【序】第二章:二節 〜黄昏の再会〜
「過去とは、なかなか割り切れないものだな……」
とリムティッシュが言った。彼女の眼は遠い空の、さらにその向こう側へそそがれていた。まるで、なくしたものを探し求めるように。
ゲヴラーと別れた後、書店巡りをしていたリムティッシュは、巡る途中で購入した〈アヒルおばさんのお手製クッキー〉と、〈アヒルおばさんの特選ミルクティー〉が入れられた紙袋を片手に、城の前噴水広場を訪れていた。そして、背後に城を、正面に水飛沫を上げる噴水を見ることのできる位置のベンチに腰掛けている。
「書店を巡って“アレ”を探していることも……、なにより“あなた”のことを……」
どこか遠くを見上げながらリムティッシュは言い、そして思った。
何一つ、私は割り切れていない。
過去の記憶を失う……か。ゲヴラー、私はお前がうらやましいよ。
思い返しても苦痛と憎悪しか呼び起こさないような過去など、持つ事に何の意味があるのだろうか。
しかしお前に出会えたのも、この過去のおかげ……
結局、今の私を動かしているのは、失いたい過去、か……
「……いまさら何を考えているのだろうな、私は」
リムティッシュは自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。
ふとした視線の先に、噴水の周りではしゃいで遊ぶ子どもたちが見えた。数瞬の間の後、「はぁ」という溜息が出た。
「ダメだな。一人になると。これではゲヴラーのことを言えないな」
彼女は首を横に振り、大きく深呼吸。乱れた髪を指先で整える。そして脇に置いていた紙袋に手を突っ込み、自身の顔ほどの大きさのクッキーを一枚取り出し、噛り付く。勢いに任せてモリモリと噛り付く。しっとりとした食感のクッキー。口の中いっぱいに広がる美味しい甘さの幸せが、ネガティブな気持ちを包み込み、しだいに自然と表情がほころぶ。
が、幸せを飲み込んだ瞬間――リムティッシュの表情は凍りつく。
幸せを詰め込みすぎて、喉に詰まってしまったのだ。必至の形相で紙袋に手を突っ込み、まさぐり、ミルクティーの小瓶を引っ張り出す。そして味わうこともなく、一気に飲み干す。
「――っはぁはぁ……。はぁ、何をしているのだろう、私は」
ふと、視線を感じた。ミルクティーをあおった姿勢のまま、少しだけアゴを引いて、眼を動かし、視線を感じた方角を見る。
噴水の周りで遊んでいた子どもたちが、無邪気な好奇の眼差しを向けていた。
リムティッシュは、なぜだか急に気恥ずかしくなり、慌てて平静を装おうとした。が、見事に失敗した。紙袋にしまおうとした小瓶を滑り落とし、転がった小瓶を拾おうとして、スカートの裾を踏み、転び、受身を取ろうとして、散歩中の犬に頭突きを喰らわせる……
狼狽したリムティッシュの行動は、見事に無邪気な子どもたちのクスクスという笑いを誘ったのだった。
その頃――
ゲヴラーは走っていた。
狩人に追われるウサギの如く。
ロートワール国の西にある樹海のなかを。
道を指示し前方を飛翔するアキの背を追い、汗の滴を飛ばしながら、両の手を振って。命懸けで。
その背に追いすがるは異形の影。影、影、影。
事は、今回の目的地たるエルフ村が存在する樹海――ロートワール国首都の西門から徒歩で数時間の距離――の入り口手前で、彼らが休息をとった所から始まった……
行きかけに与えられた〈幕の内弁当(お茶付き)〉を食べ終わり、お茶を飲んで、
「「ふはぁ〜」」
と二人揃って午後の青空の下、大きな古木の木陰で一通り和み、そろそろ出発しようかなと、ゲヴラーがバックパックに食べ終わったお弁当のゴミを片付け始め、それが終わるのをご機嫌なアキは古木の周りをグルグルと、エメラルド色のその翼を使い、飛び回りながら待っていた。
そして三週目にアキが、ちょうどゲヴラーが居る位置の真反対、古木を挟んだゲヴラーの背後へさしかかった――
――その時。
異変に気がついたのはアキだった。
――ポコ。
何かの音が聞えた気がして、本能的にアキは空中で静止、耳を凝らした。
――ポコッ、ポコポコ。
その音は、まるで今朝キキがコーヒーを火にかけている時に聞いたような、液体が沸騰している時に聞くような音だった。
――ポコッ、ポコポコ。ポコッ。
ゲヴラーとアキはお茶を飲んだが、火は使用していなかった。飲んだのは小瓶に入れられたお弁当付きの物だけだ。木々のざわめきともあきらかに違う。アキは不審に思い、辺りに食い入るような視線を向けた。さらに耳に神経を集中させ、音源の位置を探った……。
――ポコッ、ポコポコッ。ボコッ!
