第91話 私とアデル編⑤
いったいこの状況はどういうことでしょう。
私の記憶が確かならば、つい先程まで演習場でヴァイスと手合わせをしていたはずです。
それなのに気が付けば、目の前――正確に言うのであれば、私の腕の中でリーゼロッテが、透明感のある白い肌を赤く染め、胸にしがみついているではありませんか。
彼女はこちらの顔を見ることもなく、ジッとしています。
私の胸に顔をうずめているせいか、吐息が直に伝わってくるのですが、呼吸が若干荒いような気がしないでもありません。
……落ち着きなさい、アデル。
まずは状況を整理してみましょう。
周囲を見渡すと、花の園のようです。
どうやらフィナール寮へ戻る途中だったようですが、既に陽は沈み、辺りは暗くなっています。
空を見上げれば、真っ赤な月が煌々と輝きを放っていました。
頬を撫でる風は冷たく、しかし、リーゼロッテを抱きしめているせいか、寒いというよりも暖かさを感じます。
――おかしいですね。
少なくとも外はまだ明るかったはずです。
あくまで私の記憶の中では、ですが。
しかし、どうみてもそこから一時間……いえ、月の位置から考えて二時間近く経っています。
そして、気づいたらこの状況。
ヴァイスとの手合わせから今に至るまでの記憶が抜け落ちている?
その間にどういうわけか分かりませんが、リーゼロッテと二人きりになり、彼女を抱きしめることになった――腑に落ちませんが、推察するにそういうことでしょう。
――この私がこれほど大胆な行動を、無意識のうちに?
前世のあの女性が忘れられないとはいえ、私もれっきとした男です。
もちろん、人並みに女性に興味はありますし、紳士の時からすれば親子ほどの年の差のあるリーゼロッテも、この身体に転生したせいか、気になりません。
婚約できないと言っておきながら、私が無意識にリーゼロッテをそういう対象としてみていたのではないか。
――という考えが一瞬だけ頭を過ぎりましたが、おそらく違うでしょう。
仮に、リーゼロッテのことを無意識のうちに恋慕していたとしても、全く記憶がないままにこのような行動を起こすはずがないのです。
結論。
何故、このような状況になっているのか、という最初の疑問に戻るというわけですが……。
「……アデル?」
いつの間にか顔をこちらに向けたリーゼロッテの口から、短い一言。
瞳は潤んでおり、まるで恋する乙女のよう――ではなく、実際に私に好意を抱いてくれているのでしたね。
蒼い瞳は真っ直ぐ私を捉えており、何かを期待しているようにも感じられます。
――期待?
いったい何を?
と思った瞬間、リーゼロッテは瞳を閉じて艶やかな唇を差し出すような仕草をしました。
ここまでくれば流石に理解できます。
誰がどう見ても、キスをして欲しいという以外に考えられません。
彼女がここまでするとは……私はいったい何を言ったのですか!?
いくらなんでも唐突過ぎます。
仮に。
もしも、このままリーゼロッテに口づけで応えた場合。
どう考えても、婚約成立という未来しか見えません。
公王やディクセンはもちろん、今思えばマリー達もリーゼロッテとの婚約を望むような節がありました。
何よりもリーゼロッテ本人が一番望んでいるのでしょう。
目の前の状況を見れば、それはよく分かりますし、伝わってもきます。
ですが、私自身は?
婚約を望んでいるのか、と問われると――不意に、胸の奥に鋭い痛みが生じます。
かつて、私が唯一愛した女性の顔がちらりと脳裏を過ぎりました。
『私のぶんまで――喜びを抱いて、善き答えを探せる人になって』
彼女が私に遺した最後の言葉。
『絶対に正しい答えなんてない。だって、人の数だけその人が持つ正しいがあるんだから。――だから自分の在り方に喜びを見い出せる人になって、そして、過去の行いを切り捨てるんじゃなく受け入れて、新たな道を創り出せる、そんな善き答えを見つけられたら――とても素敵な人生だと思わない?』
これが彼女の口癖でした。
全てを暖かく包み込む太陽のように優しく、そして、とても芯の強い女性。
彼女の遺言を胸に抱いて、この十数年のあいだ行動してきたつもりでしたが、果たして現在の私は――。
ふう。
過去に縛られている、のでしょうね。
未だに彼女を失った悲しみから抜けきれず、囚われたまま。
周りからすればいつまでも情けないことを、と思うでしょうが、それほど彼女の存在は私の人生において、とても、とても大切な存在だったのです。
っと、いけません。
思考を切り替え、ずっと目を瞑ったままのリーゼロッテに目を向けると、リーゼロッテは薄赤い闇の中でも分かるほど顔を真っ赤に染めていました。
月の光に照らされたリーゼロッテの美しさに、私は息を呑みました。
微かに身体が震えているのが分かります。
それでも。
私は小さく息を吸い、すぐに長く吐いてざわめく心を落ち着かせました。
このまま口づけをするわけにはいきません。
私自身が心の底から本当に愛せると思えなければ、それこそリーゼロッテに失礼ですし、後で必ず後悔します。
ここまで勇気を出してくれたリーゼロッテには申し訳ありませんが、まずは真摯に謝って、落ち着いてもらった段階で、どうしてこのような状況になったのかを訊きましょう。
きっと怒るでしょうが、私のしでかしたことなのですから、甘んじて受けなければ。
そう考えた私が行動に移そうと口を開きかけたところで、頭の中で響くように声が聞こえてきました。
『おいおい、せっかくここまでお膳立てしてあげたっていうのに、いまさら止めるっていうのはどういうつもりだよ。アデル――いや、最上紳士』
「なっ!?」
「アデル……? どうしたの?」
前世の名前を呼ばれたことで、私は底なしの深い混乱状態に陥ってしまったようです。
急に声を上げたことを不思議に思ったリーゼロッテが、瞳を見開いて心配そうな眼差しで私を見ていました。
もしや、私のことを知っている何者かによる攻撃?
咄嗟にリーゼロッテを抱き寄せ、周囲を見渡します。
ですが、どこからも気配を感じることはできません。
「ア、アデル。苦しい……」
「申し訳ございません。近くに侵入者がいるかもしれません、暫くこのままでいてください」
「えっ!? ……分かったわ」
リーゼロッテは目を見開いたあと、小さい声で微かに呟きました。
私は全神経を集中させて、もう一度周囲に誰かいないか探ります。
しかし、やはりどこからも気配を感じることができません。
――おかしいですね。
確かに誰かが私の名前を呼んだのですが……。
『周囲を探したって無駄だよ。だって、僕は君の中に存在んだからさ、最上紳士』
嘲るような声が頭の中から聞こえてきます。
私の中にいる?
私以外に?
誰が――いえ、そんなことはありえません。
神様が言っていたじゃありませんか、彼はもう死ぬ寸前だ、と。
……死ぬ寸前?
まさか、まさか――。
『初めまして、最上紳士。僕の名前は、アデル・フォン・ヴァインベルガーだ』




