第一幕 第一場
わたしは自宅の庭から夕日で赤く染まる空を見あげていた。自宅のあけ放たれた窓からは、ラジオの音が聞こえてくる。内容はわたしが物心つく前にはじまり、わたしが小学生になってもなおもつづく戦争のことだ。
ラジオではわたしたちイギリス国民に対して、戦争協力を呼びかけている。特に敵軍の爆撃機により、空爆されたロンドンをはじめとする都市部の防衛と復興には、一致団結しての協力が重要だと説き、そのためには多くの人手が必要だと訴えていた。
イギリス本土がはじめて敵軍によって空爆されたのは数年前のことだった。そのころわたしたち家族はロンドンに住んでいたらしいが、わたしは幼かったためそのことを覚えていない。敵軍の空爆に恐れ、多くの人たちが都市部を離れ、北部などへと疎開していった。わたしたち家族もそのなかのひとつだ。
「いったいいつになったら、戦争は終わるのかしら」わたしはぼそっとつぶやいた。
ラジオではイギリスをはじめとする連合国の優位を声高に喧伝し、この戦争が終わりに近いことを伝えている。だがそれがほんとうかどうか、わたしにはわからない。だからわたしにはこの戦争が早く終わることを願い、父が無事に帰ってくるのを祈るしかなかった。
わたしの父、ヘンリー・キャロルは医者だ。父はとてもやさしい人で、自分の仕事を誇りにし、人の命を救うことに情熱を燃やしていた。
父はいつもわたしにこう言っていた、人にやさしくしてあげなさい。もしだれかが困っている人がいるのなら、助けの手を差し伸べてあげるんだよ、と。
わたしは父のことが大好きだった。だからその期待に応え、父のような人間になりたいと思っていた。
だから父が軍医として戦地に赴くと言ったときも、はじめこそはとまどったものの、父の意志を尊重し、わたしはそれを受け入れた。母だけは行かないでと、ひと晩じゅう泣いていたのを覚えている。しかしそれでも父の揺るぎない意志は変わることはなかった。
あとで知ることになるが、父の親戚であり軍人だった人が戦場で亡くなったのが影響していたらしい。その親戚は戦場で負傷したものの、すぐに手当をすれば助かるはずだった。だがしかし、長引く戦争のせいで負傷兵があふれ、そのため戦場での医者の数は足りておらず、手当が遅れたのが死の原因だった。
それを聞いた父がイギリス軍に軍医として志願するのもうなずけるな、とわたしは思った。
そして軍医として戦場に赴くとわたしたちに告げてからほどなくして、父が家から旅立つ日がやってきた。母は不承不承といった様子で父を見ていた。父の決断に納得していないのは明らかだった。
「すまないハンナ」父は言った。「あとのことはまかせるよ」
母が何も言わずに小さくうなずく。すると父はやさしくほほ笑みながら母を抱きしめた。しばらくのあいだ無言の間がつづいた。そして抱擁を解くと、ふたりは口付けを交わした。
「かならず帰ってきてね」母がか細い声で言う。「ぜったいよ」
「ああ、約束するよ」
そう言うと父はしゃがんでわたしと視線の高さを合わせた。わたしの頭をなでると、穏やかな瞳でこちらを見つめてくる。
「アリス、しばらくのあいだ家を留守にするよ。パパが帰るまでママといっしょにこの家を守ってくれるかい」
「うん、わかった」
わたしは力強くうなずくと、父に抱きついた。父は何度もわたしの頭をなでてくれた。
「毎日お祈りするから」わたしは言った。「パパが無事に帰ってくるように、わたし神さまにお祈りする」
「ありがとうアリス」
わたしたちと別れのあいさつを終えると、父は行ってしまった。それからもう一年近く経っていた。いまだに戦争は終わらず、父は帰ってこない。
わたしは手を組み合わせると目を閉じ、父の無事を祈った。それは毎日の日課となっていたし、日に何度でも神に祈りをささげていた。どうかわたしのパパを無事にこの家に帰してください、と。
祈りを終え、わたしは目を開けて空を見あげる。そこにあるのは真っ赤な空。この空のつづくどこかに父がいて、わたしと同じ光景を見ているのだろうか。それともそんな暇もなく、負傷した人たちを助けているのかもしれない。
「アリス」やにわに背後から母親の声が聞こえた。「何をしているの」
わたしが振り向くと、そこには母が立っていた。
「神さまにパパの無事を祈っていたの」
「そう、いい子ね、あなたは。きっとパパは無事に帰ってくるわ」
「ねえ、ママ。ひとつ訊いてもいい?」
「何かしら?」
「わたしは死ぬのこわいし、人を殺したりなんかしたくない、と思っている。ほかの人たちもそう思っているはず。なのにどうして人は戦争なんてするの。みんながみんなパパのようなやさしい人だったら、戦争なんて起きないのに」
「そうね……」母は少し困ったようにほほ笑んだ。「むずかしい話ね。あなたの言うとおり、みんながパパのようにやさしい人間なら戦争なんて起きないはずね」
「そうでしょう。そう思うでしょうママ」
「でも現実はそうじゃないのよ。世界にはたくさんの人はたくさんいて、ひとりひとり考え方がちがうの。そのせいで人々が互いのことを理解し合うことがむずかしく、いろいろともめてしまうのよ」
「そうなんだ……」母のことばにわたしは肩を落としてしまう。「みんなは相手のことがわからないんだ」
わたしはため息をつくと、しょんぼりとした顔つきになってしまう。
「そんな顔しないでアリス」母がわたしの手を取った。「さあ夕食の時間よ。家の中にもどりましょう」
「……ママ、きょうもまた豆のスープなの」
「あら、よくわかったわね。でもこうも毎日つづけばわかってしまうか」母はすまなさそうに笑った。「いまはがまんしてね。戦争中で食料が足りなくてしかたがないのよ。配給品の食料を大事に節約しないといけないからね。それに都市部では食料の配給がままならなくて、その日の食事にもありつけない人たちだっていっぱいいるんだから、食べられるだけわたしたちは恵まれているわよ」
「うん、わかっている」
わたしは母に手を引かれ、家の中へとはいった。そして食事の前に手を洗うよう言われると、お風呂場へと向かった。子供のわたしには背丈のあわない洗面台を前にすると、いつものようその下に台座を置いてのぼる。
「よいしょっと」
わたしは水道の蛇口をひねって水を出すと、視線を落として手を洗いはじめる。そして手を洗い終えて顔をあげると、洗面台に取り付けられた鏡と向き合った。そこには自分自身の姿が映り込んでいる。
わたしはしばし鏡を見つめていた。肩までのびたさらさらの金髪の髪と目鼻立ちの整ったその顔は母親譲りで、きっと美人になるよと父に言われた。そして母からは、わたしの青い瞳とそのやさしいまなざしは父親譲りだと言われた。
わたしは両親からそう言われたことがうれしくて、ふたりの子供として生まれてきたことを誇らしく思っている。だからいつのまにか鏡の前で自然と笑みをこぼしていた。
「アリス!」母の叫ぶ声が聞こえた。「何をぐずぐずしているの。早くいらっしゃい。ご飯が冷めてしまうわよ」
「わかってる。すぐにいくからママ」
わたしは返事をすると、すぐに風呂場を出て食卓へとついた。そして母とともに神さまに祈りを捧げたのち、食事をはじめた。料理は代わり映えのしない、いつもの質素なものだったが、それでも食事にありつけることに感謝した。