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5話 ~ありがとうの魔法~

交感神経系と副交感神経系、あわせて『自律神経系』と呼ぶのですが、詳しい話はおいおい。

「ケイトリン、血圧計ってないの?」

「あー、そこにあります! 二番目の棚の! 左の引き出し!」

「あとお湯、45℃で準備して。それとピッチャーに水」

「はいはい!」



 先ほどまでのウダウダはどこへやら、水を得た魚のごとく飛び回る渚。

 彼女に振り回され、ケイトリンもテキパキと足湯の準備を進めていく。


 本来、足湯をするのにも様々な情報が必要だ。

 もし患者さんが血圧に異常をもつ人だったならば、実施することによって急激な血圧の変動を起こしかねない足浴は禁忌、すなわち行ってはいけない看護行為になる。


 



 そもそも足湯、医療用語では『足浴(そくよく)』と呼ぶのだが、大きな効果は三つある。


 一つ目に、当然のことながら清潔保持。足をお湯につけるのだから、ついでに綺麗にすることもできる。


 二つ目に、副交感神経刺激によるリラックス効果。

 副交感神経とは、簡単に言ってしまうのであれば『リラックスをつかさどる神経』。これと対をなす存在として交感神経というものがあり、こちらは『戦うための神経』と揶揄されることが多い。

 足浴などの入浴行為は、この副交感神経を刺激する働きがある。お風呂に入って『ふぅーっ』となるのは、この副交感神経がしっかりと働いている証拠でもあるのだ。



 三つめに、副交感神経刺激による疼痛の緩和。

 温めると痛みが和らぐのは、副交感神経の作用によるものなのである。



 そして、副交感神経が優位に働くということは、全身の筋肉が弛緩するということを意味する。リラックスした時に、力が抜けるのはそのせいだ。

 すなわち、血管を締め付ける筋肉の力もゆるくなる。それに加え、心臓の心拍数も減少、収縮自体も弱くなる。つまり、血圧が低下する。



 これが急激に起こるとどうなるか? 最悪の場合、意識を消失してしまう危険性もある。脳に十分な血液が送れなくなるためだ。

 ゆえに、お風呂に入るということは、結構侮れない行為なのだ。



「血圧計血圧計、おっ、アネロイドじゃん。ていうか、ここ異世界とか言ってたよな? いやまだここから一歩も出てねぇからわかんねぇけども。でもなんでこんなもんまであるんだ……? シリンジといいカリウムアンプルといい……」

「それはですね、渚さんに何の不自由もなくこの異世界で看護をしてほしいからですよ」


 棚の中から血圧計を取り出していた渚のつぶやきに、ケイトリンが答えた。

 

「あたたがこの世界で看護をなんのストレスもなく行うために、私は何でもします。言葉の壁も壊しますし、機材の調達も頑張ります。そこまでして、この世界を何とか救いたいのです」


 すなわち、渚が願えば何でも用意するということだろう。

 『本来この世界には存在しない』、彼女が前世で用いていた医療器具や薬品なども。

 

「あぁそうかい。ご苦労なこってすね……」


 プイと顔を背けつつも、渚は準備の手を止めなかった。

 そんな彼女の背中を見守りながら、ケイトリンはニコニコとうれしそうな笑みを浮かべていた。


「やっぱり、渚さんが嫌だったのは職場の人間関係。患者さんとのかかわりや、看護師としての仕事自体は、好きなんですね」


 そう呟いたケイトリンの言葉が、渚に届いていたのかはわからない。

 ただ黙々と、渚は準備を続けた。





 ……すぐに物品は整い、まずは患者の状態を確認し始める彼女。


 血圧、体温、呼吸数、脈拍。主にこれらの数値で表される患者の状態を、『バイタルサイン』と呼ぶ。


 年齢ごとに平均値は決まっていて、そこから大きく外れていなければ、ひとまずは『正常』だと判断することができる指標である。


 渚はテキパキとそれらを計測し、結果から足浴実施に問題はないと判断したようだ。



「やっぱり痛みが原因でちょっと血圧上がってるけど、他は問題なし。おばあちゃん。お風呂に入った時に胸が苦しくなったりとか、頭がクラクラしたこととかある?」

「いや、ないねぇ……」


 患者さんからの証言も、非常に重要な情報だ。

 数値だけで判断できないことなど、山ほどある。



「じゃあ、最初はぬるめで。おばあちゃん、靴と靴下脱いで」

「悪いねぇ」


 渚の指示に従う老婆だったが、その瞳には懐疑の色がにじんでいる。

 確かに、足湯くらいでつらい痛みが取れるのならば、とっくにやっていると思うことだろう。




 それでも渚は、その手を止めはしない。


 

