第九幕 第四場
わたしが目覚めると、そこはベッドの上だった。ビル・グレイ博士が心配そうにわたしの顔をのぞきこんでいる。あたりを見まわすと、数人の研究員とともにルイス・ベイカーの姿もあった。ベッドのまわりには医療機器が並び、わたしの右腕には点滴の針が突き刺さっている。
「どうやら目を覚ましてくれたようだね」グレイが安堵した表情を見せる。「なかなか意識がもどらないから、心配していたんだよ」
「……グレイ博士」わたしはまどろむ意識のなか、つぶやくようにして言う。「いったいこれはどういうことですか?」
「いまの状況がわかるかい?」
わたしはしばし考えてみる。「たしかわたしはレイシー・レイクスに取り憑かれたメアリーと夢の共有をしていたはずです。でもそこから先の記憶がよくわからない。なんだか記憶がごちゃごちゃしているみたいな感じです」
「すまないアリス。それはぼくが原因だ。悪いと思ったが強制的に起こしてしまったんだ。そのため、いまのきみには記憶の混乱が生じてしまっている」
記憶の混乱? たしかにわたしの記憶は混乱している。メアリーとの夢の共有、そのあとの記憶がごっそり抜け落ちているみたいだ。だがしかし、何やら大事なことがあったような気がする。忘れてはいけない大切な約束が。
思い出そうとするも、頭のなかに何も浮かんでこない。いや、浮かびはすれど、それは一瞬で消え去ってしまう。まるで駅のホームに立ち、そこを通過する列車の乗客を窓からのぞき込むかのようだ。何度も何度も思い出そうと試みるも、記憶は一瞬で過ぎ去り、わたしが理解する前に消えてしまう。
……おかしい。既視感を感じる。前にも同じようなことがあった気がする。だからわかる、過ぎ去る記憶を忘れてはならない、と心が叫んでいる。その心に突き動かされ、わたしは意識を集中させた。そして見えたロリーナ・ベルの姿が。ロリーナは涙を流しながらほほ笑んでいた。いったいそれはなぜ?
「ロリーナはどこ?」わたしは上体を起こして部屋を見まわす。「この部屋にいたはずよ」
「彼女はここにはいないよ」グレイが言った。
「嘘よ。ロリーナがいたはずだわ」
グレイは表情を曇らせた。「もしきみがそう感じたんだとしたら、それはきみにロリーナの魂が取り憑いていたせいだろう」
「ロリーナの魂が取り憑いた?」わたしは眉根にしわを寄せる。「どういうこと?」
「……きみにはとても言いづらいんだが、ロリーナは亡くなってしまっているんだ」
わたしは愕然となる。「ロリーナが……亡くなった?」
グレイは説明した。恩人であるエリック・ローランドが亡くなったあと、ロリーナは監視の目をあざむいて逃亡。その後、市内のホテルの一室で首を吊って後追い自殺してしまった。
そのためレイシーに取り憑かれてしまったわたしの救出のために、ロリーナの魂を呼び出してわたしに取り憑かせた。状況が特殊だったために、グレイ自身みずからがわたしと夢を共有し、取り憑いていたロリーナと協力してレイシーをわたしの体から追い払ったそうだ。そのあとは衰弱するわたしに悪影響を与えないよう、ロリーナは成仏したとのこと。
「彼女は死後もきみのことを思っていたよ」グレイはやさしくほほ笑む。「きみに伝えてほしいと言われた。あなたを救えてわたしは満足だ、とのことだ」
「ロリーナ……」わたしはやりきれなさから両のこぶしを握った。
「つらいと思うが、彼女のためにも笑ってあげてほしい。それを望んでいるはずだから」
「どうしてよグレイ博士!」わたしは非難するような口調になる。「どうしてもっと早くロリーナを見つけてくれなかったの」
「えっ?」グレイは虚をつかれた様子だ。「どういうことだい?」
「グレイ博士言ったじゃない、透視能力者に捜索をお願いしたからいずれ見つかるって。なのにどうしてこんな結果になるのよ」
「それはどういうことだねグレイ博士」それまで静かに事の流れを見守っていたベイカーが口を開いた。「そんな話、われわれは聞いていないのだが」
「いえ、これはぼくもロリーナの行方が心配で、ほかの研究部門の人間に捜索の協力をお願いしていたんです」
「ならなぜ、われわれに報告しなかった」ベイカーは不信感をあらわにした。「きみはエイトの最終責任者として、われわれ軍部とお互いの情報を共有し合う立場にあるではないか」
「もちろん行方が判明したらお知らせするつもりでした。ですが見つけることができなかったんです」グレイは苦笑するような声を漏らした。「それで何も報告しなかったんですよ。報告しても無意味でしょう」そこまで言うと視線をわたしに向けた。「だからアリス、あまりぼくのことは責めないでほしい。どうにもならないことだってある」
「そんな……」わたしはうつむいてしまう。
たしかにどうにもならないことがある。それはわかっていたはずなのに、どうしてだがグレイに八つ当たりするようなまねをしてしまった。なぜだろうか、グレイに対して異常なまでの険悪感をいだいている。なぜここまできらっているの?