ゴミを片付け終わり、バックパックを背負った瞬間、ゲヴラーは首筋の辺りにチリチリとする怖気のようなものを感じた。それとほぼ同時、大気を震わせる衝撃音が腹に鼓膜に響く。ハッとするよりも速く、身体が勝手に動き、跳び込み前転の要領で回避行動。瞬間、背後で無理矢理引き千切られ断末魔を上げる樹木の声、そして壮絶な地鳴り。
ゲヴラーは姿勢を低く保ちつつ左足爪先に身体の軸を移し、速攻で抜刀ができる体勢をつくりながら、断末魔と地鳴りがした方へ向き直る。
そこには、今まで優しく木陰を作り佇んでいた古木が、根元の辺りから無残に破砕され、その巨体を横たえていた。
ゲヴラーはそこでハッとする。古木が倒れ掛かってきたことにではない。自身がいつの間にか回避行動をし、抜刀の体勢で辺りを警戒している事に気がついて。彼は恐る恐る確かめるように手を開いたり閉じたりした。自分の身体に触れても、実感がなく。鏡を見ても、それが自分だとわからなかった。そんな身体が……
「……勝手に、動いた?」
まさか、と彼は自分で否定する。しかし彼には怖かった。自分という実感のないこの身体が勝手に動いたという事が。それがたとえ生存本能によるものだとしても、これが自分ではないのでは、という可能性を見てしまう気がして……
ゲヴラーは気を紛らわせる為かのように、なぜ突然に古木が倒れ掛かってきたのかを探ることに意識を集中した。
鞘口に左手を添え、形だけはそれっぽく臨戦態勢をとり、辺りを探る。と、倒れた古木の真ん中辺りに淡い光が見えた。
警戒しつつ、摺り足で近づき窺ってみる。とそこには、球状の淡い光の膜に包まれたアキが、
「あうぅ〜」
と目を回して、古木に減り込んで居た。気を失っているようである。
ゲヴラーはそっと手を差し伸べる。と、指先が淡い光の膜に触れる。それは一見すると儚く消えてしまいそうな印象を与える淡い光の膜であったが、指先にある触感はハッキリとしており、印象とは違う甲殻な感じであった。
軽く力を加えてみてもその膜は破れそうになかったので、ゲヴラーはその膜ごとアキを自分の掌にすくい上げた。よく見ると、淡い光の膜の内部でアキは仰向きに浮かんでいた。古木に減り込む程の衝撃を受けながらも、傷を負っている様子は見られない。どうやらこの膜は衝撃から内部のモノを守る構造のようである。
どうやってアキを起こしたものか、ゲヴラーがそんな事を思案している時だった。
ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。何者かに見られているような、そんな感覚に囚われ、辺りを不安そうにゲヴラーは見回す。微風にゆらめく木々の葉摩音が、無闇に強調されて耳に入ってくる……――
――突然、微風が凪いだ。
同時に、不可解な音が、
――ポコ。
何か液体が、
――ポコッ、ポコポコ。
沸騰した時に発するような、
――ポコッ、ポコポコ。ポコッ。
音がしだいに、
――ポコッ、ポコポコッ。ボコッ!
近く鳴り、
――ボコッ! ボコボコボコボコボコボコッ!
