第六幕 第一場
夢占い師が住んでいた家を見終え、わたしはルイス・ベイカーが運転する軍用車でエイトへと向かっていた。ベイカーの話によると死んだレイシー・レイクスの魂が、その姪っ子であるメアリーに馮依していために、アリスとの夢の共有実験は失敗したという。そのせいでメアリーに取り憑いていたレイシーが、こんどはアリスに取り憑いてしまったらしい。実験後、メアリーが自身の意識を取り戻したことから、そう推測されるそうだ。
死んだ人間の魂が生きている人間に取り憑いた。はじめそう聞かされたとき、わたしはたちの悪い冗談かと思って吹き出してしまった。そんなことがありえるはずがない。だがしかし、話を聞いていくうちに、半信半疑ながらも信じるようになった。
わたしとアリスであれだけ夢を操るトレーニングをおこなったんだ。ふつうなら夢の共有が失敗するはずがない。失敗するとしたら、ふつうではないことが起きたとしか考えられない。そう死者との接触がまさにそれだ。
……死者、そのことばを思い浮かべるたびにエリックの顔が脳裏をよぎる。わたしがはじめてエリック・ローランドと出会ったのは冷たい地下室でのことだった。わたしは悪名高い政治家から宝石を盗もうとし、へまをして捕まり拷問を受けていた。わたしが金庫をあけたときにはすでに宝石はなく、その行方を知らない。あとでわかったことだが、宝石は政治家の妻が愛人にそそのかされて盗んでいたらしい。わたしはそのせいで盗んでもいない宝石のありかを拷問で聞き出されていた。だがその答えなど持ち合わせているはずもなく、毎日のように苦痛を与えられた。殴り、爪を剥がし、指を折る。ときには背中をむちで打ち、水攻めにされた。
そんなある日、きょうもまた地下室の階段をおりてくる音が響き、わたしは恐怖で震えいていた。またあの残忍な顔をした男がやってきて、わたしを痛めつけるんだ。そう思うと自然と涙がこぼれた。またあんなひどい苦痛を与えられるのなら、もう死んだほうがましだ。
だがしかし地下室に現れた人物は政治家の男ではなく、まったくの見知らぬ人物だった。
わたしは腫れたまぶたの隙間から、謎の人物を見つめる。三十代ぐらいと思われるスーツ姿のその人物は、彫りが深い顔つきをした銀髪の男で、その手には拳銃が握られていた。
半裸の状態で両手に鎖をはめられ、天井から吊るされているわたしを見て、男は眉ひとつ動かさなかった。ふつうの人間ならば、痛々しいわたしの姿を見れば、何かしらの反応を見せるはずだ。だが男の表情には驚きも嫌悪も同情といった感情はあらわれず、まるで精巧に作られた人形のごとく、無表情でわたしを見つめている。
「……あなた、いったいだれ?」わたしはどうにか、か細い声を絞り出した。
「ただの殺し屋だ」男は冷淡な口調でそう告げた。
「そう、そういうことか……」
政治家の男が殺し屋を雇ってわたしを始末しようとしている。きょうここでわたしの人生は終わりを告げる。そう思ったとき、すべてがどうだってよくなった。戦争で家族を失い、惨めな人生を送ってきたんだ。どうせわたしには明るい未来なんてない。だからもうここで終わってもいい。いや終わらせてほしい。そうすれば、もうこれ以上苦しまなくてすむ。
「……わたしを殺してください」
返事はなかった。だが男はわたしの望みどおりこちらに拳銃を向けた。そしてつぎの瞬間、銃声がとどろくや、わたしは重力に引っ張られるかのように床へと落ちていく。そして床へと叩き付けられると、わたしは痛みに呻いた。
いったい何が起きたの?
遠のく意識のなか、自分の両手を縛っていたはずの鎖が切れているのが確認できた。それがどういうことなのか、理解する前にわたしは気を失った。
そして目覚めると、見知らぬ部屋のベッドの上だった。わたしはサイズの合ないだぼだぼの男物の寝間着を着せられ、そのうえ傷の手当をされた状態だった。
そのときはじめに思ったことはなぜ生きている、という疑問だった。殺し屋がわたしを殺さずに手当までするのはおかしい。これはいったいどういうことだ?
