1.変化の兆し
目を開けると窓から淡く撫でるように優しい光が届いている。しかし久しぶりに見た悪夢のせいで酷く気分が悪く、目覚めの良い朝とはいかなかった。とにかく感情を殺して多くの命が儚く散っていった。あの時の事が忘れられず、今でも夢に見てしまう。そんな日常の中で感情なんてものは既に死んでいたと思っていたが、殊の外強く記憶に焼き付いていて、トラウマのようなものになっているようだ。何でもない日常を送るようになってからはその罪が重くのしかかるように鮮明に思い起こされる。心に深く刻み込まれているそれは、もう一生モノの傷になっているのだろうか。
数瞬、仰向けのままで天井を眺める。木製の板が張られていて、質素だが温かい安心感を与えてくれる。しかしいつまでも見ている訳にはいかず、目覚めが悪かったせいで鉛のように重い身体を手で支えながらゆっくりと起こすと窓から射し込む光へと視線が吸い寄せられる。
そこには正方形の窓が設置してあり、外には淡い青色の光を放つ木々が朝を知らせてくれている。いつ見ても幻想的な光景だ。
寝起きでぼーっとしている頭を覚醒させるために、ベッドから這い出て木でできている床を踏みしめて歩いていく。物の殆どない寂しげな部屋を横切り、扉を開けて周囲を見渡せば、苔むした地面と土がむき出しになった獣道がすぐ近くから聞こえる柔らかな水のせせらぎへと続いている。
僕はその獣道に沿って進み、腰ほどの高さの岩の前で止まる。岩の側面は苔むしており、中央はスプーンでくり抜いたように丸く陥没している。僕は、その陥没した底から湧き上がって溜まっている透き通った水を両手で掬い、自身の顔に当てた。
顔に当たる水は刺すように冷たく、寝ぼけた顔と頭が引き締まったような感覚を覚える。そしてブンブンと首を振りながら水気を飛ばすが全てが落ちることはなく、未だ顔から水が滴っている。
水気を取るため反射的に首元を探るが、そこでいつもあるはずの物がないことに気が付く。
「しまったな。タオル忘れ――」
その瞬間、不意に異質な気配を感じ取り、即座にその方向へと顔を向けた。
顔を向けた先は澄み渡った見晴らしの良い空間だが、その空間の先には一転して真っ白な濃い霧のカーテンが視界を完全に遮っている。霧はここに張られている“結界”という魔法により、行使者の異物として排除されてしまうため、霧はこの生活空間には入って来れないのだ。
僕はその霧に向かって歩き出しながら異質な気配に五感を集中させていく。感じるのは浅く激しい呼吸音、のそのそと雑草を踏みしめる二足の弱い足音。そして金属のような生臭いにおい。嫌というほど知っている。血の臭いだ。
「行くか……」
それは明らかな異常事態。濃霧や鬱蒼と生える木々によって視界は全く利かないが、急を悟ったためにスピードを上げて勢いよく結界の外へと飛び出た。結界を超えるとすぐに視界の端々まで濃霧が埋め尽くし、結界によって殆どを遮られていた音や臭いが五感を強く刺激する。
スピードを上げたため、突如として濃霧から目の前に飛び出して来る木々を避けながら、周囲に気取られないように慎重に移動していく。しかし周囲に感じる感覚は、か弱い足音を響かせるそれのみで、その事実が静寂の森をより一層不気味がらせる。まるで得物を惑わせ、心身ともにゆっくりと弱らせていく巨大なトラップのようだ。
血の臭いがかなり濃くなってきた頃、すでに足音は聞こえなくなっていたが、代わりに浅く激しかった呼吸音は深くゆっくりとしたものへと変化していた。
そして遂にそれの近くへと辿り着いた僕は、スピードを落とし足音を殺して木の裏に身を隠しながら様子を窺った。
「ッハー……ハー……」
明らかに苦しそうに息をしている何者かは、木が邪魔でその全容までは見えないが木の根元に座り込んでいるようで、低い位置から呼吸の音が聞こえる。どうにかその姿を確認しようと隣の木に移動して目を凝らしながら覗き込むと、小柄でブロンドの若い女性が腹部から血を流し目を瞑っていた。
結局、僕は彼女を抱きかかえながら家へと戻っていた。彼女は、未だ苦しそうに顔を歪めており、見た目以上に深刻な怪我を負っている事が見て取れる。