自分のことなのに、自分でわからない。こんな経験ははじめてだ。なのにまたしても既視感がある。以前にもこんなことがあったかしら?
わたしは自分の両の手のひらに視線を落とした。わたしは共感者だ。人の手を握ることで、その人の心がわかる。だったらその力で自分のこともわかるのでは?
……どうしてそんなことを思いついたんだろう。やはり以前に同じことをしたのだろうか。
わたしは祈るように両手を組み合わせると、ゆっくりとまぶたを閉じた。そして忘れてしまったであろう何かを取りもどそうと、自分の記憶を探ってみる。浮かんでは消える記憶の数々が、しだいに形をとり、パズルのピースのようにつながっていく。やがて記憶を取りもどすにつれ、わたしのなかで復讐の炎が激しく燃えあがっていた。
ビル・グレイ。狂気のマッドサイエンティストが目の前にいる。こいつだけはぜったいに許せない。グレイはエイトの最終責任者として軍部と情報を共有しており、ロリーナの過去も知っていた。だから復讐のために殺したんだ。グレイには何もかも最初からわかっていたのだ。にもかかわらず、わたしたちに軍部の機密扱いだからと言い訳して知らないふりをした。
どおりでベイカーがロリーナのことを語ったとき、奇妙な違和感を覚えたはずだ。ベイカーの話では、グレイが軍部の機密を知っていることが前提で話をしてくれたからだ。
わたしは笑顔を繕うと顔をあげた。「すみませんでしたグレイ博士。あまりにもいろんなことがあって、わたしは情緒が不安定だったみたいです。ほんとうにごめんなさい」
「いいんだよ気にしなくて」グレイは明るく笑った。「きみは目覚めたばかりで、少しばかり混乱しているんだ。無理もないさ」
わたしはベイカーに顔を向ける。「ベイカーさん、あまりグレイ博士を怒らないであげて。ロリーナのことを心配していたわたしのために、捜査協力をお願いしてくれたんですから」
おそらく透視能力者のおかげで、グレイはロリーナの居場所を知ったはずだ。さっきは見つからなかったと言っていたが、それは真っ赤な嘘。そうでないと軍の捜索よりも先にロリーナを見つけだすなんて不可能だ。
「それとベイカーさん。いままでわたしを見捨てずに見守ってくれたこと、ほんとうにありがとうございます」わたしは両手をひろげてハグを求める仕草をする。「おかげでこうして目覚めることができました」
「きみはわたしの親友ヘンリーの娘。きみの力になるのは当然のことだよ」
わたしとベイカーはハグを交わす。わたしはその隙に、ベイカーの腰に携帯されていた拳銃をこっそりと抜き取った。そして抱擁を解くと同時に、拳銃をグレイに向けた。
「ビル・グレイ!」わたしは怒気を含んだ声で叫んだ。「この悪魔め」
部屋にいた人々が動揺し、ざわめきはじめた。グレイも落ち着かな気な表情を見せている。
「何をしているアリス」ベイカーは自分の腰に目をやり、拳銃を抜き取られたことを悟ったらしく、わたしを制しようと手を伸ばす。「銃を返しなさい」
「全員動かないで!」
わたしはすぐさま天井に向けて拳銃を発砲した。するとベイカーは驚き、わたしを制しようとした手を引いた。部屋にいた人たちの動きは止まり、ざわめきは聞こえなくなる。あたりは静まり返り、みなの視線がわたしに集中し、その一挙手一投足を警戒する。
「アリス落ち着きなさい」ベイカーがわたしをなだめる。「その銃をわたしに返すんだ」
「ベイカーさん聞いてください、ロリーナは自殺なんかしていない。殺されたのよ」
「なんだって?」ベイカーは困惑した様子だった。「急に何を言っているんだ」
「目の前にいるこの男にロリーナは殺された」わたしはグレイをあごでしゃくる。「わたしは知っている。グレイ博士がハートマン上院議員の仲間だったことを。その後ろ盾を利用して悪事を働いてきた、時には人を殺すこともいとわずに。そのせいでロリーナは殺された。ロリーナだけじゃない、夢占い師だったレイシー・レイクスも自殺に見せかけて殺した。こいつはぜったいに許しておけない。生まれてはじめてよ、人を本気で撃ち殺したいと思ったのは」
