一
十年前──高校二年の夏、私は一人の友人を失った。
医者の息子だった彼が、自殺したあの日の夕方──私は彼と会っていた。
今でも、そのとき交わした会話を覚えている。
「矢儀野、俺さあ……何か疲れちゃったんだ」
「え……?」
「最近何やってもダメなんだよなあ……補習内容だって全然耳に入らない。部活に来てもさ、全然集中できないんだ。いくら泳いでもしっくりこない」
そう言って、彼は右手を開いたり閉じたりしていた。
意外だった。私はそれまで飯田君のことを完璧超人というか、何でもそつなくこなすスーパーマンのように思っていたからだ。
クラスは違ったから、ふだんの様子はわからなかった。けれども水泳部の練習中や休憩中、彼はいつも明るく場を盛り上げていたし、夏の野球部の地区予選でも、応援団員として声を張り上げていたのを私は知っていた。
練習後、一人時間を潰していたところに着信が入った。
古い校内の中でも一際古さの目立つ男子部室は、常に塩素の臭いと湿気が充満していた。ノックをして入ったときには、既に他の男子部員は帰った後だった。
『遅かったな、矢儀野』
そうしてたった一人残っていたのが、新しく部長になったばかりの飯田君だった。
部屋の中では壊れかけの扇風機がカラカラと音を立てながらまわっていた。
窓を開けていても熱が入ってくるだけのこの空間は、予定があった私にとって、あまり居続けたくない場所でもあった。
それでも新部長・副部長の打ち合わせだと聞いていたし、とにかく話を最後まで聞かないと──。
私は、姿勢を正してノートを開いた。
「──確かに飯田君、最近ちょっとタイム落ちてるよね。でもそういうときもあるよきっと」
「ああ……」
「今はひたすら泳いでいくしかないんじゃない? 勉強だってまだ、来年が本番なんだから」
そのうちいつものスーパー飯田君に戻るよ、と言う私に、彼は首を振るばかりだった。
「なあ、俺って、そんなに何でもできる奴じゃないんだよ。中学のときは違った。でも高校に入ったら、俺と同じような奴がゴロゴロいる。何とか一年堪えたけどな……正直努力だけじゃ、どうにもならないことってあるよ」
俺にはセンスがない、と彼は自嘲めいた言葉を発した。
「飯田君……」
下手な言葉はかけられない、そう思った私はただ黙るだけだった。コンクリートの冷たさを背中で感じながら、蝉の声に耳を傾けていた。
「それで……さ」
ふいに、飯田君が顔を上げた。煤けたベンチが軋んだ。
「俺──思い切って、賭けに出ることにしたんだ」
「賭け?」
「そう、一発逆転ホームラン。勝てば全てがうまくいく」
彼はニヤリと笑った。
「そんな、何だかわからないけど……それってギャンブル依存症みたいな発言じゃない」
「でも、このまま何もしないでいるよりマシなんだ」
私のボールペンを取り上げた彼は、開いたノートに『大丈夫』と書いた。男子らしい、よれた字だった。
「これ、俺の本心だよ、ちょっと読んでみ。魔法の言葉なんだ」
彼の言うままに、私はそこに書かれている言葉を発音した。
「大丈夫……」
大丈夫って前向きな言葉でいいなと思った。それをそのまま告げたら、飯田君は何とも微妙な顔をしていたけれども。
賭け云々はともかくとして、彼の言うことは決して他人事ではなかった。テストの回数を重ねるごとに、緩やかに下降していく学年順位。私もその日は泳ぎながら、何となく進路のことを考えていた。来月の模試の結果が悪ければ、文転も視野に入れよう、と。
自分のことばかり考えていた私は、飯田君が隣に来たことにも気がつかなかった。だから彼の顔がすぐ近くに来たときも、目は開けたままだった。
ガチン、と歯と歯がぶつかった感触がした。後ろは壁で、逃げ場はなかった。
頭が真っ白になっていた。
早く止めないと、そう思ったけど……身体は氷のように固まっていた。それを進めてもいいと受け取られたのだろう。彼はゆっくりと、ブラウスのボタンを外していった。私の口から出たのは「い……」という情けない音だけだった。
日焼けしていない場所まではだけたとき──どこからか携帯の音が聞こえてきて、彼の手がピタリと止まった。
「──ごめん」
どうかしてた、と呟いた彼は「もう一回泳ぐから」と言って、ロッカーへと向かっていった。
何も考えられないままボタンを閉じていく私に、飯田君は携帯を持った手を振ってきた。
「お前、これから博斗に会うんだろ?」
「え、何で……」
びっくりしている私の顔を見て、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
「カマかけたんだよ、何引っかかってんだバーカ」
早く行けと言わんばかりに、シッシッと手を払う。そんな彼に、私はワンテンポ遅れて怒りが湧いてきた。
「ちょっと飯田君……! さっきのアレ何?」
「え、アレって何? いやあー忙しい忙しい、忙しいなあ~っと」
謝りもしない彼の態度に、更に腹が立った。
「だから、何であんなことしたのよ!」
「あ? 別に……ちょっと流されたというか……ノリだよ、ノリ」
「……私のファーストキスが……ノリで……」
思わずこぼれた言葉だった。
「え、あ……マジで? ウソぉ?」
私の言葉に反応した彼が目を見開いた。
「ウソじゃない……!」
百億兆歩譲ってスキンシップのつもりだったとしても、ひどすぎる。
私はきつく眉を寄せて飯田君を見上げたが、彼は顔半分を両手で覆ってしまってそのままだ。
「……わかった矢儀野、これは俺とお前だけの秘密にしよう」
口しか見えない彼が提案してきた。
「その状態で何かを言っても、正に『口だけ』じゃないの?」
「大丈夫だよ──誰にも言わない」
両手を外した彼は、静かに口を開いた。
「本当に?」
「……ああ、本当に。何があっても」
差し込んだ西日が眩しくて、彼の顔はよく見えなかった。
※
水面を掻く音を背に、私は走った。約束の時間はとうに過ぎていた。
正門を抜けてまっすぐに坂を下りた。待ち合わせ場所の、魚屋の角に近づいたとき──よく知った後ろ姿が見えて心臓が高鳴った。
「深山く──」
出しかけた声を引っ込めた。
──あ、深山君と同じクラスの……。
彼は一人ではなかった。可愛いと評判の、同じ野球部のマネージャーと一緒だった。 会話は聞こえてこなくても、並んだ二人の関係はよく理解できた。夕闇の中、彼女の影が一瞬彼の影に重なって、離れていった。
──不戦敗、か。
みじめで情けない気持ちになった。
深山君は飯田君に会うために、よくプールサイドに来ていた。ふだんからおちゃらけていた飯田君とは対照的に、深山君は落ち着いていて大人びて見えた。そんな彼を私はいつの間にか好きになっていた。最初はやや無愛想だった彼と、少しずつ話すことも増えてきた私は、彼ともっと一緒にいたいと思うようになった。でもそれは結局、私の独り相撲にすぎなかったわけだ。
想い人には会わなかった。
《相談事はやっぱりキャンセル、もう大丈夫だから》
深山君にメールを送り、そのまま回れ右をした私は、電車にも乗らず家まで二駅走って帰った。
そしてその日の夜、飯田君は自宅で首を吊った。