ボコッ――…………
唐突に止む。
同時に、背後から強烈な悪寒の気配がした。ゲヴラーは表情を強張らせながらも、振り向いた。そこには――
「――ひっ!」
自分が居た。
影のように、黒い霧のようなものを漂わせているが、その姿は――踊るギュートン亭の踊り場にしつらえてあった、何気なく見た大きな姿鏡の中で、初めて発見した自分の姿だった。それが数歩先に、無表情にたたずんでいた……
あまりの異常さに、言葉も無くただ呆然としていたゲヴラーの聴覚が、先ほどと同じような、液体が沸騰する時のような音を聞いた。
はたとしてゲヴラーは、黒い霧を纏う自分に似た何かが視界から完全に外れないように視線を巡らせて辺りを探った。と、木々の隙間、木陰から幾重ものゲル状の闇色が煮えたぎる液体のように、ボコボコと気泡を弾けさせながら這いずってこちらへと近づいて来るのが見えた。それらは一定以上こちらに近づくと動きを止め、さらに激しく煮えたぎるように気泡を弾けさせ――湧き上がるように、人の輪郭を形成する。そして、それはしだいに鮮明な人形へと、ゲヴラーを模した姿へと変貌していく。
あるいは自分は向こう側に居る存在なのではないのか? そんな考えが脳裏をかすめる。
ゲヴラーにはそんな考えを否定するかのように、じりじりと後ずさることしかできなかった。
煮えたぎる音が耳障りだったのか、偽ゲヴラーが五体ほど出来上がり、もう一体が煮えたぎっている最中、アキが、
「んぅんう〜」
と目元をコシコシしながら目を覚ました。するとアキを覆っていた光の膜は溶けるように消え、若干浮遊していたアキはポテッとゲヴラーの掌へ尻餅をつく。それと同時に後ずさる限界が訪れ、踵が横たわる大きな古木に触れる。
一瞬、ゲヴラーの内側に悲観的な気持ちが生まれたが、
「さっきは不意打ちにやられましたけどぉ〜。次はそう簡単にいかないのですよぉ」
と、エメラルド色の淡い光を翼から放ちながら、ヤル気満々に顔の前に浮かび上がったアキを見たら、何故だかスッと悲観な気持ちは姿を消したのだった。自信満々な妖精の魅力で眠れる勇気が呼び起こされたのか、あるいは眠れる本質の気まぐれなのか……。
最後の偽ゲヴラーが形成される。
ゲヴラーは左手親指で腰に帯びた打刀の鍔を弾き、右手で柄を握り、ゆっくりと引き抜き、鞘の中で休んでいた刃を起こす。それに合わせるかのように、偽ゲヴラー達も腰に帯びた刀を抜刀した。どうやら姿以外にも擬似できるらしい。
左手を腰の鞘口に置き、右下段に刃をやったまま、小さな摺り足でゲヴラーはアキより少し前方へ出る。意識してやった訳ではなかった。ただ、その時にそうした方がいいであろう事を、身体が勝手にやっているのである。
――身体に刻まれた記憶には、いかなる力も作用しないようね。
唐突に、本当に唐突に、頭の中へ別の声――女性のものだろうか――が割り込んできた。
とっさにアキを振り返ったが、アキは舞うように振袖を揺らしつつ、既に術発動の為、ゲヴラーには理解できない言語の詠唱を開始していた。つまり、アキではない。
ゲヴラーは視線を戻し、偽モノ達が視界から外れないように視線を巡らせ、辺りを探る。
――ああ、探しても見えないわ。もう少し離れた所に居るから。
眼球の動きすら見られて……いや、読まれている?
「誰?」
この状況において案外冷静な自分が居て、頭の隅の方で少々驚いたが、今は冷静な自分の方が勝っており、先ほどのように不安さで混乱しない確信があった。
――お節介な忠告者。とでもいうのかしら。
「忠告?」
――ええ。今、貴方の前に居るソレね……
とその時。もっとも前に居た偽ゲヴラーが、抜いた刀を地に滑らせながら、異常な程の前傾姿勢で、回避という言葉を忘れたように愚直に突進して来た。
ゲヴラーはとっさには動かず、単調な動きで突っ込んでくるソレが、自身の踏み込んだ一歩の範囲内に来た瞬間、重く踏み込み、右手の刃を切り上げた。顎から脳天までをカチ割る刃へ、ヌットリとした流動的な触感が伝わる。見える切り口は、打刀の切れ味もあいまってか、スッパリとした凹凸の一切ない切り口だった。ソレは動物的な内臓器官を持っていないようである。
