四・【終】
飯田君には全てを話した。これから彼に起こることも、今現在の私と深山君のことも。
最初は笑って聞いていた飯田君に、私はあの日、二人だけの約束をしたと伝えた。
『──わかった。矢儀野の言うことを信じるよ』
電話の向こうから蝉の声が聞こえてきた。向こうはまだ、夕方だった。
『お前いま、どこにいるんだ?』
「学校の屋上」
『何だよ、そんなところにいたら危ないぞ』
「うん、でもここが私の場所だったのよ」
『そうか。気をつけろよお前……ちょっと危なっかしいとこあるからな。それも博斗にメールするか』
「……ありがとう」
飯田君との電話でひとつひとつ、自分の中での謎が解けていった。
彼にどうしても伝えたかった言葉を伝えて──十年前から掛かってきた間違い電話を、私はこれで終わりにした。
屋上から下りると、窓の外を眺めている深山君がいた。
「携帯、ありがとう」
「もういいのか?」
私は黙って頷いた。
「ヒデには会えた?」
「ええ、ほんの一瞬だけど。部室の扉を開けて、屋上に向かって手を振ってくれた」
あの日の──夕暮れ時の部室から出てくる飯田君がはっきりと、私の目に映っていた。
「そうか」
約束は果たせたのだろうか。
深山君は深く息を吐いて、壁に寄りかかった。
「あ、あと深山君にひとこと伝えてくれって」
「何て?」
「ヘタレ、だそうよ」
「あいつ……」
苦笑いが伝わってきた。
※
帰り道、深山君の車の中はかすかに煙草のにおいがした。
「吸ってるの?」
「いや、吸わないよ」
「そう」
そのまましばらく、流れる景色に目をやっていた。
路肩に停車して、彼がぽつりと言ってきた。
「実は俺の車の中で喫煙する、とんでもない奴が一人いてさ」
「それって可愛い子?」
小さな笑い声が聞こえてきた。
「そうだなあ、教え子という枠で見れば可愛いかな」
「ちょっと深山君あなたまさか……」
訝しげな視線を右に向けると、穏やかな顔の彼と目が合った。
「よく似てるよ、ヒデと」
「あ、ひょっとして」
「そうだ、ヒデの弟。今二年生で俺のクラスにいるんだ──ちょっと寄り道してもいいかな?」
深山君はそう言って、再び車を走らせた。
※
学校から車で三十分。閑静な住宅街の中に、飯田と書かれた立派な家があった。
少し離れた公園の前に停車して、私たちは人を待った。
すぐに彼は現れた。
「博兄!」
「よう、こんばんは──すまんな夜に」
あの頃の飯田君にそっくりだった。
お通夜とお葬式、たった二回会ったきりの、小さかった彼を思い出した。
昔、大粒の涙をこぼしていたその少年は、今や深山君と変わらない位の背丈だ。十七歳の彼を見て、私は時の流れを感じた。
「大きくなったわね……矢儀野です、矢儀野紗月。お兄さんの同級生でした」
「あ……知ってます、俺、飯田洋です。いま二年A組で、深山先生のクラスなんです」
飯田君と瓜二つの彼は、少し落ち着かない素振りで視線を行ったり来たりさせている。
そんな彼に深山君は「洋」と優しく声を掛けた。
「今日、お前の兄さんから……ヒデから電話が掛かってきたんだ」
ハッとした顔の洋君に、私は頷いた。
「私が電話を受けました」
「兄は……元気そうでしたか?」
「……ええ」
「そうですか……」
洋君は遠くを見るような目で、ズボンのポケットから煙草を出した。深山君がすかさずそれを取り上げる。
「博兄、今日ぐらい吸わせてよ」
「バカ、教師の前で出すなって何度も言ってんだろ。矢儀野、お前も何か言ってやってくれ」
「そうねえ……医者の立場じゃないとしても、未成年は吸っちゃダメとしか言えないわよ」
困りつつも返答した。
「医者……でも俺のクソ親父は今日もバカバカ吸ってから、愛人の所に行きましたよ。兄の命日に……母さんの気も知らないで」
吐き捨てるように言った洋君の頭を、深山君がポンポンと軽くなでた。
「こんな遅くに悪かったな、今日はもうお母さんについててやれ」
子供扱いされるのが嫌なのだろう、洋君は憮然とした顔で頭上の手を払いのけようとしているが、深山君はそれをかわして更に頭をなで続ける。
仲の良い兄弟のようなやり取りを眺めてから、私は腕時計を確認した。もうすぐ午後十一時──飯田君の死亡推定時刻だ。今年で十年目の……。
※
「矢儀野さん、これ」
車に乗り込む前、洋君が一枚の写真を渡してきた。「兄の使っていたロッカーに隠してあって……去年大掃除のときに見つけたんです」
「え、じゃああなたも──」
「ええ、水泳部です。兼部してるから、冬なんかは全然行かなかったけど」
「洋それ、お前が持ってたのか……!」