あの後、取り合えず様子を見に来た僕はこの状況をどうしようか悩んだ。魔物の類であれば放置するなり軽く治療して立ち去るなりするのだが、どこからどう見ても人間の少女に見える。また、その場で治療したとしてもこのまま放置すれば彼女の身は危険に晒されることになる。知られたくない事情もあるため面倒ごとには極力関わりたくないのだが、彼女の様子からすぐに処置しなければ助からないかもしれない。
そう、すぐに対処しなければ助からない。僕がこの森に来てからの一年間、この付近まで人が来たことは一度もなく、偶然通りかかるような場所でもない。つまり何か目的を持ってここまでやって来たのだろう。それにこれだけの血の臭いを撒き散らしておきながら魔物の一匹も近くにいないのは、彼女の傷からしても何かしら関連していると考えるのが自然。つまり……。
僕は、彼女の直ぐ傍まで近づいて動かない事を確認にしてから、彼女を抱えて自宅まで戻ったのだった。
そして自宅に戻った僕は、家のベッドに寝かした女性の衣服を脱がせていた。無論変な事をしているのではなく、彼女が追っている傷を直接確認するためだ。この森で生きるうちに、死んだ魔物の傷を確認して、どのような動物がいるのか、近くに危険があるのか等を確認するようにしていたため、傷口からある程度の事は分かるようになった。また、傷がどの程度のものなのかを見るという理由もある。つまり状況確認の意味があるのだ。
服のボタンを外しながら彼女を改めて見ると、ひときわ目を引くキラキラと煌めくようなブロンドの長髪に華奢な体躯、まるで高貴な身分の令嬢ではないかと思ってしまうほどの整った目鼻立ち。しかし顔色が悪く、明らかに危険な状態である事は一目瞭然だ。
彼女の危険な状態に急かされつつ、機能性が高く小さなポケットの多い革製の衣服を脱がせ、女性の体は下着を纏うのみになった。そして僕の視線は、華奢な体にしては異様に存在を主張している一部へと視線が吸い寄せられる。
「意外と……い、いや、こういうのは良くない。良くない」
僕はあからさまに視線を逸らして分かりやすく自制心を発動させる。こういうハプニングは慣れていないため苦手なのだ。特にこの一年、女性と関わる事は皆無であったこともあり――いや、そもそも人と会うこと自体が皆無だった。
一度深呼吸してから女性の傷口に意識を向ける。傷口は噛み後の類ではなく深い切り傷のようなもので、何かの残照が幻影のように揺らめきながら傷口を覆っている。傷からは何かに攻撃されたことくらいしか分からなかったが、その残照には見覚えがあった。残照は魔力とは違うエネルギーの塊で、独特或いは唯一無二ともいえるモノだ。そのような痕跡、僕には一つしか思い浮かばなかった。
「ヌシ、か……」
この森にはヌシと呼ぶべき存在がいる。そいつは魔物とは一線を画す強さを誇り、何より魔物が宿す魔力とは全く違うモノを内包している。言うなれば、その存在は力そのもの。生物とすら定義できないような摩訶不思議な存在と思える。
また、この事実は周囲に魔物が居ない事とも符合する。ヌシは僕が見た限りではこの森で最強の存在であるため、その存在を察知すると魔物たちは、その場を離れたり、巣から出てこなくなったり、といった事が起こるのだ。
つまり、彼女はヌシに襲われたという事になるのだが、しかしそんな事態は考え難い。僕もヌシとは何度か遭遇しているが、ヌシは様子を見ているような感じで、少なくとも攻撃してくることはなかったのだ。もし攻撃してくるとすれば――
どうやら是が非でも話しを聞かなければならないようだ。
「スー……スー……」
彼女の苦し気でゆったりした呼吸が聞こえる。聴きたいことはあるが、今は治療が先決。
僕はベッドから離れ近くの棚から、制作してから棚の肥やしになっている薬瓶を一本手に取り、その中身を彼女の傷口に優しく塗っていく。同時に、僕は自身から発現する朧気な光を傷口に流し込む。
薬瓶の中身は回復薬である。それもかなりの薬効で、以前瀕死のもふもふ狼を瞬く間に回復させた一級品の薬だ。本来は経口摂取するのだが、本人に意識がないため直接塗って患部に届かせるしかない。
そして、回復を妨げ毒になっていると思われる、傷口を覆う残照を取り除くため、僕は自身の力を傷口に流し込んで残照を中和させる。しかしこの力、傷口の残照に似ているような、全く違うような……。
