2.幻獣
幻獣の調査および討伐のために森に来ていた女性から話しを聴いた僕は、ひとまず外に出てみて周囲の音に耳を澄ませる。シン……と物音のない張り詰めた空気を肌で感じながら目を瞑り意識を集中させていく。自身の呼吸や心臓の拍動を聞き流しながら、水のせせらぎに意識を傾けかけたその時――
時折聞こえる不気味に吹く風の中に大きな爆発音――集中しているため大きく聞こえるのだが――が森に響いた。
「魔法……はこの場所を勘付かれるか。取り合えず接近して――」
そこで家の扉が開かれる。そこからベッドに残してきた彼女がフラフラとしながらもこちらに歩む寄って来る。そして歩きながら僕に力強い眼差しを向けて話しかける。
「私も行かせてください」
「だけど……」
「行きたいんです!」
僕のすぐ傍まで来た彼女は決意に満ちた表情で僕にそう懇願した。彼女は自分が行くことで足手まといになる事は理解しているのだろう。しかしそれでも行きたい、行かなければならないと決意しているのだ。
僕としても負担になるだろう事が分かっているのだから連れて行きたくはないが、他人に迷惑をかけると覚悟してまで意思を示した彼女の意志は尊重したい。そこまでして行きたいのであれば連れて行くより他ない。
……そう思えるほど、良い仲間に恵まれたのだろうな。
「分かった。が、まだ君はフラフラだ。」
「迷惑はかけません! 私の事は置いて行っても――」
彼女がそこまで言ったところで、その言葉を遮るように彼女の傍に近づき、そして軽々とその身体を抱え上げる。俗に言う“お姫様抱っこ”である。
当然と言えるだろうが、彼女は急激に赤面して手足をバタバタと動かし、僕に抗議の視線を送る。
「ひゃぁあ! な、なにして……!」
彼女は抵抗しようとしているようだが、悲しくも体が言う事を聞かないようで、暴れる手足に力が入っていない。また、身体は非常に軽いため難なく持ち上がり、その華奢な体躯では僕の腕力からは逃れられないだろう。柔らかくて良い匂いがするが、無論変な事は考えない。
彼女に意図を説明するために口を開くその瞬間、遠い昔に置いてきた悪戯心からか、自身の口角が持ち上がっているのを自覚する。そのまま、僕は愉快な気持ちで言葉を放った。
「どうしても行きたいんだろう? じゃあ、我慢することだ!」
僕は言葉を言い終わると同時に勢いよく地面を蹴り、停止していた自身を急加速させ結界を通り抜け、視界の効かない濃霧の中へと突っ込んで行った。
「ひっ……ひゃあぁー!!」
とても愉快な表情を浮かべる彼女の大絶叫を聞きながら、全身の『魔力』に意識を注ぐ。そして周囲を漂う風をイメージしていき、魔力がそのように変化していくのを感じながら『魔法』を発動する。
「と、止まって! ぶつか……あれ?」
強く目を瞑りながら体を縮こまらせる彼女は、違和感を感じたのか恐る恐る片目だけを開けて進行方向へと顔を向ける。
「風が……」
周囲の濃霧が消えて3メートルほどの視界が聴くようになり、向かい風が全く吹いていない。まるで動いていないようだが、周囲を見渡せば木々が目まぐるしく後方へ移動していく。
彼女は視線の高さが気になったのか、状況が呑み込めないといった表情で下を見て、目を見開いて驚愕を露わにする。
「へ、うそ、飛んでる……?」
未知への恐怖からか、僕の胸元と腕を掴む彼女の手に力が入り、自身の身体を僕の方へと寄せる。そして説明を求めるためだろう、彼女は僕の顔へ困惑に似た視線を向ける。
そんな彼女に颯爽と、そして内から湧き上がる悪戯心から自慢げに答える。
「なに、ちょっとした風魔法だ。それより――」
僕は言葉の途中でさらに加速していき、目の前に現れる木々を寸前のところで避ける。彼女がさらに全身を強張らせ、僕の身体にしがみ付くのを感じながら言葉を続ける。
「ひえっ!」
「急ぐぞ」
加速して速度が上がった状態からまた一段と速度を上げ、周囲の木々が目まぐるしく通り過ぎていく。眼前に突如現れる木々は猛烈な勢いでこちらに迫り、そして真横を一瞬ですれ違っていく。
濃霧の森の中、高速で移動する一陣の風が吹き抜け、か細い悲鳴が木霊した。
暫く移動していたが、彼女はビクビクと震えながら僕の腕に顔を埋めてしまっていた。非常に面白い反応だったものだからついつい興が乗りすぎてしまった。フォローするべきなのだろうが、目的地は既に目と鼻の先。ここからは細心の注意を払って移動しなければならない。
とりあえずは、より正確な状況を確認したい。方法はいくつかあるが、最も手っ取り早い方法を取る事にしよう。リスクもあるのだが、この距離かつ時間もない現状ではシンプルで的確である。
