三
「脳の……難病?」
「そうだ、脳血管の病気。発覚したのは、去年の夏だった」
私と深山君は屋上に上がって話をした。吹き付ける木枯らしが、私の腫れた顔を冷やしてくれた。
『今の矢儀野になら、話せるから』
深山君はそう言って、その重い口を開き始めていた。
「脳の病気だなんて、そんな……何で言ってくれなかったのかな」
「皆に心配掛けさせたくないって、ヒデは言ってた」
「……このこと、他の人は?」
「ヒデの親と教師以外は俺しか知らない。あいつの父親がキツく口止めしてるから、今も」
「そう……」
深山君は飯田君と小学校から一緒で、付き合いも長かった。
病気の影響で考えが纏まらずに授業内容の理解が遅れたり、手が動かせなくなったりした飯田君を、同じクラスでもあった深山君がさりげなくフォローしてきたようだった。
「……あいつの症状、重い方でさ。でも、できるだけ頑張るって言ってたんだ。部活も辞めるかどうするか、ずっと迷ってた。部長にもなっちゃったしって笑ってたよ」
「そうよね……」
深山君は少し息を吐いてから、大げさに言った。
「それで一緒に副部長になるヤツがさ、これがまた、ツンと澄まして何でもできそうな顔してるくせに、実際はスッゲー頼りないし人の感情にはてんで鈍いしで、なーんにも任せられないって、そりゃもう嘆いてたよ」
「ちょっとそれってどういう……」
「そのままの意味だよ」
彼は白い歯を見せて笑った。
「もう……」
屋上から見えるプールは、濃い緑色の水面に枯れ葉が舞って落ちていた。
年が明けたら、あの水面も氷が張るだろう。
──そういえば飯田君、無理矢理氷の上に乗ろうとして水の中に落ちてたっけ。
知らず、手すりへと近づいていた私の手を、深山君の手が掴んだ。
振り返ると硬い顔をした彼と目が合った。
「行くなよ」
確かに、前科があるから信用はされないだろう。でも──。
私は「大丈夫だよ」と言って手を握り返した。
どう伝わったかはわからないけど、彼の表情が少し和らいだように見えた。
「深山君、私も今なら話せることがある」
「ああ……聞くよ」
私は、あの日の夕方にあったことを彼に話した。飯田君と歯がぶつかったことも含めて。
ただし、あれが私の初めてのキスだったということだけは、心の中にしまっておいた。
「……あのときドタキャンなんかしないで、ちゃんと相談してくれれば良かったんだよ」
深山君は、すごくバツが悪そうにして頭を掻いていた。
「俺、お前からメールが来た後も、もしかしたらってずっと待ってたんだ」
「彼女といたのに、よく言ったものね。シャッター閉まった魚屋さんの前でキスしてたのはどこの誰なんだか」
「あ、お前見てたのか」
途端、深山君の目が泳ぎ始めたのを見て、私は思わず苦笑してしまった。
「見ていたから、引き返したのよ」
「……何を言っても信じてもらえないだろうけど、あのときはまだ付き合ってなかったし、それにあれは向こうから一方的に……あ、いやいい。完全にただの言い訳だよなこれ」
きまり悪そうにしている深山君から、私は再び地上のプールへと視線を移していた。
毎日、ここに来てプールを眺めていた頃、この屋上だけが私の逃げ場だった。プールサイドには行けなくても、ここまで上がれば水面を見渡すことができた。
練習メニューをこなしている部員たちの中に──あの中にまだ飯田君がいる、そう思い込むことができた。
でも肝心の、飯田君の逃げ場は一体どこにあったのだろうか……。
厳しい家だったと聞いている。常にトップの成績を求められると、飯田君は一年生のときに冗談めかして言っていた。『医者の息子の宿命だよ』と。
もし彼がどこにも行く当てがないと感じていたならば──。
そこまで考えて、私は思考を中断させた。これ以上は無駄な詮索だと思った。
「……矢儀野」
「何?」
「俺、ヒデの件であと幾つか、お前に言ってないことがある」
「うん、いいよ、別に無理に言わなくても──」
「いや、時期が来たら話す」
深山君が言葉を遮った。「それが、ヒデとの約束なんだ」
「飯田君との約束……?」
ああ、と頷いた彼は、私の肩を抱き寄せて言った。
