第五幕 第一場
ロリーナがいなくなってしまった。あの日、ルイス・ベイカーがロリーナにエリックという人物の危篤を告げてから、きょうで一週間が過ぎたが、いまだに帰ってくる様子はない。
わたしはいま宿舎の部屋でひとりたたずんでいる。部屋を見まわし、ロリーナの私物に目を向ける。荷物を取りにもどった形跡はない。いったいどこにいるのだろうか?
物思いふけていると、部屋のドアがノックされた。わたしは来訪者を出迎えるべく、ドアを開くと、そこにはきびしい顔つきをしたベイカーが立っていた。そのためわたしは何か不吉な予感を覚えた。
「ベイカーさん……きょうはどうしたんですか」
「ロリーナについて少し話があってだな、部屋に入れてもらってもいいかな?」
「ええ、どうぞ」
わたしとベイカーはテーブルをあいだに挟んで椅子へと腰かけた。
「じつはロリーナのことだが、エリック・ローランドの最後を見届け、その葬儀を終ると、監視の目をあざむいて行方をくらませてしまった。現在われわれは彼女を捜索しているが、いまだ見つからず行方不明のままなんだ。それでアリス、きみに訊きたい。ロリーナがここへもどってきた様子はあるかね?」
わたしは小さく首を横に振る。「いいえ、ロリーナはここへは来ていません」
「そうか……」ベイカーはため息をついた。「もしロリーナがもどってきたり、その形跡があったなら、すぐに知らせてくれ。エリックという枷がはずれたいま、彼女はわれわれにとって非常に危険な存在だ。一刻も早く彼女を見つけなければならない」
「ロリーナが危険な存在?」わたしはそのことばが信じられなかった。「まさかでしょう」
ベイカーの表情にきびしさが増す。「アリス、きみがどこまで知っているかどうかわからないが、ロリーナ・ベルという人物は、本来なら刑務所に収監されるべき凶悪犯なのだよ」
「待ってください。たしかにロリーナは生きるために共感者の力で犯罪に手を染めたけど、それはしかたなかったことで、彼女自身はいい人です。凶悪犯なんてとんでもありません」
「それではきみに問うが、彼女がいままでどんな犯罪行為をしてきたのか知っているかね?」
「くわしくは知りませんし、本人も語るのがつらそうだってので、深入りはしていませんから。いったいロリーナが何をしたというんですか?」
「そうか、知らないのだな……」ベイカーは困った様子で唇を噛んだ。「ならきみが彼女をかばうのもしかたあるまい」
そのことばにわたしは不安を感じた。これほどまでにロリーナを危険視する理由は何?
「教えてくださいベイカーさん。ロリーナはいったい何を?」
「彼女は、ロリーナ・ベルは」ベイカーはそこで長々と間を置いた。「殺し屋をしていた」
「殺し屋ですって!」わたしはその事実に面食らった。「……ロリーナが人を殺していたなんて嘘でしょう」
「正確に言えば、エリックという殺し屋の男の助手をしていた」
「エリックって、ロリーナを助けれくれた命の恩人のことですよね。いったい何がどうなっているんですか?」わたしは困惑すると同時に、その理由を知りたいと強く思った。「お願いしますベイカーさん。説明してください」
わたしの懇願に対して、ベイカーは苦渋に満ちた顔つきでしばしのあいだ黙していたが、やがて不承不承といった様子で口を開いた。
「……いたしかたあるまい。こうなってしまった以上、きみにも知っておいたほうがいいかもしれない。ただし、だれにも口外しないでもらいたい」
ベイカーは語りはじめた、ロリーナの生い立ちを。戦後孤児院を脱走したロリーナは共感者の力を利用し、泥棒や詐欺行為などの悪事を働いていた。ある日、高名な政治家の家に高額な宝石が隠されているのを知ると、それを盗むためにその家に忍び込んだ。事前に共感者の力を使って金庫の番号も調べていた。だがいざ金庫をあけてみると中身はからっぽだった。そのうえ警報装置が作動し、ロリーナは捕まってしまった。