具体的な方法は、周囲の状況を“探知”の魔法を使うことで敵味方をまとめて認識するのだ。薄くとはいえ魔力を周囲に行き渡らせるため、その魔力から逆探知される危険が付き纏うことになるが、もし注意をひいてしまった場合はこのまま逃げるなり、ヌシの注意をこちらに釘付けにしてその隙に彼女の仲間を撤退させれば良いだろう。そうでなければ不意打ちできる。
意識を自身の内の流れに集中していく。そして流れる魔力を外に薄く広く、まるで衝撃波でも放つように周囲に広げていく。そして確認できるのは……。
「見つけたけど、結構やばいかも……」
あまりに厳しいと思われる状況に、僕は独り言のように言葉を零した。その言葉を聞いて、彼女も慌てたように僕を見る。
「へ……ど、どんな状況ですか!」
確認できたのは、まず大きな反応を示す存在、そして小さな人型の存在が三人だ。大きな存在は言うまでもなく彼女たちの言う“幻獣”、つまりこの森のヌシだろう。他方、小さな存在はタイミング的に彼女の仲間たちである可能性が高い。ヌシからは強烈な力を感じるし、実際にヌシは軽度だろうが攻撃をしているようだ。
問題は、ヌシの正面に一人、その後方に位置している二人だ。後方の一人が木の根元に体を預けて座り込んでいるようで、もう一人がその傍で援護しているように見える。普通に前衛と後衛の役割分担だが、座っている方は援護しているとは思えない。負傷していると考えるのが自然だろう。
ヌシがその気になれば一瞬で全てが終わるだろうし、何より負傷している仲間がいるのに撤退せず突っ張っているのは引くに引けないからだろうとも考えられる。つまり意固地になって戦闘を継続しているのではなく、重傷を負っていて自力で動けないからその場に留まる事を強いられているという事だ。
これらの事から、自力で逃げてもらう案は消える。彼女の仲間は相当消耗しているだろうから、帰る事もままならないかもしれない。つまりこの場で僕の取れる行動は、ヌシを追い払う事くらいだろうか。
彼女の不安げな表情を横目に、僕は意識を集中させていく。
「もうすぐ着くから自分で確認してくれ。それより――」
僕は最後まで言葉を言いきらずに話しを終える。そして身体中にある魔力とは違う、別の力を励起させる――とはいっても感覚がある訳ではなく、結果を見てやっと自覚できる代物なのだが。
それと同時に、頭の中で結果をイメージする。ヌシに対して強烈な力の波動をぶつけるイメージを頭に浮かべ、目の前に幻覚のようにそれを見る。倒す必要はない。ただ、脅かして逃げてもらえば良いのだ。
一瞬、全てが制止した世界で静かに力を開放する。今まで感じなかった不自然な風の発生を肌で感じ、それはバリバリと雷鳴に似た音と共に、木々をへし折りながら視線の先にまっすぐ飛んで行った。
探知魔法の反応には、ヌシが吹き飛ばされるように少しその場を動いた後、素早くその場を離れるヌシの反応を確認できた。そして僕たちは幻獣が暴れたためと思われる、木々が倒れて少し開けた空間に飛び出た。
「ッ……アリオス!」
「なっ、フィルシア! 無事だったのか!」
不自然に霧が晴れていて、目の前に広がる光景に絶句しながらも、“フィルシア”と呼ばれた女性は仲間の名を呼ぶ。“アリオス”と呼ばれた長身で金髪の好青年もそれに応え、僕が彼女を下した場所へとよろめきながらも駆け寄って来る。二人が旧交を温める間、僕はそれよりも優先すべき方へと意識を向けた。
急いで木の根元に座り込む二人に駆け寄って状況を確認する。目の前には、左腕を欠損し、腹部に大きな金属片が刺さった巌のような大男と、その隣で涙を流しながら力なく座り込む銀髪の美しい女性が居た。
「あ、あなたは……」
銀髪の女性に構わず大怪我をした男の容態を確認すると、今にも呼吸が止まりそうで非常に危険な域に達している事が理解できる。周囲には大きな盾と思しき大小の破片が散らばっており、腹部に刺さっている金属片がそれである事は明白だ。
一度戻って――ここまで考えて思考を切り替える。隣の女性がその態度で示す通り、生半可な治療では意味がなく、もう助からない。ポーションで治るレベルを超えている。ここで取れる選択は二つ。一つは泣く泣く諦めること。もう一つは見られるというリスクを冒してあの『不思議な力』を使用することだ。こと回復に関しては目に見えてしまうため間違いなくみられてしまうが、しかし迷っている暇はなく、二つに一つという状況である。
「……、すぅー……ふぅー……」
深呼吸をして心を落ち着かせる。力ではない、理屈はいらない、ただできると信じるだけだ。明確に、鮮明に、祈りにも似たイメージは事象として目の前に具現化される。
「スフィリア……ブライトは……」
「う、うそ……ですよね……」
近くから足音が聞こえ、話し声が耳に届く。しかし、今それはどうでもいい事である。ただただこの男が治る事に全力を注ぐだけだ。
「へ? え、な、なに……?」