頭部を割られたソレは、つんのめるように体勢を崩し、勢いのまま地面に突っ込む。反射的にゲヴラーは半身を移動させ、かわし、目の前に倒れ伏すソレへ、切り上げられ上段に位置する打刀の落下する重さを利用して、重く刃を振り下ろし、ニ撃目を加える。後、小さく飛び退りソレと距離を取り、打刀の柄を両手で握り直し、正眼に構えなおす。
まるで自分で自分を斃しているようで、気分はよくなかったが、しかし自分自身への認識が希薄な事が皮肉にも幸いしてなのか、あるいは自身とソレとの違いを証明したくて必至だったのか、それ以上の感覚は生まれなかった。
偽ゲヴラー達が一斉に動く。どうやら、愚直突進の偽モノはこちらの出かたを探る為の捨て駒だったようだ。
内蔵器官のない頭でも、どこかにそれなりの知性が有るらしい。
こちらを包囲するつもりなのか、正眼の打刀を中心に見立てて、右に三体、左に二体と広がった偽モノたちは、こちらの一足一刀の間合いから離れた外円を沿うように、剣先を向けてけん制しつつジリジリと包囲網を形成しようとしている。
アキを守るためには、絶対に背後を取られるわけにはいかない。
ゲヴラーは正眼に構えた打刀を、左に刃、右に峰が向くよう刀身を傾斜させ、体を半身に平正眼の構えをとる。そして体当たりするように、右三体の中でもっとも手前に居る一体へ向けて刺突を放つ――
ように見せけん制しつつ、軸の足に力を注ぎ込み――左へ跳んだ。
一跳びで左二体の内、手前に居た一体の前へ移動したゲヴラーは、着地と同時に、跳びの勢いの付いた刃で偽モノの刀を打ち下し、返す刀で胸部から頸部まで深く切り上げ、さらに踏み込み、上がった刃で追撃の刺突を喉元へ放つ。そして最後、とどめとばかりに刺さった刃を抜くための蹴りを偽モノへ与える。
蹴られた勢いで後ろへと倒れる偽モノから、ヌットリと刃を引き抜き、動物相手ならば血脂を飛ばす為の振り下ろしで打刀を左下段に移動させ、右足を引き、二体目の偽モノが身体の正面へくるように構えつつ、視界隅に居る右側面の偽モノへも刃を届けられるよう摺り足で立ち位置を移動した。その時――
「伏せてくださぁい」
背後からアキの声が聞こえ、ゲヴラーは反射的にその場で片膝を付いて姿勢を低くした。
頭上を吸い上げるような勢いの突風が砂を巻き上げながら、威力を増しつつ流れ、辺りの木々が激しく揺らめき葉を散らす。ゲヴラーは左腕で目元を覆い、巻き上がる砂埃から庇いつつ、偽ゲヴラー達の様子を窺う。
偽モノ達は過剰な前傾姿勢のまま四つん這いになって、突風が過ぎ去るのを待ち、過ぎ去ったと感じるやいなや、四つん這いのまま突進を開始しようとした。が、そうはならなかった。動こうとした瞬間、偽モノ達は小さな破片となり、ボトボトというモッタリした音と共に崩れ落ちたのだ。
「風刃乱舞の威力おもいしったかぁですぅ」
アキは小さな胸を反らしつつ言う。ゲヴラーはリムティッシュがアキを誇らしげに語っていたのを思い出し、確かに侮る事なかれだと、胸の内で納得した。一撃で四体の敵をバラバラに解体してしまう、これがもし対人戦闘で行われていたならば、さぞ凄惨な光景が広がっていたことだろう。味方としてはとても心強い。だが、もし敵に回したら、これほど手強い事はない。
――これはまた見事に解体したものね。
例の声がゲヴラーの頭内に聞こえ、
「だ、誰ですかぁ!?」
とアキがキョロキョロと辺りを見回す。今度はアキにも聞こえたようである。
「アキにも聞こえた?」
「はいですぅ。誰なんですかぁ」
――答えてあげてもかまわないのだけれどね、風神に愛されし小人よ。しかし今は時間が無いのよ。
「時間が……無い?」
ゲヴラーは眉を寄せ、
「どういうことですぅ?」
とアキが小首を傾げる。
――さっき言いかけた事だけれど、そこで泥濘みたくなっている魔物ね、物理的なダメージでは足止め程度の効果しかないのよ。
「まさか……」
ゲヴラーは自身が仕留めた一応人の形を保つ偽モノニ体に眼を向ける。頭部カチ割った切れ口が、動物なら内蔵をゴッソリこぼしていそうな切れ口が、それぞれ先ほどより若干小さくなっているように見て取れた。
「……再生している?」
――時間があまり無い、という訳はご理解いただけて?
