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深淵より深く

作者: 胡姫

     深淵より深く


一日目。

その子供はすさんだ目をして大きな市通りに打ち捨てられていた。

乱れた前髪の間から覗く目には暗澹たる光が見えた。子供のする目ではないと思った。縛られた両腕は血が滲み、大小の細かな傷が見受けられた。罪状は殺人。素性も名も頑として明かさぬため、身元を知る者を探しているとのことだった。

――まだ十三、四くらいの年頃ではないか。

ちらりと目が合った気がしたが、私は足を止めず素通りした。所詮知らぬ者である。道行く者も、関わり合いになるのはごめんだとばかりに目をそらして通り過ぎてゆく。

それが徐庶、元直を見た最初だった。


数日後、たまたま市を訪れた私は、同じ場所にまだあの子供がいるのを目にした。

――素性はまだ知れぬらしい。

奇異な気がした。潁川えいせんでこの子供を知る者が一人もおらぬとは考えにくい。他所からの流れ者でもなさそうである。となると知っていて庇っているのか。

その時、後ろから話し声が聞こえてきた。

「…他人のために仇討をしたそうだよ。」

「へえ、あんな子供がねえ。」

「何でも恩のある人だったとか。こんな世の中なのに、義理堅いことだ。」

「自分の名すら喋らねえもんだからお役人も音を上げて、ああして情報を募っているそうだよ。」

「誰も来やしねえじゃねえか。」

「あの子を庇って伏せているんだろうよ。」

振り向くと、行商人風の男たちが話しながら雑踏の中に消えていくのが見えた。

私は子供に目を戻した。前回見た時よりも薄汚れ、ざんばらの前髪が顔をほぼ隠している。これでは顔立ちも表情も分からない。

しかし通り過ぎようとしたその時、一瞬だけ、子供が目を上げて私を見た…気がした。

強い光が私を射抜いた。

私はたじろいだ。深い絶望と、諦観と、その中に一縷の縋るような光が見えたのは気のせいか。

――やはり子供のする目ではない。

私は子供に近づこうと足を踏み出した。その時、目の前を四頭立ての馬車が横切った。

あ、と後ろに下がった時、私は後ろから肩を叩かれた。

「子魚じゃないか。久しいな。」

「…お前か。」

そこによく見知った旧友の破顔を目にした私は、覚えず頬を緩ませた。旅先で親しい者に会うのは喜ばしいことだ。このような市で偶然に出くわすとは。

旧友は闊達に笑いながら私の肩を軽く叩いた。

襄陽じょうよう龐徳公ほうとくこうにこんなところで会えるとは、嬉しい驚きだ。外出嫌いのお前が潁川に何の用だ。」

「人を訪ねてきた。人づてではなくこの目で見定めたい人物がいて…それで重い腰を上げてきた。」

「ほう、誰だ?」

「知っているか。司馬家に、少々変わり者の名士がいるとか。」

「司馬徳操のことか?」

話しながら歩くうちに私の意識から先ほどの子供のことが消えた。市の混雑は瞬く間に捕縛された子供の姿を視界から消してしまっていた。


更に十日ほど経ったある日。

その日は朝から湿った雨が降り続いていた。なのに大気はなまぬるく、じっとりとした汗を滲み出させる。何をするにも億劫になる嫌な天候の日だった。

私は宿で出立の準備をしていた。司馬徽しばきとの会合は思った以上の収穫だった。昼夜語り明かしても話は尽きず、私は彼に並ならぬ興味を覚えた。襄陽に来ないかと誘ってみたが、司馬徽は曖昧に笑うばかりだった。私が本気かどうか探ろうとしているようにも見えた。

掴みどころのない男だ。噂通り。それも好い。

目的は果たしたので強くは勧めず、私はひとまず潁川を離れることにした。旅はあまり好きではない。甥の士元(龐統)には放浪癖があるようだが。

支払いを済ませて宿を後にし、表通りに出ると、大粒の雨が落ちてきた。私は笠を目深に被って足を早めた。この天候なので市も人通りがない。

「…あ。」

私は足を止めた。いつの間にかあの子供が縛されていた場所に来ていた。さすがにもう居ないだろうと思いながら近づいてみた私は、息を飲んだ。

――居た。

子供はまだそこに縛されていた。雨除けも何もない。大粒の雨に打たれるまま、子供は身を縮めていた。打ち捨てられた姿はとても小さく見えた。この世の絶望を一身に受けたかのように。

突然、子供が顔を上げた。

泣き出しそうな目だった。

頬が濡れているのは雨のせいではないのかもしれない。私は吸い寄せられるように子供に近づいた。

意外なことに彼を縛る縄は殆ど千切れかけており、今にも崩れそうな状態で彼の腕に巻きついているばかりだった。つまり縛の意味を為していない。彼はいつでも逃げ出せたのだ。だがそうしなかった。

――何故。

子供が何か言おうとした気がした。声にはならない。

何かを絞り出そうとするように身を震わせ、しかし声が発せられることはなく。

雨足が強くなった。ざあざあという轟音の中、彼のずぶ濡れの前髪からぼたぼたと水が落ちるのを私は見ていた。何を言おうとしたのか。何を言いたいのか。言えぬ何かなのか。

周りに人はいない。見咎める者はない。

覚えず私は手を伸ばしていた。

「…共に来るか?」

彼が来るとは思えなかった。しかし彼は一瞬の躊躇の後、少しだけ、傷だらけの小さな体を起こした。

崩れた縄が彼の腕から滑り落ちる。

しかしそれ以上動こうとしない彼の前に、私は屈みこんだ。ひび割れた彼の手を握ってみた。彼は驚いたように手を引っ込めようとしたが、離さなかった。痩せた背がびくりと震えた。

冷たいと思い込んでいた彼の手は、驚くほど温かかった。

私は彼を立たせ、手を引いた。小さな手を握ったまま歩き出すと、彼も一緒に歩き出した。


子供の名が徐庶、字を元直ということを、私はしばらくしてから知った。

彼と歩む、長い旅の始まりだった。


          (了)


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― 新着の感想 ―
[良い点] いつも胡姫さんの映像の様に流れる小説がとても大好きです。まさか自分の創作を元に小説を書いて頂きとても嬉しいです! 凄く良かったのは、知らず知らずに龐徳公が元直に興味持っているのと元直の目で…
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