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 あの日以来、私は部活に顔を出せなくなっていた。彼が亡くなったのは自宅だった。でもどうしても、足がプールサイドに向かなかった。

 校内で彼に最後に会った生徒として、当時私はいろいろな人物から状況を聞かれた。でもそのときも、お葬式で泣きじゃくる小さな弟さんを見たときですら──涙は一切出なかった。

 夏休み中に急遽設けられた登校日、皆の視線は私に集中した。どこからか、私が関係していると伝わったようだった。自分は関係ない──そう言い切れなかった私は、クラスメイトたちに何も言えなかった。

 言いよどむ私を見た彼らは、根拠のない噂を広めていった。彼の死因は私にあると。

 周りの大人たちも噂を否定することはなかった。


 夏休みも明けた九月以降、親しい友人との付き合いすら避けるようになった私は、常に一人で過ごすようになっていった。 


 

 季節は変わり、吹く風は少し冷たくなっていた。屋上から見えるプールの水は既に濃い緑色だった。

 私はその日の昼も、一人で屋上に上っていた。

 もしここから助走をつけてジャンプをしたら──あの濁った水の中に、私は飛び込んでいけるかもしれない。そうしたら、泳いでいる飯田君に会える。そんなことを本気で考えていた。


 バカなことをしたと思う。

 私は手すりを乗り越えて、地上のプールを見下ろしていた。手すりの外側は、三歩進んだら終わる狭さだった。

 一歩だけ先に行って、怖くなったら引き返そう、怖くなかったら次に進もう。

 そうやって一歩進み、もう一歩進んだときだった。

 突然もの凄い力で掴まれて、手すりの内側に引き上げられた。そのまま屋上の床に倒れ込み、気がついたら私は誰かの腕の中にいた。


「矢儀野! この大馬鹿野郎が!」

「え、深山君……?」 


 あの日、私が失恋した相手だった。



 ※



 なぜあのとき、あのタイミングで深山君が現れたのか。

 後に聞くと『携帯にメールが入っていたから』とだけ、彼は話してくれた。

 以降、深山君は私の隣を歩くようになった。危なっかしくて放っておけない、と言って。

 彼が気を回してくれたこともあり、私は再び友人たちとも行動を共にするようになっていた。

 私は既に、深山君に対して恋愛感情を抱いていなかった。かといって全く何の気持ちもないといえばウソになる。友情とも呼べないそれは不思議な、名付け難い感情だった。

 皮肉なことに、深山君とは以前より多くのことを話すようになっていた。野球のことや、日常のささいなこと、それに進路のことも──。

 でもどうしても、飯田君に関わることになると、二人して口をつぐんでしまった。

 飯田君がなぜ自ら命を絶ったのか──私にはわからなかったが、深山君は私の知らない何かを知っている様子だった。けれども私は尋ねることもなく、彼もそれを私に語ることはなかった。



 ※



 十二月に入り、年の瀬も近づいたある日のことだった。


「ねえちょっと」


 教室を出てすぐに、野球部のマネージャーに呼び止められた。


「矢儀野さんって博斗と付き合ってるわけ?」


「いいえ、違うけど」


 いらついた手で洗い場の蛇口を捻った彼女は、私のことを心底胡散臭そうな眼で見上げてきた。

 水はジャバジャバと猛烈な勢いでやかんから(あふ)れていた。その流れ落ちる音で、私は自分が久しく泳いでいなかったことを思い出した。


「何が『いいえ』よ? あんたねえ、人から彼氏奪っといて何澄ました顔してんの……?」


 水の音に負けない声が聞こえてきた。


 ──ああ、そうだ……。


 彼女が怒るのも当然だ。

 あの日見た深山君と彼女は、どこからどう見てもお似合いのカップルだった。それなのに──。

 深山君は先月「彼女とはもう別れたから」と私に告げてきた。ひょっとしなくても、これは私のせいなのだと認識していた。本当に申し訳ない気持ちになった。


「ごめんなさい。でも本当に付き合っているわけじゃないのよ。深山君はきっと同情心で、友人として私に接してくれているんだと思う。だからいずれ──」

 

 水の音が止まった。

 ギッと(にら)んだ彼女が、真っ赤になって私に叫んだ。


「あんた、いい子ぶって……何すっとぼけたこと言ってんのよ……! 同情だけで男がそばにいると思ってんの? 私がフラれた理由だって、知らないわけじゃないでしょう? バカにすんのもいい加減にしてよ!」