「アキの魔術でどうにかできないの?」
少しすがるような視線をアキに向けるゲヴラーだが、
「再生系……、たぶん風に属する魔術ではダメだと思うのですよぉ。ゴメンナサイですぅ」
風を司るフェアリーは自身が属する風系魔術を自在に使いこなす事ができる。だが、属さない系統の魔術はほとんど扱えず、誇るべき風の攻性魔術は外的にダメージを与えるものがほとんどで、今の状況には適していないのだった。
――とるべき手段は、二つに一つだと思うのだけれど?
「それは詰まり……」
ゲヴラーは駆ける。
狩人に追われるウサギの如く。
ロートワール国の西にある樹海のなかを。
導く声を聴き、前方を指示し飛翔するアキの背を追い、汗の滴を飛ばしながら、両の手を振って。命懸けで。
いったいどれほど駆けたのだろうか。獣道のような雑に踏み固められた所を駆けてはいるが、辺りの風景といえば、木、木、木、木、樹木ばかりで代わり映えなく、距離、方向感覚はもはや曖昧。木々の葉間からこぼれる暖かい光だけが、今は夕刻前であると教えてくれる。
ゲヴラーは自身が案外、体力のある身体であることに感謝しつつ、頭の片隅で多々思考していた。そもそもアノ声を信用しても良いのだろうか。まあ実際、アノ声が言っていたように、偽モノ達は復活し、ゲル状の体を地に這わせながら、結構な速度で追ってくるのだが。わざわざ樹海へ逃げなくともよかったのではないかとか、時を挟んで冷静に思ってみると考えつくのだ。
大きな嘘を信じ込ませる為には、少々の事実を含ませるものである。あるいはゲル状の闇色たちは、大きな罠へのカバーストーリーではないのか……
と、一人で思考していたところで答えなど出てくる筈も無いので、ゲヴラーは前方を飛翔するアキへ問いかけてみた。
するとアキは、後に目でも付いているのか、こちらを向いて飛翔しつつ、
「んぅ〜、大丈夫だとおもうのですよぉ。悪い人には感じないですし。むしろぉ〜、暖かくてポカポカした感じの人だとおもうのですよぉ〜」
ほんわかと答えた。
アキがそう言うならば大丈夫なのだろう、と思えてしまうのは何故なのだろう。これもフェアリーのもつ魅力の一つなのだろうか。ゼロが自分の時に「筋の通らねぇ」と言いつつも納得していた心情がなんとなくわかった気がした。
いくばくか駆けた後、頬をヒンヤリとした空気が撫で、耳に水のたゆたう音が聞こえてきた。そして、唐突に視界が広がり、目の前に日光を神秘的に反射させる湖が現れた。
湖の反射光に隠れて視認し難いが、湖の辺、自分達の進行方向正面には一対の柱のような物があり、その前の辺りに人影のようなモノが一つ、二つ……いや、三つあった。
後から追われているので色々考えながらも足を止めることはなく、自然とその影たちの方へ向かって駆ける形になる。
やはり罠か?
ゲヴラーが思った瞬間、
――伏せなさい。
先ほどの声が突然に言った。
いきなり伏せろと言われても、駆けているので無理な話。故にゲヴラーは体の重心を後方へずらし、右腕で胴と頭を庇いつつ、スライディング。アキはそんなゲヴラーの胸元へ着地する。
瞬間、今の今まで上半身の在ったそこを、槍のような物が風切音と共に二つほど通過した。ゲヴラーはやはり罠かと一瞬思いつつ、槍のような物が飛んでいった方へ、スライディングの体勢のまま視線を向ける。そこには、的を貫くことなく地に刺さった二つの十文字槍が静寂と共に居た。あれが刺さっていたらと想像してヒヤリとしたのも束の間、地に刺さった槍それぞれの刺点を中心に幾何学模様の円陣が展開し、神々しくも不気味な光を放ち始める。
「トラス。タマラ」
誰かへ呼びかけるような先ほどの声が、今度は頭の中ではなくちゃんと耳へ、澄んだ良く通る声として聞こえた。
「「は〜い、奥さまぁ〜。お任せをぉ〜」」
音源は……、先ほど駆けてきた方向か。二つの音が重なるように遠くで答え、そして木々がざわめき始める。
やはり罠だったのか。ゲヴラーの思考がまたもネガティブな方へと傾きはじめた瞬間、木々の間から六つのゲル状闇色達がその姿を現す。が、今度は何か様子が違うように見えた。こちらを追ってきたというより、何かから逃げてきたというような態……