運が悪いことにこの政治家の男は高名であると同時に悪名も高く、隠していた宝石は違法な手段で手に入れたもので、それゆえに警察にロリーナを引き渡すことができなかった。そのためロリーナはその家の地下に監禁されて拷問を受けることになった。だがなくなっていた宝石の行方をロリーナが知るはずもなく、地獄のような拷問は一ヶ月近くもつづけられた。
そんなある日、エリックという名の殺し屋が政治家の男を暗殺しにきた。政治家の男は悪名高いだけあって、敵も数多くいた。それゆえにエリックの手で始末されたのであろう。その際にエリックは何を思ったのかロリーナを保護すると、自宅に連れて帰り、傷の手当をして療養させた。ロリーナはそのことで恩を感じたのか、その後はエリックと組んで殺し屋の仕事を手伝うようになる。
共感者の力を利用し標的の情報を集め、エリックがその人物を暗殺する。そんな日々がつづいたある日、病に冒されていたエリックは倒れてしまった。ロリーナはエリックを助けるべく病院へと連れて行った。しかしエリックは指名手配されていたために、そこでふたりは捕まってしまう。そのときにロリーナは軍部と取引をした。エイトでの研究に協力するかわりに、エリックを助けてもらい、過去の罪を帳消しにすることを条件に。
「そしていまエリックが亡くなり、ロリーナがわれわれに従う理由がなくなった。自暴自棄になったであろう彼女が何をしでかすのかわからない。非常に危険な存在だ」
ロリーナの過去を聞かされるも、わたしはその話に納得がいかなかった。
「……ベイカーさん、この話はほんとうのことなんですか?」
「ああ、嘘偽りのない真実だ」
「だとしたら、おかしな点がありますよね。話のとおり、ロリーナが凶悪犯ならばどうして刑務所に収監しないんですか。それにいくら超能力の研究のためにエイトに協力するからといって、これまでしでかした罪を帳消しにするなんて都合がよすぎです。これではロリーナに対する軍の扱いが不自然すぎて、この話が嘘ではないかと疑ってしまいます」
ベイカーは苦笑いを浮かべる。「共感者のきみに対して嘘をついても無意味だろ」
そのことばを聞いてわたしは身構えてしまう。「以前ロリーナが言っていました、共感者に対して隠し事はできる、と。だからエリックを救えず手遅れになった。そしてさらにはその事実をベイカーさんも知っている、とも言っていました。もしそうならベイカーさん、わたしに嘘をつけますよね」
ベイカーはしばし間を置く。「アリス、きみはわたしの親友ヘンリーの娘であり、わたしはきみたち親子を守ると彼に誓った。だからきみに対しては誠実でありたいと思っている。わたしはきみに対して嘘はついていない。その件についてロリーナが勘ちがいしている」
「ロリーナが勘ちがい?」
「ああ、そうだ。共感者に隠し事ができたのは、エリックという人物が特別だったからだ」
「それはどういうことですか?」
「……エリックという人物について語ると、わたしは軍部の機密を漏らしたことになる。もしその事実がだれかに知られれば、わたしは大変危ういことになるだろう」ベイカーは警戒するかのようにあたりに視線を走らす。「だがさっきも言ったとおり、わたしはきみに対して誠実でありたい。だからここから先は、わたしのひとり言だ。そのつもりでいてくれ」
わたしはことばの意味を察し、何も言わずに静かにうなずいた。
「第一次世界大戦後、わが国において軍部主導による、いくつかの極秘プロジェクトが秘密裏におこなわれていた。そのなかのひとつに『超人化計画』というものがあって、その内容は感情を抑制し、恐怖を感じない兵士をつくりあげることで、その被験体のひとりがエリックだった。それゆえにエリックは一般人に比べて感情に乏しく、それに伴う心の働きも機械的だ。そのため共感者であってもその心が読み取りづらく、ロリーナに対して隠し事が可能だった、とグレイ博士はこれまでのきみたちの研究結果と照らし合わせてそう結論づけた」
