黒猫物語1
ここはとある小さな街。この街があるのは、ある県のM市である。隣街は大きな商業施設があったり大都市に繋がる国道があったりと、賑わいをみせ人口もそこそこ多い。
そこから少し車で走ると、静かな住宅街と古びた商店街が今も残る小さな街が現れる。この物語は、そんな小さな街で起こる数々の小さな出来事である。
今年の春は少し遅れて来るとテレビの中の人が言っていた。春が待ち遠しい陽を浴びた桜の蕾が、今にも咲き出しそうな4月の初め、昼頃でもまだ外は肌寒く薄手のコートは手離せない。そんなある日、街のとある小学校では、ピカピカのランドセルを背負って母親に手を引かれる子どもたちが集まってくる。そう、今日は待ちに待った入学式の日だ。笑顔が眩しい子もいれば、泣きじゃくる子もいる。確かに周りには知らない人がたくさんいて、泣きたくなる気持ちもよくわかる。その中でも一際泣いている女の子がいた。ヒサキである。彼女は少し小柄なせいか、新品のランドセルがあまりにも大きく見えて後ろに転んでしまいそうなバランスである。母親に手を引かれながら嫌々ここまで来たのだろう、そんな風に見えて仕方がない。
正門の前では先生らしき人が数人、校舎の中へ案内する姿が見受けられる。ヒサキの母親は、正門の横で入学記念の写真を撮ろうとヒサキをあやすが、全く泣き止む気配がない。それを見ていた先生はヒサキの前まで行き、小さくしゃがみ込んで話しかけた。
「今日は入学おめでとう。いっぱいお友達作ろうね。」
それでもヒサキは泣き止まない。首を横に振り、母親の手を強く引っ張った。それもそのはず、先生だろうがなんだろうが知らない男の人が前に立ってるのだから、逃げたくなるし不愉快極まりないったりゃありゃしない。
それでもなんとか涙を堪え、今にも泣き出しそうな顔のまま、正門の横に立てかけられた入学式と書かれた看板の横で、パシャッ、パシャッと二枚続けてシャッターを切った。あまり出来がいいとは言えない写真だろうなと思いながら、時間もないので再びヒサキの手を引きながら足早に正門をくぐる。
大きな体育館にはすでに多くの人が、即席に作られたであろう隙間なく置かれたパイプ椅子に腰を下ろしている。中の係の人に案内され、前から二列目の一番端の椅子に座った。少し時間がありそうだったので、さっき正門で撮った写真を見てみようとカメラを取り出す。カメラのファインダー越しに見たヒサキの顔と同じくしゃくしゃの顔がよく目立つ。涙を堪える顔もいつかはいい思い出になるのだろうかと思い、カメラの電源を切ろうとしたその時、写真に写る小さな影に目がいった。正門の横の塀の上に写る影。いや、影じゃない。そう思った母親は、撮った写真を拡大して確かめてみる。
そこに写ったのは一匹の黒猫である。
写真に写った黒猫は、塀の上でこちらも気にせずに座っていた。母親は写真を撮ったとき全く気付かなかった。そう思いながら二枚目の写真も見てみると、黒猫は少しこちらを見ている気がした。はっきりと目がこっちを向いているかは見えないのだが、なんとなく顔がこっちを向いている気がする。単なる思い込みかもしれないが、こっちを見て何か話しかけているようにも見える。
この写真を俯いて隣に座るヒサキに見せると、すぐさま写真に写る自分の顔とは対照的な笑顔になり、黒猫さんだ、と大きな声を発した。両目に涙を浮かべながら笑うその顔は、何とも不思議な感じがしてどんな気持ちなのか謎である。
入学式が始まり、この学校で一番偉いであろう校長先生らしきお爺さんが前に立ち、マイクを通した大きな声で話し始めた。保護者向けの話が進むに連れて子ども達は落ち着きを失う。ヒサキもその一人であった。大きな校長先生の声が響く中、辺りをキョロキョロと見渡し始めた。特に何かを探してる訳ではないのだが、周りに見える物全てが新鮮だった。体育館の高い天井や壁に掛かる大きな時計、横の壁の下にはしゃがまなければ覗くことができない細長い窓があったり、窓の外には黒猫が歩いていたり・・・。
あっ、さっきの黒猫さんだ!ヒサキが黒猫に気付くと、向こうもこちらに気付いたかのように顔を向ける。隣に座る母親の手を引き、さっきの黒猫が窓の外にいることを伝えると、母親は下を向き小さな声で、本当にさっきの黒猫さんと一緒かなぁ違うかもよ、と言って顔を前に戻した。確かに外にいる黒猫の違いなんて一体誰が分かるんだろう。ましてや最初に見た黒猫は、写真に写った小さな影のような姿だったから尚更である。しかし、ヒサキには窓の外にいる黒猫がさっきの黒猫と同じだと確信していた。しかも黒猫はヒサキに向かって何かを話しかけているような気がするのである。
入学式も無事に終わり、校舎の二階にある一年二組の教室に案内された。ここがヒサキの一年間先生や友達と過ごす場所である。教室の入口とは反対側の窓際の机と椅子がどうやらヒサキの場所らしい。教室の入口側から名前の順番で席が決まっているらしく、後の方は窓際になるのだとか。
席に座り窓の外を見ると広いグランドがあり、そのグランドの向こうには大きな滑り台や鉄棒、雲梯に沢山のタイヤを半分程埋めて作られたアスレチックが広がっている。今は母親と一緒に教室にいるが、明日からはヒサキ一人である。この景色を見ながら一体何を考えるのだろうか。
担任の先生の自己紹介と教科書などの配布が済むと、今日の行程は全て終了だそうだ。朝から泣いていたヒサキは、明日からちゃんと一人でここに来れるのか母親はとても不安である。学業よりもまずは友達ができるのかな。内気な子を持つ親の悩みの一つである。
校舎を出たのはお昼過ぎ、外は昨日とは打って変わって暖かく春の陽射しがとても強く感じられた。正門の前まで来ると、塀の上には黒猫が日向ぼっこしているように目を閉じて寝転んでいた。ヒサキが嬉しそうに近くまで駆け寄ると、同じように一人の女の子が駆け寄って黒猫を指差した。その女の子はヒサキと同じように、目を真っ赤に腫らした笑顔でヒサキを見た。
「私は一年二組のサクラっていうの。」女の子はそう言ってヒサキの手を捕まえた。遅れて女の子の母親が走ってきて言った。
「あら、サクラちゃん、もう友達ができたの?すごいわねぇ。」
黒猫を見上げながら二人の女の子が笑う。友達ってこんなに簡単になれるんだ。ただ黒猫を見てただけなのにね。笑いが止まらない二人を正門の横に並べて写真を撮ろう。これならいい思い出になるかな、そう思ったヒサキの母親はパシャッと一回シャッターを切り、朝は蕾だった桜が見事に咲いていることに気が付いた。
春の陽と咲いた桜の下で二人の女の子が笑う。
陽咲と桜。
そういえばもしかしたら、一番最初の友達はあの黒猫だったのかな。朝の写真もきっといい思い出になるに違いないね、陽咲ちゃん。