いつの間に撮られていたのか──全く気付かなかったが、そこに映っていたのは十年前の私だった。水着のねじれを直している、かなり間抜けな写真だ。
「あ、ありがとう……」
照れくさい気持ちで写真を受け取った。
「その写真、去年工事のときに散々探したんだよ。壁の隙間とか」
額に手を当てる深山君の隣で、洋君は涼しげな顔をしている。
「深山先生の気付かない場所にあったんですよ、兄の使っていたロッカーはとっくの昔に倉庫行きでしたから」
「しまった、完全に見落としてた」
後悔する声が聞こえてくるが、どうも方向性が違うように感じる。
「ちょっと、そもそも盗撮写真でしょこれは。当然没収に決まってるじゃない」
「あ、いや……はは」
ごまかし笑いをする深山君を尻目に、私は洋君と言葉を交わした。
「今日会えてよかったわ、お時間をありがとう」
「俺もです」
助手席の窓を閉じかけたとき、「矢儀野さん」と洋君が呼び止めてきた。
「もう午後十一時を過ぎました」
「ええ……」
「俺の父は……この十年間ただの一度だって海外旅行にも行かずに、この瞬間を待っていたと思います」
「…………」
洋君は静かに続ける。
何も言えなかった。私が言うべきことではない。深山君も黙ったままだ。
「──俺は医者になんて絶対にならない。俺は俺なりのやり方で、兄の無念を晴らします」
「洋君あなたまさか……」
「ああ大丈夫、バカな真似はしないんで安心してください」
洋君は口の端だけで笑った。
「──飯田、遅くに呼び出してすまなかった。もう家に帰れ、いいな」
運転席から低い声が聞こえた。
洋君は私たちに軽く頭を下げると、家の方へと走っていった。
私も深山君も、しばらくは車の中で黙ったままだった。
兄そっくりの弟の、氷のようなその目つきに、私は胸が痛くなった。
※
「矢儀野、お前はどう思う?」
繁華街のきらびやかなネオンを抜けた直後だった。赤信号を待っている途中、深山君が口を開いた。
「……お父さんが飯田君に自殺を迫ったかどうかってこと?」
「そうだ、洋はそう信じている」
険しい横顔で彼はアクセルを踏んだ。
先の十一時で、丸十年。これで自殺教唆罪の公訴時効が成立した。
思い余った教え子が私刑に走らないか、深山君は案じているようだった。ただ私の考えは少し違った。あの少年は、内に感情を秘めてはいるが、冷静さを欠いた行動を起こすタイプには見えなかった。
「私は何も言えないわ。十年前、深山君に来たメールも警察は取り合わなかったのでしょう?」
「ああ、自殺する前の遺書みたいなものだろうと一蹴されたよ」
十年前の八月九日の夕方に──私と電話をしたことを含め、飯田君はこれから起こり得る様々なことを深山君にメールしたようだった。
深山君はその予言書のような携帯を十年間ずっと持ち続けていた。
彼がメールの内容を信じるきっかけになったのが、私の飛び降り未遂だった。それまでは半信半疑だったという。
警察はメールの内容をただの妄言として処理したようだ。当然だろう。未来人と電話しましたなんて、信じるはずもない。
「メールには『弟を守ってやってほしい』と書かれていた。自分と同じ道をたどるのではないかと、ヒデは気にしていたんだ」
「だから先生になったの?」
思い返してみれば高校二年生の秋、深山君は進路希望で将来の職業を「教師」としていた。それ以前の調査票には「サラリーマン」と書いたらしいから、秋の時点で既に意志を固めていたのだろう。
「まあ、それも理由の一つだな」
「そういえば私、深山君がなぜ物理学を専攻したのかも聞いてないわ」
「本当に時間は不可逆なのか、興味が出たんだ。それで」
「そっか……深山先生は授業中に何て説明してるの?」
「不可逆だと教えてる。一方向に流れる、大きな川の流れだと」
それから間髪入れずに続けた。「だが私見では可逆だ。この世界は十一次元で構成されているという説を俺は推している」
本音と建て前か──。
「深山君は超ひも理論でも研究してたの?」
「十一次元はM理論だ、それに俺ごときじゃその研究にはありつけないよ」
苦い顔で笑っていた。
「でも時間を遡る……そんなことができるのなら、時効なんて関係なくなるわね」
寿命でさえ──。癌細胞だって、なかったことにできるかもしれない。医療技術とは全くベクトルの違う話。今はただの夢物語なのだろうか。
「ハナから不可能だと切り捨ててるような言い方だけど、矢儀野、お前ヒデからの電話はどう説明するんだ? 屋上からあいつが見えたんだろ?」
「それは……奇跡かな」
「非科学的だなあ」
ぼそっと言う深山君に、口角を上げて答えた。
「病院って結構出るの。初期研修先でも何回か遭遇したのよ私」