そんなことを考えていると、殺し屋の男が部屋にやってきた。わたしが起きていることに気づいたらしく、こちらに顔を向けて見つめてくる。その表情は最初に見たときと同じように無表情で、何を考えているのかまったくわかならい。
「気がついたようだな」男はわたしが眠るベッドのへりに腰かけた。
「どうして……わたしを殺さなかったの?」
「どうして殺さないといけない?」
わたしは眉をひそめた。「だってあなた殺し屋なんだよね。だったら人を殺すのが仕事でしょう。だからあの日、わたしのところに来たんじゃないの?」
「たしかにおれは殺し屋で、あの日は人を殺しにきた。だがターゲットはきみではなく、政治家の男だった」
「ちょっと待って、それじゃあ……あの政治家の男は死んだの?」
「ああ、おれが始末した」
「あなたは殺し屋で、あの日は政治家の男を殺しにきていた……」わたしはいまのこの状況を把握しようと頭を働かせる。「それはわかった。でもどうしてわたしを助けたの?」
男はしばし間を置く。「わからない」
「わからない?」わたしは思わずオウム返しする。「どういうこと?」
「自分でも、なぜおまえを助けたのかよくわからない」
「自分でしたことでしょう。それなのにわからないって意味不明だわ」
「おれもそう思う。こんなとき自分の心を理解できるすべがあれば、便利なのだがな」
そのことばにわたしは思わず男に手を伸ばす。そして男の手にふれた瞬間、鋭い痛みが手に走った。苦悶する声を漏らしながら自分の手を見ると、包帯でぐるぐるに巻かれていた。それを見て記憶がよみがえる。わたしの両手の爪ははがされ、いくつかの指は折られていた。相手の心を読み取るには、素手で直接相手の肌にふれないといけない。これでは無理だ。
「あまり無理はしないほうがいい。じゃないと折れた指がくっつかない」男はそう言って立ちあがる。「もう時間だから仕事に行く。食事はキッチンにあるものを適当に食べるといい」
「ちょっと待ちなさいよ」立ち去ろうとする男をわたしは呼び止めた。「行く前に教えて」
男はこちらに振り返り、無表情な顔でこちらを見おろす。「何をだ?」
「わたしはロリーナ。あなたの名前は?」
「おれはエリックだ」そう名乗ると男は行ってしまった。
こうしてわたしとエリックとの奇妙な共同生活がはじまることになった。わたしたちはロンドン市内にあるマンションの一室で暮らしていた。ふだんエリックは部屋にいて本を読んでいた。そしてときおりエリックは仕事に行くと言って、数日間家を留守にする。おそらくは人を殺しに行くのだろう。そして帰ってくると、まるで何ごともなかったかのように拳銃の手入れをしている。わたしにはそれが不思議でたまらなかった。
エリックは基本無口なうえに常に無表情で、感情を表に出さない。わたしも両手の負傷のため、その心を読み取ることができず、何を考えているのかまったくわからない。だけどそんなエリックに対して不思議とこわいとは思わなかった。命の恩人だからだろうか?
「どうしていつもそんな無愛想な顔をしているの?」ある日、わたしは思い切ってエリックに尋ねてみた。「そんなんじゃ、あなたが何を考えているのかわからないわ」
「物心ついたときから、そうしろと教えられてきたからだ。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、そういった感情を抹消することで、常に冷静に行動できるようと」
「いったいだれがあなたにそんなことを?」
「この国だ」
エリックの説明によると、第一次戦後ほどなくして軍の機密プロジェクトが立ちあげられたという。それは常に冷静沈着で、何ごとにも動じない優秀な兵士を育成することを目的としたもので超人化計画と呼称された。その計画のために国じゅうから幼児らが集められ、英才教育とともに命令に忠実に従うよう、幼い頃から感情を押し殺すことを教えられたという。ときには危険な薬物も使用されたらしく、そのせいで廃人になった人もいたそうだ。
「……ひどい」わたしは顔をゆがめた。「それであなたはこんなふうになってしまったのね」
「ひどい?」エリックは首をかしげた。「どうしてひどいと思うんだ?」
「だってあなたは殺人マシーンにされているじゃない」
「その必要があったから、そうしたんだろ。その判断にまちがいはない。なのにどうしておまえは怒っているんだ?」
「あなたは人殺しを強要されているんだよ。人を殺すことは悪だわ」
「人を殺すことが悪?」エリックはしばし間を置く。「おまえはおかしなことを言うな。戦争のとき敵兵を殺せば賞賛された。だからおれが所属していた超人部隊は前線に送られ、たくさんの敵兵を殺してきた。そのことで勲章も授与された。戦後は殺し屋として法では裁くことのできな悪人たちを殺し、この国に貢献している。それでも人を殺すことは悪だと言うのか」
