2話 ~そんな、嫌ですよ~
ようやくプロローグがおしまいです。
「な、ななななななんでですか! 異世界ですよ!? 今はやりの異世界転生ですよ!? なんのストレスもない異世界で、のびのびと自分のスキルを活かして無双できるのですよ!?」
味気ない事務所に、ケイトリンのすがるような絶叫が響き渡った。
我を忘れて事務机に身を乗り出し、対面する神崎渚へと唾を飛ばしている。
「嫌ですよそんなの。俺は、もう生きること自体が嫌で自殺したんです。息をすることすらめんどくさいし、あなたと話すことすらもめんどくさいんです。ほおっておいてくれませんか」
しかし、渚は顔面にケイトリンの唾液を受けながらも、毅然とした態度を崩さぬままそう返した。
瞳には、死んだ魚の瞳の濁りが映し出されているような印象さえ受ける。
こんな意味不明な現状に置かれてなお冷静に見える態度をとっているのは、彼の肝っ玉が据わっているからというわけではなさそうだ。
鬱病は、何事に対してもやる気や積極性が失われる病気なのだから。
こういうブッとんだ状況ですら、
『へぇ、あぁ、そう……』
くらいにしか、心が動かなくなるのだ。
その濁った瞳のまま、彼は続けた。
「俺がなんで首を吊ったか、わかりますか? 自分で言うのもなんですが、鬱病で死んだんですよ俺。もうなにもかも嫌になって、あー上司うぜー仕事行きたくねー起きるのダリー生きるのダリーってなって自殺したんです。それをなんで、わざわざ異世界に行って生き続けなきゃいかんのですか」
渚は一足次に、まくし立てた。
こちらも本気の勢いだ。しかし、ケイトリンのそれと違ってまったく覇気がない。
「だから、お断りします。もうゆっくり休ませてください。これ以上生きたくないんです」
そして最後に、そう付け加えた。
「こんなに頼み込んでも、ダメですか……?」
「お断りします。そもそもですけど、看護師が異世界に言ってもできることは限られてると思いますよ? だったらドクターを送った方が良いと思いますが」
「お医者さんは、人生を途中リタイアする方が少ないのです。前世を途中リタイアした方でないと、異世界に送ってはいけないことになっているのです」
「確かに、ドクターになってまで自殺する人は少ないかぁ……」
しみじみと、生きていたころの思い出に浸る渚。
ケイトリンは、追い打ちをかけるようにさらに続けた。
「それに! 向こうには保助看法もないですし、医療法も刑事罰もありません! ぶっちゃけ看護師がオペをしてもなーんの問題もありません!」
「しても問題ない以前に、できませんから」
「と、とにかく! あなたの判断で好き放題できるんです!」
「それってかなり重い責任を負うってことですよね。嫌ですよ。これ以上心に重荷を背負うのは」
「ぐぬぬ……」
ああ言えばこう言う。典型的なイタチごっこになりつつあった会話に、ケイトリンがメスを入れた。
「……わかりました。そこまで言うのであれば仕方ありません」
ずっとこの押し問答が続くのかと、渚は内心辟易し始めていた。
しかし意外にも、ケイトリンは大人しく矛先を引っ込める。
「わかっていただけましたか。それでしたら、もうこのまま成仏させてください。そして、二度とこの世に生まれることが無いようにしてください」
「わかりました。そこまで言うのでしたら、仕方ありません。強制的に異世界に連行させていただきます」
「いやちょっと俺の話聞いてました? もうゆっくりってうわああああああああああああああああああ!!!」
突然、何もなかった事務室に光の奔流が発生した。
岩場に打ち付ける波とでもいえばいいのだろうか。はっきりとした質量を持った光の塊が、その場の全てを飲み込まんとするような勢いでうねり始める。
「申し訳ありません渚さん。こっちも人手不足がヤバいレベルなのです。医療従事者は当人の合意なく異世界へと転生させていただきます」
「今までの茶番とは!?」
「無理やり連れて行くより、やっぱり合意を得たうえでのほうが気持ちいじゃないですか!」
「俺の意見を!!」
やがて、渚の体がその光の奔流へと吸い込まれていく。
それに触れた彼の体も光の粒と化し、渦の中心へと引き込まれていく。
「もういやだぁ……死んでやる。死んでやるからなぁ~……」
そんな物騒な捨て台詞を残しつつ、彼の体は渦の向こうへと消えていった。
そして、何事もなかったかのようにその光も虚空へと消失する。
「あ、そうだ。彼を送った世界の監視官から要望が来ていたような……」
彼が旅立ったことを見送った彼女は、事務机の上に投げ捨てられていた一枚の書類をひったくる。
「あっ、できれば可愛い女の子希望。となっていますね……。まぁ、女の子にしちゃえば問題ないでしょう。ほかに看護師がいないんだし。それよりも……」
目を通していた書類を再び机の上に投げやり、ケイトリンは大きくため息をついた。
「異世界に着くなり自殺でもされたら、困りますねぇ。ひっさしぶりの若い看護師さんなのに……」
そう呟く彼女の瞳には、なにか良からぬことを考えているような、それでいて罪悪感を感じているような、そんな相反する不思議な光が宿っていた。
3話に続く。