「だから十年後の八月九日の夜にまた、屋上に来てほしい」
※
奇跡的に、十日に休みが取れた。
職場からバスと電車を乗り継いで、約九年半ぶりに私は高校へと続く道を上がっていた。
高校生のときには難無く上っていた坂が、ヒールを履いた足に堪えた。移動手段を間違えたかもしれないと後悔したけど、今更言ってもしょうがない。
それに親切な紳士が車で送ってくれるとのことだったので、私はその言葉に甘えるつもりだった。
高校二年生の冬、私は水泳部に復帰した。タイムは随分と落ち込んだけど──それでも何とか三年生の六月に最後の大会を終えて、無事に部活を引退することができた。
二年次の正月明けから一念発起した私は文転することもなく、その後凄まじい勢いで受験勉強をこなした。人生でこれほどまでに机に向かう時期はないかもしれないと、そのときは思っていたのだが──。
実際は大学に合格してからの方がよほど大変だった。慣れない一人暮らしにテスト前の膨大な量の暗記。運良くニコチン中毒にはならなかったが、カフェインと、後は少しのアルコールに頼った学生生活だった。
同期の仲間たちからは酒に潰れない女だと、よく言われていた。寂しくはないのかと。そのたびに私は笑って答えていた。大丈夫だよ、と。
遠く北の地にいる友人もまた、夢を叶えるために頑張っているのだと思うと、くじけている暇はなかった。
天才からはほど遠いガリ勉タイプの私は、毎回真っ向勝負でテストに挑んでいった。国試に臨むときも……試験のときはいつも、一冊のノートがお守り代わりだった。
そして時は過ぎ──私は今年の春から実家からほど近い病院で、新米医師として勤務している。
「深山君!」
正門の前に一人、佇む影に声を掛けた。
高校の頃から背が高かった彼は、シルエットも殆ど変わらず──違うところがあるとすれば、今は眼鏡をかけていることぐらいだろうか。
彼もまた高校を卒業後地元を離れ、北海道の大学へと進学した。
そして去年の春からは物理の教師として母校で教鞭を執っている。よくもまあこのタイミングで赴任したなと、彼から連絡を受けたときには思わず感心してしまった。
それにしても、数年ぶりに会った深山君はワイシャツとネクタイがよく似合う、立派な男になっていた。きっと女子生徒たちからはさぞかしおモテになっていることだろう、と私は一人で小さく笑った。
けれどもこちらを見た彼は、ロボットみたいな身振りで手を振ってきたものだから、私は若干拍子抜けしてしまった。
私の眼は曇っているのだろうか──。
「よう、矢儀野お疲れ、お前よく来られたな」
「ちょっと何言ってるのよ、今日ここに来いっていったのはあなたでしょ」
「まあそうだけどさ」
もう二十七になるというのに、何だか一瞬で高校生の頃の自分に戻れたような気がした。
「これ、私は確実に不法侵入よね」
「いや俺もいるから大丈夫だよ。万が一のときでも、過労死寸前の高校教師を人命救助ってことでまかり通る」
めちゃくちゃな論法を振り回す深山君は、隣で大きなため息をついている。
私の方が絶対に忙しいと思っていたのに……。
「ねえ、高校の先生はそんなに忙しいの? 今夏休みでしょう?」
私をエスコートしてくれた彼は肩を回しながら答えた。
「人によるけど、俺なんかまだペーペーだからな。生徒のために補習だって何だってやるし、何故だか今は水泳部の顧問。それに今日は当直でさ」
「え、深山君も泊まり?」
「あーいや、うちはそういうのは基本なくてさ。単に朝っぱらからずっといただけ。部活に顔出したり、まあ雑用だよ」
「そうなんだ、ちなみに私は当直明けの一日勤務、からの休みよ」
だから少しだけ、いつもよりもテンションが高かった。
「ああ、そっちの方がよっぽど忙しいだろうな」
前を行く深山君を見上げると──高校球児ほどではないが、髪の毛は相変わらず短いままだ。
私は思わず背伸びをして、そのハリネズミのような髪に手を伸ばしてしまった。
「何やってんだお前」
私の手を掴んた彼が、眼鏡の奥で呆れた目をしている。
「い、いえちょっと触ってみたい衝動に駆られて」
「俺の家に来たら、好きなだけ触らせてやるよ」