 まず最初に、少しだけお湯を患者の足にかける。

 温度確認と、急に足をお湯につけて急激な血圧変動が発生することを防ぐためだ。


 たまにあっついお風呂にドバシャー! と入る人を見かけるが、アレすごく危険なので今すぐやめた方が良い。冗談抜きで『心臓に悪い』から。

 さておき、ゆっくりゆっくりと、老婆の足にお湯をかけ、顔色などをうかがいながら声かけを続ける渚。


 先ほども言った通り、一番怖いのは意識消失だ。

 絶えず声掛けをすることによって、患者の異常をすぐさま察知することができる。


「どうですか? 熱くないですか?」

「丁度いい。気持ちいいねぇ」

「良かったです。じゃあ、このまま二十分くらい足をつけてもらってていいですか? お湯が冷めたら、遠慮なくいってください。継ぎ湯しますので」

「そんなにかい? そんな長い時間お湯に足をつけて、大丈夫かねぇ」

「大丈夫ですよ。安心してください。それと、少しでも気分が悪くなったりしたら、声をかけてください」


 渚は椅子を引っ張り出してきて、老婆の隣に腰掛ける。

 遠くの国から来たという設定にして、いろいろな話を聞いた。家族のこと、老婆自身のこと、この国のこと……。



 老婆はとても楽しそうに、渚にいろんなことを打ち明けた。

 最近話し相手がいなくて寂しかったとも、呟いていた。



「おばあちゃん、そろそろ体がポカポカしてきませんか?」


 二十分ほど経ったところで、会話を途中で切り上げて渚が尋ねる。

 老婆の額には、うっすらと汗がにじんでいた。



「そういえば、そうだねぇ。汗もにじんできたし」

「足の痛みは、どうですか?」

「……あっ……! 言われてみれば……!」


 老婆は驚きの声をあげ、お湯から足を上げる。

 顔を見るだけでわかる。お世辞でも何でもなく、痛みが軽くなっているのだろうということが。



「お風呂はね、ただ入るだけじゃダメなんです。最低でも二十分。ゆっくり時間をかけてつからないと、痛みを抑える神経が働いてくれないことが多いんですよ」

「足湯だけで、こんなに良くなるものなんだねぇ……!」


 もはや、老婆の瞳に疑いの色はかけらも残っていない。


「足湯なら自分でもできるでしょうし、痛くなったらまたご自身で試してみてください。なにか質問があったら、何時でもいらしてください」



 老婆にそう伝えた渚の顔からは、鬱病の陰など、微塵も感じとることができなかった。









「ほら、やっぱり渚さんはねっからの看護師さんなんですよ!」

「うるせぇ、気の迷いだ」



 何度も何度も礼を言いながら、老婆がここを辞していったのがつい先ほど。

 椅子に腰かけふてくされた様子の渚に向け、ケイトリンはさらに続ける。



「でも、あんなに嬉しそうだったじゃないですか。あのおばあちゃんに『ありがとう』って言ってもらえた時の、渚さん」

「……」

「とりあえず、少しだけ、やってみませんか? この世界で、看護」


 渚は答えない。

 ただ、老婆が去っていった出入り口を見つめている。



 自身の手のひら、とはいっても生前のものよりずいぶんひ弱で華奢になってしまっていたが、とにかく、自身の美しい手のひらを見落としつつ、渚は大きなため息をついた。


 ――患者さんにありがとうって言われるのは、嫌いじゃねぇんだよなぁ。ここには、クソウゼェクソ上司も、煩わしい人間関係もない――



 

 彼女が立ち上がる。


 迷うことなく、出入り口の前へ。 

 そして、アンティークなドアノブに、手をかけた。


「とりあえず、異世界ってのは、気になる」


 とても小さなつぶやき。

 だがケイトリンは、渚のその呟きに、今まで見たことがないような笑顔を浮かべた。




「看護するかしないかは保留。とりあえず、むりやり連れてこられたこの異世界とやらをこの目で確かめたい。話はそれから」

「はい! きっと気に入っていただけると思います!」



 渚が、ドアノブを握る右手に力を籠める。

 

 ドアの隙間から、光の束が射し込んだ。





 

 

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