「それは……」わたしはことばに窮した。「エリックのやっていることは、もしかすると正しいことかもしれない。けどあなたは命じられるまま人を殺しつづけて、つらくはないの?」
「特に何も感じてはいない」
「そう……」わたしは肩を落とした。「それならわたしはもう何も言えない」
わたしはエリックに何も反論できなかった。きれいごとだけでは世のなかどうにもならない。戦争を経験し、孤児院で暮らし、大人たちに裏切られ、そこを脱走して生きるために悪事を重ねてきたからわかる。理想論では世界は平和にならない。なぜならば現実が見えていないからだ。現実をないがしろにして理想を唱えているだけでは、ほんとうの平和は訪れない。だからエリックは人を殺しつづける。それが正義なのか悪なのか、わたしには判断できない。
わたしはエリックに対して哀れみや同情といった感情が芽生えていた。命を助けられた恩もあってか、ほかの人間たちとはちがって信じられると思っていたし、そのやさしさに惹かれてもいた。だからだろう、わたしはその心をよく知りたいと考えるようになっていた。
そして両手の怪我がだいぶ回復したころ、わたしは包帯をほどいた。完全には治りきってはおらず、まだぎこちなくしか動かせない。だが人の手を握るくらいならできるだろう。わたしは仕事に出かけたエリックの帰りを待った。
やがてエリックが帰ってきた。だが様子がいつもとちがう。顔色が悪く、どことなく苦しげな表情に見えた。よく見るとスーツの内側に隠れたシャツが赤く染まっている。
「どうしたのエリック!」わたしは慌てふためいた。「怪我をしてるじゃない」
「すまないがロリーナ」そう言ったエリックの声は弱々しかった。「奥の部屋から救急キットを持ってきてくれ」
わたしはエリックの指示どおり救急キットを持ってくると、怪我の治療を手伝った。そして処置がすむとエリックをベッドへと寝かせる。
「ほんとうにだいじょうぶなの?」わたしは不安げな口調で訊いた。「いまからでも、病院に行ったほうがいいんじゃない」
「このくらいだいじょうぶさ」エリックは息苦しそうに言う。「はじめてあったときのおまえにくらべれば、かすり傷みたいなもんだ。じきに気分もよくなる」
わたしはエリックの顔に浮き出た汗をタオルでぬぐうと、その顔を見つめた。さすがに怪我を負ったときは苦しげな表情になっている。とはいっても、それ以外のことはわからない。
「ねえ、エリック。あなたはいま何を考えているの?」
「来週の仕事のことだ」
「馬鹿言わないで!」わたしは信じられない思いだった。「怪我をしているのに仕事なんてできるはずないわ。だれかに代わってもらいなさいよ」
「それはできないんだロリーナ」
「どうしてよエリック」
「おれが所属する超人部隊が、戦争のときに前線に送られたという話を前にしたな。あのときに仲間のほとんどが死亡した。戦後生き残ったのはわずかに数人程度。そしていまではおれだけだ。だからおれがやるしかないんだ」
「こんな状態なってもまだ人を殺すの。自分が殺されるかもしれないのに」
「それがおれの仕事だからな。それで命を落とすのなら本望だ」
わたしはエリックの手を取ると、ゆっくりとその手を握った。「……エリックの嘘つき」
「おれが嘘つき?」
「ええ、そうよ」わたしはうなずいた。「だってあなた、生き延びることができてうれしいと感じているはずよ。そのことに自分が気がついていないだけ。いえちがう、その気持ちに気づかないふりをしているのよ」
「どうしてそんなことがわかる?」
「いままで言わなかったけど、わたし素手で人にふれると、その人の心が読めるの」
「……そいつは驚いたな」エリックは眉ひとつ動かさず言う。
「それが驚いた表情なの」わたしは苦笑してしまう。「もう少し表情にださないと、他人には伝わらないわよ」
「たしかにそうかもしれない。だが感情を表すのは苦手だ。それに自分が何をどう感じているのか、自分でもよくわからない」
「そういえばあなたは以前に言ったよね、自分の心を理解できるすべがあれば便利だなって。だったらわたしがその力になってあげる。あなたはわたしを助けてくれたばかりか、どこにも行くあてもないわたしをここに置いてくれた。その恩に報いたいの」
「そうか。そいつは助かるな」
わたしはほほ笑んだ。「こういうときはもっと心に素直になって、ありがとうでいいのよ」
エリックは小さくうなずく。「わかった。そうする」
「エリック、わたしからひとつ提案があるんだけど聞いてくれる」
「なんだ?」
「あなたはこのまま仕事をつづけるのでしょう。そしてこれからも。だったらわたしにも手伝わせて。わたしのこの力を使ってサポートすれば、あなたが生き残る確率はぐんとあがるはずだから。あなたに命を救われた人間として、あなたを助けさせてほしいの」
エリックはわずかに口の両端を持ちあげた。「ありがとうロリーナ」