ニヤッと悪戯っぽい顔で深山君が笑った。
──この人何だか、飯田君に似てきている気がする……。
少し無愛想だけど紳士的な深山君、というのが高校時代から変わらない彼のイメージだったが……これは認識を改める必要があるなと、私は彼に手を引かれながら思った。
「夜の高校って何年ぶりかしら」
靴音が廊下に響く。
校内は相変わらず古く、何が出てもおかしくない雰囲気を纏っていた。
「三年のとき、夏合宿には?」
私の手を取りながら、彼が懐中電灯を持って進んでいく。
「いいえ、出てないわよ、私はもうそのときには勉強一本だったから」
「そうか──じゃあ十年ぶりだな」
ピンと伸びた彼の背中に、私は何となく呼びかけてみた。
「深山先生」
「何だ──あ、何だよもう」
「ふふッ、今の学生さんは良いなあ。こんなイケメンの先生に教えてもらって」
「お前、からかうのもいい加減にしろよ」
「はいはい、深山先生のあだ名はミヤTかな。あとは影で深山とかウン○とかヒロトとか、適当に呼び捨てされてるのよねきっと」
「おい矢儀野、今さり気なく変なの混ぜただろ? ……何かお前、性格悪くなってねえか?」
「あら、それは深山君も同じでしょ」
「まあ、それもそうだな」
私たちは互いに忍び笑いをして、屋上に上がっていった。
屋上から見える景色は、何も変わっていなかった。
駅前にはマンションが立ち並んでいたが、それでも高校の周りの景色は十年前と変わらなかった。プールと、その奥にぽつんと佇む男子部室も相変わらずだ。
「ねえ……あそこ、地震が来たら危なくない?」
「ん? ああ暗いからわからないか、一応去年補強したんだ、内装も。俺が立ち会った」
──ここからだと、相変わらずの古い建物のように見えるけど……。
目を凝らす私の横で、深山君はポケットから古そうな携帯を取り出した。
「それってまさか、高校のときに使ってたやつ?」
「高校どころか今も現役だよ。あの伝説のRPGが入ってる、Nシリーズ」
小さな液晶の折りたたみ携帯を開いて見せてきた。使っているうちに傷ついていったのか、暗闇の中でも分かるぐらいにボロボロだ。
「生徒さんの前で出したらすごく驚かれそうね、それ」
「ああ、うちのクラスの奴等なんか、『これ何ですかあ? 携帯ぃ? マジで? ウソぉ? ヤベぇ』って。そんなんばっかりだよ。失礼しちゃうよなあ」
「ガラケーなんて、なかなか目にしなくなったものね」
「でも、今日のこの日まで保たせたよ」
深山君は、傷だらけの携帯を渡してきた。
「着信があるだろうから、出てやって」
「それってまさか、い──」
続けようとする私の口に彼の人指し指がそっと触れた。
深山君はそのまま眼鏡が当たりそうな距離まで近づいてきて……バチンと私のおでこを弾いた。
「あいたッ……ちょっと!」
「お前、耳まで赤くなってんの」
「…………ッ!」
思わず耳に手をやった私に、彼が少年のように笑いかけた。
「ウソだよ、暗くてよく見えなかった」
それからすぐに真顔に戻って言った。
「どこまで話すかは、全部矢儀野に任せるよ」
「深山君……」
彼は「俺ちょっとトイレ、長い方」と背中を向けたまま手を振って、階段を下りていってしまった。
※
『屋上に? どうして……?』
十年前、深山君は不思議なことを言っていた。
『それがヒデとの約束だから』と。
それが何なのか、それ以上は聞かないまま今日このときを迎えてしまった。
でも、ひょっとしたらという気持ちはあったけど。
夏の夜の少し涼しい風に吹かれながら、私はただひたすら、そのときを待っていた。
そして午後十時をまわる少し前。古い携帯に着信が入った。
私はそっと通話ボタンを押して、携帯を耳にあてた。
「──もしもし」
『あ、もしもし博……あれ、矢儀野? 俺間違えたかな?』
懐かしい、少年の声が聞こえた。
「ううん、間違えてない。お願い切らないで」
『どうした? お前何だその声、風邪でも引いたか?』
「いえ、久しぶりだなと思って……飯田君と話すの」
こんな奇跡ならいいのにと──私はずっと願っていた。
ここまでのお付き合いありがとうございます。次話でラストです。