僕の中にある力は、淡い光となって目の前の男に注がれていくのが視認できる。それは腹部にある破片を押し戻すように身体から抜き出し、近くにある千切れた腕へと飛んで行きそれを光に変えて、導かれるように在るべき所へと戻っていく。
光が僕を、そして男を包み込む頃には、この男が完治する事を僕は理解していた。
治療が終わり、失ったはずの左腕や血塗れでボロボロだった男の身体は、まるで何事もなかったかのように、何の変哲もなくそこにあった。苦しそうに顔を歪めていた男は、安らかな呼吸をしながら目を閉じている。そして深い眠りから目覚めたように、ゆっくりとその身体を起こした。
「うそ、でしょ」
「何が起こって……」
“フィルシア”と呼ばれた女性と、男の隣で絶望に打ちひしがれていた銀髪の女性は独り言ち、“アリオス”と呼ばれた男性は無言でこの状況を見つめていた。そんな中、大怪我を負った大男は自身の身体を眺めた後、仲間の方を見る。
「……何が、どうなったんでしたっけ?」
状況が呑み込めない様子の大男は、困惑を隠せない様子の仲間を見ながら疑問を呈した。当然それに応えられる者などおらず、その場には暫くの沈黙が流れる。そして“アリオス”はそれには答えず疑問で言葉を返した。
「身体、平気……なのか」
「え、ええ」
困惑した様子の大男を眺めながら銀髪の女性が大男の身体に触れる。
「ほんとに大丈夫みたい……」
アリオスも半信半疑といった様子で大男に近づく。
「本当に大丈夫なのか」
そして体に触れて確かめながら質問を繰り返していた。
それと同時に僕の頭に一つの予測が浮かぶ。この後、僕は間違いなく質問攻めになることだろう。しかし、僕にはそれに対する解答を持たない。それに、下手に詮索されるのはこちらの都合もよろしくないため、有耶無耶にするより他ないだろう。
つまり、これ以上この場に居ても良いことはない。潮時である。
僕は一歩、音を立てずに後ずさり、そして喜びを分かち合う彼女たちの視界に入らないようにその場を後にした。
「助けてくれて、ありがとうございました!!」
濃霧に飛び込んですぐに、女性の歓喜に満ちた声が聞こえてきた。
あの一件から数日が過ぎた。森の生き物たちも普段通りになり、ヌシも大きな行動はみせていない。気になることと言えば、長らく使っていなかった風魔法以外の魔法を試そうと考え、森の中心にある大岩が特徴的な池に行った時の事だ。
戦闘時などで使えそうな魔法を色々と試した挙句、結局は風魔法で乗り切るしかないという結論に至ったのだが、気が付けば、首が上に長く伸び、四足歩行をする、不自然に淡く発行しているように見え、頭に生えるドリルのような角が特徴的な巨大な存在――ヌシが近くでこちらの様子を窺っていたのだ。反射的に身構えたのだが、ヌシは座り込んで動かずに、ただ見ているだけといった様子だった。
その後も一応警戒していたのだが、実験を再開しても何の行動も起こさなかった。しかし、最後に不思議な力を使った時にだけ、頭を地面につけてリラックスしていたのが急に頭を持ち上げ、僕をジッと見つめ続けるという行動を取った。
僕は極力動かずにそれを警戒していたが、その状態が暫く続いた後、何事もなかったかのようにその場を去っていった。あの力にだけ反応を示したように見えたのは、ヌシが不可思議な存在である事と合わせて少し気になる。
しかし理由は分からないためそれ以上深く考えることはなく、今は全く別の事を考えている。それはこの森を出ることである。
彼女たちとの出会いは僕の心境に大きな変化をもたらした。“フィルシア”と呼ばれた女性の言動には興味深いモノもあったし、幻獣の調査など誰が何のために依頼したかなど興味は尽きない。何より、今の僕には不安なことがある以上、それを解決したい。そう思えるほどには時間が傷を癒してくれたのだと思う。
どの道、孤独に生きていくのは限界があるし、遅かれ早かれ外に出るしかなかったのだ。ちょうど良いきっかけがあった以上、手を拱いている理由はない。そう頭で自己弁論を繰り広げるが、後悔と何もしないでいる今への焦燥感に駆り立てられている事は覆せない。
とにかく、外に出るための準備を今までしていたのだ。そして明日の朝にはここを出ようと考えている。今日が最終日、実家よりも慣れ親しんだこの場所での最後の夜を迎える。
窓から外を見ると真っ暗で何も見えない。そんな夜でも室内を照らしてくれる魔力で光る照明を消し、ベッドに入って目を瞑りながら感慨に浸る。
ここに来た日には、こんな日を迎えるなんて思いもしなかった。ただ一人になりたかった。もう何もなかった、要らなかった。だが、今はもっと知りたい、もっと見たい、そして……。
僕は深い意識の内側へと吸い込まれる間際になって初めて、遠い昔に置いてきた期待というものがこの胸にこみ上がっていることを自覚した。