一応、不可思議なことも受け入れているつもりだった。
「俺は科学的に検証したいんだ、あくまでも」
「あら幽霊こそ多次元の住人でしょ、深山君」
私の返答に彼が唸った。この手の話が苦手なのかもしれない。
「……だからまた会えるわよ、飯田君にも」
「ああ……そうだな」
高校の正門前を通り過ぎたとき──駅に向かう飯田君の姿が見えたような気がした。
※
「深山君、ここでいいわよ」
高校の正門からまっすぐ坂を下りた場所で、私は車から降りることにした。
疲れている彼に送ってもらうのは気が引けたし、今日は何だか歩いて帰りたい気分だった。
「あ、ちょっと待って矢儀野」
エンジンを止めた深山君が運転席から降りてきた。
「何?」
「──あのさ、俺、矢儀野にまだ言ってなかったことがあるんだ」
「飯田君のことは、もういいのよ」
「あ、いや、そうじゃなくて……矢儀野」
「はい」
一呼吸おいて、深山君が言った。
「俺と──俺と一緒に洋を見守らないか?」
「ええ、いいわよ」
当然そのつもりだった。私にも彼が道を踏み外さないように見届ける義務がある。
「え、いいのか……?」
「もちろん、これからもよろしくね」
何かが食い違っているのだろうか。
深山君は眼鏡を外して、探るような目で私を見てきた。
「…………」
「…………」
しばらくお互いに黙ったあと、深山君が「あ」と私の背後を指をさした。
「え、何?」
振り返るとシャッターの下りた魚屋があった。
「ねえ深山君ここって──」
言葉は続かなかった。
手首を掴まれて、たったの十秒──唇に当たる感触がとても長く、甘く感じられた。
「……お前、キス下手だな」
ぼそっと彼が呟いた。
もう頭からつま先まで全部が赤くなっているのではと思うぐらいに、身体は熱いし脈も早い。それでも何とか平静を装った。
「しょうがないでしょ、ろくに恋愛もせずにここまできたんだから」
「ああ……そうか、そうだよな。俺ヒデから何度も言われてたのにすっかり忘れてた」
妙に納得した顔で、深山君が何度も頷いている。
「……何を?」
「お前にはハッキリ言わないと何も伝わらないんだ──今更だけど、紗月」
「は、はい」
「俺、高校一年の頃からずっと、お前のことが好きだった」
「あ…………」
魚屋の前の湿った地面に──深山君は片膝を付けて私の手を取った。
「だから、俺とこれからもずっと一緒にいてほしい」
十年間、名前のなかったこの感情が──やっと何なのか分かった気がした。
「……返事は?」
のぞき込んだ彼の顔を両手で挟んで、目をギュッとつぶって口づけた。
「……これが答えよ」
恥ずかしさで爆発しそうな私を──骨折するんじゃないかというぐらいに、深山君がきつく抱きしめてきた。
「お前ほんっとにキス下手だなあ……!」
「う…………」
「ウェッヘン……! あー、そこのいい年した大人たち──よかったな」
少年の声が私の耳にはっきりと聞こえてきた。
「飯田君……!」
「ヒデ?」
声のした方を振り返っても、もう誰もいなかった。
※ ※ ※
体調も落ち着いてきた、ある夏の当直中だった。
「深山先生、カード預かってますよ」
「あら、ありがとう」
手術後の経過も良く、無事退院した少女から一言メッセージをもらった。
そっと開いてみると、懐かしくも馴染んだ文字がそこにあった。
最初にこの一言をもらったのは、十八年以上も前のことだ。
私はつい先日も試験の際、その言葉が書かれているノートを持っていった。もうここまで来るとある種の儀式だろうと、夫は笑っていた。
みやま先生 大丈夫だよ
穏やかな気持ちで、もらったカードを眺めていた。
「ねえ、この子今度いつ来るのかしら?」
「えーと……次は十日後ですね」
「よし、じゃあ私もお返事を書こうかな」
「そうだ先生、お菓子も頂いちゃったんでポケットに入れときまーす──あれ、もう4Dエコーとりにいったんですか?」
「いいえ、どうして?」
「だってほら、男の子の服ばかり眺めてるから。もう性別分かったのかなって」
「ああ、まだ先よ。でも多分男の子だと思う」
「それ、女の勘ですか?」
「まあそんなところ」
名前も既に決めている。夫と私で同時に出し合い、一瞬にして決まった名だ。
ありがとう、私も大好きよ
手紙の返事を書いてから──お腹の子にもそう、伝えた。
すこし・不思議をテーマにしました。
短い連載でしたが、ここまでお付き合い、本当にありがとうございました。
※ルビ修正、句読点、重複単語の削除、(8/21)サブタイ括弧変更
※(9/7)誤字修正(感想掲示板にてご指摘いただいて。すみません、今まで全く気付きませんでした、ありがとうございます……!)