 振りかぶった手をよけることはできたけど、それはしてはいけないのだと、私はわかっていた。

 乾いた音が響いた。


「……ごめんなさい」

「あんた……飯田君と寝て、相手が死んだら次は博斗と? 噂通り、ほんとに緩い女!」


 彼女はやかんの中身を私の頭に全部かけてから去っていった。

 頬を腫らしてびしょ濡れになった私は、酷くみじめな姿をしていたと思う。

 放課後の、まだ生徒が残る廊下で起きた出来事だった。 


 その後、私はほぼ四か月ぶりに水泳部の女子部室を訪れた。

 濡れ鼠のような私を見て、一体何があったのかと興味津々で尋ねてくる仲間や後輩たちに、私は言葉を濁すしかなかった。


「ごめん、シャワー借りてもいい?」


 一人だけ、何も聞かずにいてくれた友人に声を掛けた。


「借りるも何も紗月(さつき)、あんたウチの部員でしょ」 

「え、でもとっくに……」

「ああ、あの紙? ずっとそこら辺にほっとかれてるよ」


 もう捨てていいかなあ、と横目で言ってくる友人に、私はかぶりを振った。


「まだ捨てないで、それ」 

「ったく……ねえ紗月」

「何?」

「いつでも戻っておいでよ」

「……ありがとう」

 友人の心遣いが身に染みた。


 飯田君の件以来プールサイドから遠ざかっていた私は、副部長を辞退した上で退部届を出していた。もっとも、退部届はいまだ受理されていないようだが。

 四か月のブランクは大きい。筋トレすら怠けていた私が、また選手としてやっていけるのだろうか──。

 自分の心に尋ねてみても、答えはまだ出なかった。


「紗月、スッキリした?」


 シャワー室を出たら、先ほどの友人がまだ一人残っていた。


「うん。私久しぶりに部室(ここ)に来たな……」


 腫れたままの私の頬に、友人が保冷剤を当ててきた。


「それ──深山の元カノにやられたんでしょ」


 友人は深山君たちと同じクラスだ。彼女には隠せないし、いずれ広まる話だろう。

 私は黙って友人に頷いた。彼女は、やっぱりね、と言葉を続けた。


「十月の末かな……私見ちゃったんだ」

「何を?」

「飯田君の……彼の机の花、深山が四十九日過ぎても年内いっぱいはやるって言ってね。毎日世話してたのよ。それを元カノがさあ、深山の頭にぶちまけたんだよね」

「…………」


 絶句する私に、「ほんとだって」と彼女は続けた。


「多分あれ見てたの私だけだと思うけど、まあその……元カノいろいろエグいこと叫んでて。深山もよく手、出さなかったなって思ったけどね。あんなこと言われて……自分のことだけならまだしも、私ならキレて元カノぶん殴ってたな」

「全然知らなかった……」


 友人は私の髪を弄んでから息を吐いた。 


「まあ、紗月それどころじゃなかったもんね。とにかくあんたの頬見て思ったんだよね、あいつにやられたなって」

「そっか」


 でも私を叩いたときの彼女の顔は──怒りと悲しみに満ちていた。

 あの日以来、私がどこかに忘れてきてしまった、強い感情だった。




「それじゃあ私、先生に挨拶していくから」

「ああそうだ」


 友人が私を呼び止めた。


「先生ね、紗月が来たら渡すものがあるって言ってたよ」




 顧問の教師から渡されたのは、一冊のノートだった。

 四か月前のあの日、私が男子部室に置き忘れたものだ。

 本当はこれを部長ノートにするはずだった。けれども結局その役割を果たさないまま、このノートは放置され、そして私のところへ戻ってきた。




 薄暗い体育棟の廊下で一人、ノートを開いてみた。

 最初のページに書かれていたのは──二〇〇四年八月九日(月)、午後三時、快晴、気温三十二度、水温二十九度、特記事項無し、という私の字。

 そして、その下に書かれていたのは、


  ヤギノへ 大丈夫だよ  ヒデミチより

 

 少しだけ付け足された、飯田君の文字だった。


 この字を見たときなぜだか無性に悲しくなって、私は…………これまで一度も出なかった涙が急に出てきて、止まらなくなっていた。


 飯田君はもういないんだと、このとき初めて、本当に初めて実感した。




「矢儀野! 矢儀野大丈夫か!」


 廊下で座り込んで、ノートに顔を埋めていた私の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

 ぐしゃぐしゃになった顔を上げると、すぐ近くに深山君の顔があった。

 彼が何を言っていたのかは、もう余り覚えていない。マネージャーと話をしたとかどうとか、確かそんなことだったと思う。


「これ────」

 

 ノートを見た深山君は、それ以降はもう何も言わずに、ただ黙って隣にいてくれた。

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