ベイカーの表情がみるみるきびしくなる。「……それはほんとうなのかねグレイ博士?」
グレイはしばし間を置くと相好を崩した。「そんなまさか。どうやらアリスの記憶の混乱はひどいようだ。あなたからも銃をおろすよう、説得してください。アリスはぼくのことを何やら人殺しだと誤解している。ロリーナもレイシーも自殺だったんですよ」
「ふざけるな!」わたしは怒鳴り声をあげる。「みずから検死解剖を担当して証拠を隠蔽し、自殺と偽ったくせに」
わたしのことばを聞いて、グレイの表情から笑みが消えた。
「それにわたしは知っている」わたしは話をつづけた。「こいつはわたしと同じ共感者のマンセルさんも殺した。病魔に冒されているとだまし追い込んで、みずから献体になるようしむけた。エイトで受けた健康診断の結果を偽造したんだ。調べれば証拠は出てくるはずよ」
研究員たちが疑わしげな視線をグレイに向けた。グレイは真顔のまま、みなと視線を交わしていく。
「……もう一度言うよアリス」グレイは静かに口を開いた。「きみは長いことレイシーに取り憑かれていたんだ。そのせいで記憶に混乱が生じてしまっている。さらにはぼくが強制的に起こしてしまったせいで、その混乱はひどいものなってしまった。これらのことは、きみが目覚めるときに、想定されていたできごとだ」そこでベイカーに視線を向ける。「ミスター・ベイカー。ぼくはそのことを事前にお話ししました。もちろん覚えていますよね?」
「ああ」ベイカーはうなずいた。「たしかにきみはそう説明した」
「だったらアリスを説得してください。彼女はひどく混乱している。このままでは銃の引き金を引きかねない」
「わかった」ベイカーはそう言うと咳払いする。「アリス、グレイ博士の言うとおり、きみは混乱している可能性がある。だからこんなことはやめるんだ。わたしに銃を返しなさい」
「たしかにその可能性はあるかもしれない。さっきまでのわたしは記憶が混乱していた。それは認めるわ」わたしは拳銃を片手で持つと、あいた手を前に出した。「だったらビル・グレイ、わたしの手を取ってよ。あなたが真実を語っているのだと、わたしに教えて。あなたが嘘をついていないとわかったなら、この銃はおろすわ」
不気味な沈黙が訪れた。動こうとしないグレイを、みなが不審の目で見つめる。グレイはけわしいまなざしをわたしに向けていた。
「オッケー、わかったよアリス」グレイはにっこり笑うと両手をあげた。「いまからそっちへ行く。ぼくには敵意はない。だから誤って撃ったりしないでくれよ。ぼくが信用できる人間だと証明してあげるからさ」
グレイは一歩ずつゆっくりと、わたしのいるベッドへと近づいてくる。極度の緊張のせいか、心臓の鼓動が激しくなり、息が荒くなった。もしかするとグレイは意表をついて拳銃を奪いにくるかもしれない。それだけはぜったいに避けなければならない。追いつめられた人間が拳銃を手にすれば、何をしでかすかわからない。
だれしもが固唾をのんで見守るなか、グレイはわたしのところまでもうわずか数歩の距離まで来ている。わたしは左手をできるだけ前に突き出し、拳銃を持つ手を脇の近くまでさげた。こうすることで拳銃をうばわれる危険性を排除する。
わたしは拳銃を奪われないよう、グレイの手元ばかり警戒していた。だからグレイの足が大きく動いたとき、それに気づくのが遅れてしまった。
グレイが点滴スタンドを蹴り倒すと、それにチューブを通してつながっていたわたしの右腕は引っ張られる。その瞬間、グレイは一気にわたしとの距離を詰めた。すぐさま引き金を引くも、あらぬ方向に弾丸は飛んでいってしまう。グレイはわたしの手をつかんで拳銃を奪うと、そのままわたしを羽交い締めにし、頭に銃口を突きつけた。
「全員動くんじゃないぞ!」グレイが叫んだ。「こっちに近づけばアリスを殺す」
「きまさグレイ!」ベイカーが鋭くにらみつける。
「動くなよミスター・ベイカー。少しでも妙なまねをすれば引き金を引くぞ!」
