼやけた視界
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あの時、洋季が俺を好きだと言ったのは、冗談なんかじゃない。わかっていた。あんな状況で嘘をつく理由なんてない。
俺は目をそらしたのだ。洋季のことは好きだし、大切に思っている。だからこそ友達でいたかった。
洋季もあれからその話に触れてこないし、俺も触れることはできないでいる。
俺は女の子と居る時、あえて洋季の目につくように過ごすことにした。これで諦めてくれるのではないかと考えたのだ。ずるいやり方だとはわかっていた。
結局それは裏目に出て、洋季の視線は日に日に熱くなっていった。
どうすればよかったんだろう。
俺も洋季のことを好きになれればよかったのに。女の子のことが好きだったばっかりに、簡単に洋季のことを傷つけてしまった。
最近冬子の様子もおかしいし、四人でみんなで集まることも減った気がする。俺たちはバラバラになってしまうのかな。
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覚めることなくゆらりと燻っている私たちの熱は、まだ消えていなかった。
天国の隣は地獄で、足元をすくわれないように必死でもがいていた。歪で脆い積み木の城は、いとも簡単に崩れ去ってしまうから。
洋季の痣を見た後も、私は上手くやれていると思う。菜津のおかげだ。菜津は私の覚束ない心の機微を見逃さないで、ずれたら軌道修正を一緒にやってくれた。
最近の洋季はなんだか大人っぽくなった。いつもと違う柔軟剤の匂いをさせているときは少し胸が痛くなる。
寒い日が続くから、何枚も重ねた服の下に叶うことのない願いをひた隠しにしてなんとかやれている。春までにはもう少し上手にしまえるようになるから、お願い、まだみんなの隣にいさせてください、とこの社の主に願った。私たちは初詣に来ていた。
おみくじ引こう、という明保の提案で引くことになった。
明保と菜津は大吉で、洋季は吉、私はなんと大凶だった
「逆にすげえよお前、やっぱ持ってる人は違いますね」
明保が爆笑しだしたので、菜津は明保の背中をぺしっと叩いた。
「こんなの信じなきゃいいだけだよ、人生なんとかなるよ」
洋季まで無駄に励ましだす始末だ。いやいや、そこまで落ち込んでないから。
「しょうがないな。全員おみくじこっちに渡しな」
菜津がみんなのおみくじを奪い去った。
「これ、全部まとめたら、多分平均してみんな中吉くらいになると思うから」
菜津は四枚のおみくじを重ねて木の枝に結んだ。なんていい子だ。
「ま、冬子プラス大凶の威力が半端じゃないから、吉くらいにはなるんじゃね」
明保は私の肩に手を置いて、ばかにしたように笑った。
「あんたは菜津のやさしさに対して情緒っていうものがないのかね。寒空の下に流れた束の間の暖かい空気も台無しですわ」
私は大げさに溜息をついてみせた。
「そもそも平均とかないけどね」
洋季、あんたは時々天然さんなんだからちょっと黙ってなさいよ。
「それよりさ、俺の願ったこと、聞きたい」
と明保が聞いてほしそうに言った。
「そんなに言いたいなら、言ってみ」
と私は明保の脇腹を子小突いた。
「今年も四人仲良くいられますようにって、俺可愛くない」
明保はこてん、と首をかしげて見せた。
「可愛くないわ、ばーか」
先を行く明保と菜津はいつも通りじゃれ合いを始めたから、後ろから二人を洋季と見つめながら歩いた。
「洋季、まだ四人でご飯を食べていられそうかい」
「できることならそうしていたい、そう願っているだけじゃだめかい」
「かまわんよ」
と言うと、洋季は私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
なんだか泣きそうになったので、前の二人のところまで走り、真ん中に割り込んで二人の肩を抱いて、肉まん食べよう、って言った。
全員中吉の私たちは、この冬キムチ鍋にハマっていた。
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私は髪の毛の長さを切らなくなった。無事に単位を取って進級し、桜が散って春の風が柔らかくそして容赦なく夏の日差しを連れてくる頃、冬には肩くらいだった髪が鎖骨の下まで伸びた。あの時洋季が撫でた髪の一はぼは耳のらへんまで伸びただろうか。
ひた隠しにしていた私たちの思いも、想いも、断ち切ることはできないから、忘れたくないから、髪を切れなかった。
ちょっとだけイケメンの若い准教授は、綺麗とも汚いとも言えない字の板書を走り書きしていたし、対する黄色い声も同じままだった。
洋季はまだキスマークの相手と一緒に過ごしているのだろうか。その指はいつもその人の髪を撫でているのだろうか。
洋季に会う度苦しくなる。会わなかった日は寂しくなる。
准教授の板書は早くて多い。ほかのことをあまり考えずに済むので、今の私にはとても心地がよかった。
すっかり今の生活にも慣れてきていたし、コンビニのバイトも板についてきた。
時給が高いので深夜にシフトを入れてもらっていた。
そのコンビニはフランチャイズで、店長と奥さんで経営していた。
必ず二人体制だし、深夜は女性だけになることはない。ぶっきらぼうだけど人のことをよく見ている店長のことが好きだ。
深夜時間帯希望の新人の男の子を私が教えることになった。
その男の子は私よりも学力の高い人が入れる大学に通っていて同い年の同じ学年だった。礼儀が正しく、敬語の使いどころを間違えない。記憶力も良いし誰が悪くてもとりあえず自分がすぐに謝ることができる。彼は桜井晴彦と名乗った。
彼は何の気なしに仕事をこなして他の人ともすぐに馴染む。私とは住む世界の違う人間だった。深夜前、シフト交代の時も古参の人も彼には理不尽な文句を言わないし、むしろ構いたそうにしているから私は新しくなったレジの画面をよくわからないけど見つめていた。
私が退勤する時間はちょうど店長が出勤する時間で、実をいうと一番やりにくい時間帯だ。毎回のように注意をしてくるけど、今日もありがとうね、と排気寸前のお弁当やおでんなど、廃棄前のものが無いときは全く期限寸前ではないお弁当もくれた。ずっと働いていると、この後店長が一人になる時間帯があるのもわかっていたし、その間にレジを開けられないのに裏に仕事をしに行かなければならないことも知っていた。だから先回りをして暇なときには業務をやっておくというのが習慣になっていた。
後から店長が出勤していないときに、店長の奥さんは「新人を教えながら、本当は俺が一人の時間にやらなければいけないトイレ掃除や色々なことを俺が来る前にやっておいてくれるから助かる」って店長が褒めてたよ、と教えてくれた。
これこそが飴と鞭だ。だから売ることのできるものも私にくれたんだな。優しさが分かりづらいよ。それでも私は嬉しくなってい、菜津に興奮気味に話した。本当にうれしかった。初日から怒られていた私が信用されるようになったんだな思ったから。肝心なことを言葉にできない店長と私が似ている気がしたから。
すっかりバイト先に馴染んだ晴彦は、なんか食って帰らない、と私に聞いた。