ベイカーはそこでことばを切ると体を前に傾け、ささやくようにしゃべりだす。
「この極秘プロジェクトでは非人道的な人体実験がおこなわれており、その実態を知っていたのは第一次世界大戦を戦い抜いたごく限られた軍人たちで、いま現在生存している人間はもういない。だから戦前にそんなことがあったなど、いまのイギリス政府は知らなかった。現にロリーナたちが捕まるで、われわれ軍関係者もそんなことがあったなど、まるで把握していなかった。その後におこなわれたくわしい調査で、ようやくその実態らしきものをつかんだが、資料の大半が戦後のどさくさにまぎれて破棄されており、残されたのはほんの一部だけだ」
とんでもない秘密を聞かされている、とわたしはいまになって恐ろしくなった。だがいまここで引き返すなんてことはできない。自分の立場を危うくしてまでベイカーが真実を語ってくれているのだから。
「残された資料とロリーナの証言から、この極秘プロジェクトにかかわっていた人物たちは、超人化計画で育成した兵士たちを戦場へと送り込み、戦後は生き残った兵士たちを殺し屋として利用し、この国にとって不利益となる人物を暗殺していたらしく、エリックもそんな殺し屋のひとりだった」
なるほどな、とわたしは思った。だからエリックは悪名高い政治家を暗殺しにきたんだ。
「この事実が世間に知れれば、わが国は国内外から大きな批判にさらされることは目に見えている。第二次世界大戦後、枢軸国のおこなった非道な人体実験が明るみになるや国際問題になったのだからな。さらには人体実験により作りあげた兵士に暗殺者まがいのことをさせていたと知られれば、取り返しのつかないことになる。その事実を知るロリーナが野放しになっている現状が、いかに危険か理解できるだろう」
ロリーナは軍の非人道的な人体実験について知っていた。だからあんなにも軍に対して懐疑的であり、信用していなかったのはこのためだ。
「だからこそ軍部は超能力を解明するための国家プロジェクトへと、ロリーナに協力させることを名目に、自分たちの監視の目が行き届くこのエイトに彼女を軟禁したんだ。もしエリックやロリーナを犯罪者として捕らえ、彼らのしてきたことに罪の烙印を押して投獄してしまえば、軍の一部の過激派がおこなったとはいえ、その事実を認めてしまうことになる。イギリス政府としては、この失態をなかったことにしたい。だからこそロリーナとはあのような条件で取引を交わしたのだよ」ベイカーはいい終えると居住まいを正し、背筋を伸ばした。「これがわたしの知っている真実だ」
それが事実ならたしかに納得はいく、とわたしは思った。けどこの話をほんとうに信じていいのだろうか。ベイカーは真実を語ってくれていると思いたい。だが話を聞いていて、何かおかしな違和感がある。だがそれがなんなのかわからず、わたしは疑心暗鬼になってしまいそうだ。ベイカーの誠実さに報いるためにも、どうにかこの疑念を払拭させたい。
「ベイカーさん、あなたはわたしを信用して話をしてくれた。だからわたしはあなたの話を信じたい……けど、どうしても疑いの心がわずかに残ってしまっている」わたしはそこでベイカーに向かって手を差し出す。「だからお願いです。わたしを信じさせてください」
ベイカーは間を置かずに、差し出されたわたしの手を握ってくれた。だからすぐにわかった、ベイカーは嘘なんかついていない、と。話に違和感を覚えたのは、気のせいにちがいない。
「ベイカーさん、わたしはあなたを信じます」
亡き父の親友であるベイカーは誠実であり、信用できる心強い庇護者だ、とわたしは再認識した。そしてその事実にわたしは感謝のことばを捧げた、ほんとうにありがとう、と。