無事、回復薬を傷口に塗った後、伸縮性に富む草に回復薬を染み込ませた自家製の包帯を巻いていく。後はシーツを掛けて、脱がせた衣服をベッドの近くに畳んで置いておけば良いだろう。治療完了である。
きれいに衣服を畳んで、ベッドの端に全て置いておく。ひとまずやる事は終わったた。椅子に座り一息ついていると、今日はまだすべき事が何もなされていない事を思い出した。
「そう言えば日課の途中だったな」
椅子から腰を上げ、部屋の隅っこに置いてある木製のバケツを手に取り外へ向かう。先に顔を洗った場所のさらに奥に小さな川が流れていて、そこへ毎日水を汲みに行くのだ。
ここの水は少々特殊で、魔力の元とも言うべきモノを多く含んでいる、。そのため、ただ水を飲むだけでも体内の魔力を補給でき、回復も早くなる。
汲んで来た水を室内にある樽に流し込み、水がある程度の量になるまで往復する。それが終わると別の棚から昨日のうちに用意しておいた朝食を机に並べ、食卓に着いてすぐそれを眺めながら今日の出来事を思い返した。
何故、わざわざこんなところまで彼女は来たのだろうか。この森の状況と彼女は何か関係があるのだろうか。そして、何故ヌシは彼女を攻撃したのだろうか。
――この森に何かが起ころうとしているのだろうか。
何だかんだで今日はまだ何にも食べていなかった僕は、ベジタブルな朝食を摂りながら彼女を見つめたのだった。
暫くして、朝食を摂り終えた僕は、先ほど汲んで来た水を飲みながら彼女が意識を取り戻すのを待っていた。膝をついて気になる事をぼんやりと考えながら彼女を見つめていたのだが、彼女の幼い声が微睡から僕の意識を引き上げた。
「うーん……」
「ん?」
寝起きの子供のように可愛らしく目をこする彼女に、僕はその場から努めて穏やかに声をかける。
「目が覚めた?」
見覚えのない場所だったのだろう。聞き覚えのない声だったのだろう。彼女は僕の声に反応してこちらを見た後、起き上がった事により捲れてしまったシーツを手で押さえながら周囲をきょろきょろと見回し始めた。
「ふぇ……?」
僕は棚に収納してあった予備のコップを手に取り、樽につけた蛇口から水を出してそれに入れる。そしてベッドの傍まで近づき水の入ったコップを差し出した。
「ほら、とりあえず水」
「あ、ありがとう……」
彼女は僕がおもむろに差し出したコップを反射的に受け取り、水をじっと見つめてからチビチビと少しずつ飲み始めた。
しかし突然、ハッとした表情で顔を勢いよくこちらに向けた。
「だ、だれ!?」
身体をこちらに向け、シーツから手を離したために下着が露わになるが、事前にその姿を見ていたたお陰で今度は動揺することなく冷静に会話を進める。
「ここの住人。何があったか知れないけれど、倒れていたからここまで運んだんだよ」
「……」
僕は事実をありのままに話すが、彼女はジッと僕を睨みつけながら押し黙ってしまう。緊張でピリピリとした空気が部屋中に張り詰め、静寂が辺りを包む。
僕は努めて穏やかに接しているつもりだったのだが、やはり警戒されてしまっているようだ。
彼女はしばらく口を噤んでいたが、こちらに敵意がないことが伝わったのか、会話することを選んだ。
「……それはありがとうございます。ところで、ここは何処ですか?」
彼女はサイドテーブルにマグカップを置いて短く謝意を述べた後、冷静に現状把握を始める。実際問題として、話しも聞かずに騒がれでもしたならば大変だっただろうが、非常に冷静な対応をしてくれている。筋肉の付き方からしても戦闘経験はあるのだろうし――そもそも、そうでなければここまで来られないだろうが――ただの一般人という訳ではなさそうだ。
彼女とのやり取りで僕が聴きたいのは、ここまでの経緯とここまで来た目的だ。ある程度信頼してくれないと話してくれないかもしれない、極力嘘はつかない方が良いだろう。そもそも嘘を吐く理由もないのだが、僕の方に話しが流れないよう注意しておこう。
「ここは森の中心部で、僕が住んでいる家の中。君が木の根元に血を流して倒れていたところを見つけたからここまで運んで治療したんだよ」
「血を……あっ!!」
