第二幕 第一場
わたしの意識は深くまどろんでいた。もう何も考えたくない。もう何もしたくない。だからこのままずっと思考停止していたい。
……いまのわたしにあるのは絶望だけだから。
悲嘆にくれていると、何やらうなり声のような物音が聞こえてきた。わたしにはそれがとても不愉快だった。もう何も考えずに、このままずっとまどろんでいたいというのに、耳障りな音がそれを邪魔する。
苛立ちから目を開けると、驚くべきことにあたりは漆黒の闇に包まれており、どこにも光は見当たらない。これはいったい何事かと思い、あたりに視線を走らせようとしたそのとき、あることに気づいた。
「……浮いている?」
何もない真っ暗闇の空間に、わたしの体はたゆたうようにして宙に浮いているのだ。さらには重力の感覚もなく、上も下もわからない。こんなことが現実にありえるはずがない。だからわたしはすぐさま自分の状況を悟った。
「……そうか、ここは夢の中か」
わたしは思わず苦笑してしまう。ここが夢の世界なら、このままずっとこの世界の住人でいつづけたい。もうつらい現実へと帰りたくないのだから。
そんなわたしの思いとは裏腹に、耳障りなうなり声がしだいに大きくなり、やがて明瞭になってくる。するとその声がわたしの名前を呼んでいることに気づいた。
「……だれよ。わたしを起こそうとするのは」
どうやら現実世界でだれかがわたしを起こそうと、その名をまるで呪文でも唱えるかのように繰り返し口にしているらしい。はた迷惑なやつだ。いったいだれの仕業だ?
よく耳を澄ましてみると、その声の持ち主はひとりだけじゃない。どうやら複数人でわたしに語りかけているらしい。
「うるさい!」わたしは手で耳を塞ぐと叫んだ。「わたしのことなんかほっといてよ! このまま目覚めれば、つらい現実が待っているだけ。そんなのいやだ。わたしには絶望しか残されていない。生きる希望なんてどこにも——」
希望、そう口にしたその瞬間、脳裏に金髪碧眼の少女の姿がよぎり、わたしははっとする。自分にはまだすがれる希望が残されている。だから思わずその名を叫んだ。「アリス!」
体をがくっとさせながら目覚めたわたしは、突っ伏していたテーブルから顔をあげると、重たいまぶたをこすった。頭のなかが霧がかったように、ぼんやりとしている。
意識をはっきりさせるべく、目頭をもみほぐしながらあたりを見まわし、自分のいまの状況をたしかめる。どうやら自分はカフェの店内にあるテーブル席で寝ていたようだ。
「……なんでわたしはこんなところに?」
ふたたびあたりを見まわす。こぢんまりとした店内には見覚えがある。『彼』といっしょに何度かここへ来たことがある。ロンドン市内にあるカフェだ。店には半分くらい客がはいっているが、だがどの顔にも見覚えがなく、だれかがわたしを起こそうとしていたとは思えない。
不思議に思いながらも、わたしは自分がすわるテーブル席へと視線をもどした。するとテーブルの上に置いてあった新聞が目に留まる。
「一九五二年の十二月十日」わたしは日付を読みあげた。「もうあれから一ヶ月も経っているのか……」
暗鬱なため息をつくと、窓の外に視線を向けた。あたりは濃い霧に包まれており、昼間だというの見通しが悪い。まるでいまのわたしの気分を表しているかのようだ。
しばし外をながめていると、四十代ぐらいと思われる男がこちらに向かって歩いてくる姿をとらえた。近づくにつれ、男が軍服姿なのに気がつくや、いやな予感がした。そして予想どおり男は自分のいるカフェにはいってくるなり、こちらへと近づいてくる。
「ずいぶんと探したよロリーナ」そう言って男はわたしの向かいの席にすわった。「いままでどこに行っていたんだ」
「そんなのわたしの勝手だろ」わたしはぶっきらぼうな口調で言う。「それよりもいったい何しにここへ来た、ルイス・ベイカー」
「きみに手伝ってもらいたいことがある」
「手伝いだって?」わたしは乾いた笑い声を漏らした。「よくもまあ、そんなセリフが言えたもんだよ。あんたさ、わたしが怒りをがまんできるうちにとっとと消えな。いますぐにだ」
「それはできないロリーナ」ベイカーの表情がきびしくなる。「きみはわれわれに協力する義務がある。そういう約束だったじゃないか。その約束を破るのか」
「ふざけるな」わたしはベイカーを鋭いまなざしでにらみつける。「いまさらあんたらに協力するつもりなんかない。それに約束を破ったのはそっちのほうじゃないか」
ベイカーは重苦しいため息をついた。「いろいろとわだかまりがあるのは知っているし、いまさらわたしが謝ったところで、どうにもならないことは承知している。だけどきみには是が非でも協力してもらわなければならない、アリス・キャロルを救うために。アリスを救うには彼女と同じ力を持つ、きみじゃないとだめなんだ」
そのことばを聞いてわたしは気を動転させた。「お、おまえら……アリスに何をした?」
「どうやら話を聞く気になってくれたようだね」ベイカーはほくそ笑んだ。「ならばついてきてもらおうかロリーナ」