グレイは乱暴にわたしをベッドからおろして立たせる。そのため右腕につながっていた点滴のチューブが勢いよくはずれ、右腕に鋭い痛みが走った。視線を向けてみると点滴の針は突き刺さったまま変な方向に曲がり、血が漏れはじめている。
グレイはわたしを引きずるようにして、部屋の後方へとさがっていると、さわぎを聞きつけた人たちが部屋へとやってきた。そのなかには拳銃を携帯した軍人もおり、状況を悟るやいなや、すぐさまそれを構えた。
「おいそこのおまえ銃をおろせ!」グレイはわたしを盾代わりにすると叫んだ。「さもないとこいつを殺すぞ。わかったのなら、その銃をこちらによこすんだ。さっさとしろ」
「いまは彼の言うとおりにするんだ」ベイカーが命令する。
軍人の男はベイカーと視線を交わすと、拳銃をおろした。そしてゆっくりとした動作で拳銃を床に置くと、それをグレイの方へと滑らせる。拳銃はわたしたちの足下で止まった。
「なんでぼくがこんな目に遭うんだよ!」グレイはいきり立つ。「せっかくうまくいってたのに、おまえのせいだアリス。おまえが余計なことをするから、こんなことになるんだ」
「わたしのせいだと?」わたしは顔をしかめた。「あなたの自業自得でしょう。これまでしてきたことに、報いを受けるときがきたのよ」
「ちくしょう、どうしてこんなことに!」
「どうしてですって。そんなこともわからないの。だったら馬鹿でもわかるように、わたしが教えてあげようか、ビル・グレイ博士」
「うるさい!」グレイの目が血走る。「ぼくは馬鹿じゃない天才だ!」
わたしはあえてグレイを挑発することでその注意をそらし、自分の腕に刺さっている点滴の針を抜いているのを気づかせないようにしていた。この針は武器に使えるだろう。抜き取るまでのあいだ、気をそらすべく話をつづける。
「あなたに好意を寄せていたにもかかわらず、レイシーはあなたに殺された。そのことで彼女は死後もその死を嘆いた。その無念の思いをロリーナが受け継いだ。そしてロリーナは自分が殺された無念とともにレイシーの思いも、わたしに受け継がせたわ」わたしはそこで語気を鋭くさせる。「わたしになら自分たちの無念を晴らしてくれると信じてね」
わたしはいい終えるとベイカーに目配せを送る。足下の拳銃に視線を向けて、それからベイカーを見る。それを三回繰り返したところで、ベイカーは理解したらしく小さくうなずいた。
わたしは足下にあった拳銃を蹴るのと同時に、抜き取った針をグレイの腕に突き刺す。その瞬間拘束がゆるみ、わたしはすかさず両足を前に投げることで、床へと落ちていく。床へ落ちるまでの時間が、まるでスローモーションのようにとても長く感じられた。
グレイは何やら雄叫びをあげると、落ちていくわたしに顔を向けた。その表情は鬼気迫っており、わたしにありったけの憎しみをぶつけているように思えた。やがてわたしに拳銃を向けると、その引き金を引く、少しずつゆっくりと。やがてその指が中程まできたとき、銃声がとどろいた。だがグレイの指はまだ引き金を引ききっていない。するとグレイの胸から突然血が噴き出し、その手から拳銃がこぼれ落ちる。
わたしが床に落ちるとスローモーションは止まった。そばに落ちてきた拳銃を拾うと、すぐさま立ちあがり、それをグレイに向けて構えた。
グレイは後ろによろめきながら、壁を背にすると、それを支えにするようにして床へとすべり落ちていく。胸元の傷を押さえながら、痛みに苦しみ喘いでいた。
わたしが振り返ると、ベイカーは構えていた拳銃をおろすところだった。わたしはふたたび前を向いてグレイを見おろした。着ている白衣がみるみる赤く染まっていく。
「こんな……小娘にひとりにしてやられるなんて」グレイは苦しげに咳き込んだ。「天才である……ぼくが……負けるはずが……」
「やっぱりあなたは馬鹿だわ」わたしは嘆かわしげに首を横に振る。「あなたはわたしに負けたわけじゃない。わたしたちに負けたのよ」
わたしがそう告げるとグレイは事切れ、その人生に幕を閉じた。