僕が簡単に経緯を説明したところで、彼女は自分の身体を確認する。それにより、自身が純白の下着姿を露わにした状態であることを自覚し、先とは一転して顔を紅潮させていく。
「ひゃぁっ!」
仕舞には可愛らしい悲鳴と共に、シーツで完全に体を覆い隠してしまった。正直そんなことよりも次の話しに移りたいのだが、その衝動を抑えながら彼女に話しかける。
「……それよりも聴きたいことがあるからさ、いいかな?」
「はい……」
若干圧のある話し方で衝動を抑えきれていなかったが、彼女はシーツから顔だけ出してカタツムリのような体勢で返事を返した。よほど恥ずかしかったのか、その顔は未だに紅潮したまま少しムスッとした様子でこちらを見ている。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。
しかしそれに構わないように話しを切り出す。
「初めに、僕の名前は……」
ここまで言って気が付いた。ここで本名を言ってしまっては怪しまれかねない。正直、どの程度の知名度があるのか知らないのだが、感づかれるのは流石に不味い。
よって僕は小考の後、思い当たった名前でこの場を取り繕うことにした。
「レージって言うんだ、よろしく。それで、君は何者? なんでこんな所まで来た?」
僕は努めて冷静を取り繕う。事と次第によっては対応を考えなければならない。目的は複数考えられるが、単に探索に来ただけか、それとも……。
彼女はしばらく考え込んでいたが、ハッと焦りと驚愕の表情を浮かべ、シーツを放り捨て、形振り構わず僕に縋りついた。
「そう、仲間が!」
「うぉお!」
涙目になりながら必死な形相で僕にそう訴えかける。僕を押し倒さんばかりの勢いで縋りつき、下着姿がとても眩しい。
しかしながら、そんな所を見ている訳にもいかないため、努めて冷静に、若干目を逸らしながら彼女を軽く押し戻し落ち着かせる。
「お、おお落ち着いて! ……一つひとつ話してくれないと分からないから」
「は、はい……」
ゆっくりと彼女を押し戻してベッドに座らせ、完全にはだけていたシーツをもう一度掛け直す。そして近くに置かれたマグカップをもう一度彼女に差し出しながら一つずつ、そしておそらく急を要する“仲間”についての質問をしていく。
「仲間と別行動して……いや、仲間と逸れてしまったのか」
彼女は逸る気持ちを抑えるように唾を飲み込んだ後、か弱い声でゆっくりと答える。
「は、はい」
僕は彼女の目を力強く見つめながら沢山の聴きたいことを抑え、最も聴きたかった事を質問する。
「なぜこの森に? 目的は?」
聴かれたくない事かもしれない。答えてもらえない場合も覚悟しながら質問したのだが、彼女は意外にあっさりと、至極当然のように質問に答えた。
「え、えと……今回私たちは王都のギルドから幻獣の調査、そして討伐を依頼されてきました」
「ふむ……」
彼女は少し焦って言葉を探すように視線を動かしたが、すぐに必要な言葉を見つけたようで、凛々しくも愛らしい真剣な表情を作って答えた。
しかし何やら良く分からない単語がいくつか出てきた。本当は一つずつ解説して欲しいところなのだが、先ほどの彼女の様子から火急の事態である事は想像に難くない。よく分からない単語はある程度無視して、重要そうなものだけを聴くことにしよう。とかく話しを進めなければ。
僕は今の言葉の中で特に気になった事だけを解説してもらうべく質問を重ねる。
「その“幻獣”ってのは?」
僕の質問に、彼女は少し驚いたように眉を動かしたが、すぐに真剣な表情に戻り、僕の疑問に対して懇切丁寧に答える。
「幻獣とは太古の昔からこの幻霧の森に生息すると言われる、非常に強力な伝説の魔物です。淡い光を放つ神秘的な姿をしていて、強力な属性攻撃をしてきます」
彼女は簡潔かつ丁寧に説明してくれたた。分からない単語もあったが、おかげでそいつの正体が分かった気がする、が……それと同時にかなり危険な推測にも繋がってしまった。しかしまだ推測、念のため彼女に確認を取る。
「……なるほど。もしかしてだけど、そんなやばい奴に攻撃を仕掛けたりしてないよね?」
「っ、それは……その……」
彼女は視線を下げ、顔を俯かせて暗い雰囲気を醸し出す。つまり、どうやら想像以上に不味い状況のようだった。