何かから逃れるようにジリジリと森がから遠退こうとしていた闇色達が、何か見えない圧力でも森の方から受けているかのように、二本の十文字槍先から展開する幾何学模様へと近づいて行き……、次瞬、幾何学模様が放っていた光が触手のように、まるで意思を持っているかのように蠢き、地を這う闇色達を次々と溶け合うように飲み込んでいく。
実にあっさりと、拍子抜けするほど簡単に、先ほどの闇色達は姿を消失させる。そして展開していた幾何学模様も槍先へと収束する。
ゲヴラーはその光景、というより幾何学模様の放つ光に何か惹かれるモノを覚え、何故だろうかと自問しつつ眺めていた。
「やはり、闇は闇を好むようね」
不意に背後、しかも近距離から先ほどの声が聞こえ、ゲヴラーは反射的に振り返る。
地に片腕を付いて横たわる姿勢になっていた自分を、覆い被さるように覗き込み、手を差し伸べる、漆黒色の髪に、クリーム色の肌をした、美麗なその人物が身にまとう胴着の襟ぐりはとても深く、振り向いた瞬間どこに視線をやればいいものかわからず、当惑してしまった。
ゲヴラーは差し伸べられた手は借りずに起き上がり、目のやり場は定まらないが、
「あの、助けていただき、ありがとうございました」
ぺこりとお辞儀をする。そんな彼の頭の上で、
「ありがとうございますですぅ〜」
正座し、指先を揃え、アキは深く頭を下げ、お辞儀をした。淡い紫色の振袖姿がよく似合っている。
「礼には及ばないわ――」
言ってから、襟ぐり深き彼女は右手を頬に当て、
「――それで、私の魔物除け結界内部へ魔物を引き連れてくる、あなた達は何者かしら?」
口元に薄い微笑みを浮かべ、すべてを見透かしてしまいそうなほどに澄明で美しい、翠玉のごとき瞳を真っ直ぐ向けて問うてきた。
「返答によっては――」
と右から、
「――容赦しない」
と左から。左右それぞれから、いつ回収したのか、先ほどの十文字槍が突き出て、重低音な声で言う。唐突すぎてまったく反応できず、鞘口にすら手を添えられない、ゲヴラーはゴクリと生唾を飲み込み、眼球だけを動かし状況を探る。
「ガイキ、レッキ、控えなさい」
形の良い眉を寄せ、ゲヴラーの左右それぞれで十文字槍を構える筋骨隆々な二人の男へ、襟ぐりの深い女性はピシャリと言い、二人の男は、
「「承知しました。奥方」」
おとなしく言葉に従い、槍を引く。
ゲヴラーはそんな光景に少々戸惑いつつ、サイドポーチからヴァーグナー校長より預かった手紙を取り出し、
「ロートワール魔術学校――ヴァーグナー校長から預かった手紙を、エルフ村に居るセシルという方へ配達中の、傭兵戦士団スリンガーのゲヴラーと――」
「――アキといいますですぅ」
言いつつ手紙を差し出す。
奥方と呼ばれた襟ぐり深き目前の彼女は、差し出された手紙を受け取り、表と裏をさっと眺め、
「あら確かに、この蝋封印の魔術学校印は見覚えのあるものだわ――」
と手紙をゲヴラーへ返し、
「――彼らは、ガイキ、レッキ、あなた達の御客人のようね」
左右に控える二人へと声をかけ、
「まあ、なぜ私の結界内部へ魔物が侵入できたのかは、また今度の機会にでも御話しましょうか。トラスとタマラが御茶会に遅れてしまうと心配していることだし、私はこの辺で失礼する事にするわ」
またね。という高貴な微笑みと、
――これは年長者からの忠告ね。貴方はもう少し人を疑うという事を覚えた方がいいわ。貴方が出会う者が皆、善人だとは限らない。何事も信じすぎないことね。
ゲヴラーへの言葉を残し、奥方は樹海の方へと歩み去っていく、
「トラス、タマラ。隠れてないで出ておいで。あなた達もアキのように少しは人見知りをなおさないとね」
木の陰から姿を現し、自分の周囲を淡い光の尾を引いて飛び回る二人の小人と共に。
もう少し話をしてみたかったな。と思いつつ、奥方を見送ったゲヴラーは、現在、湖の畔でどうしたものかなぁと頭を悩ませていた。
「「さあ、行くがいい」」
と筋骨隆々な二人の男に通行を許可された一対の柱の間には、エルフ村へと続いていなければならない道――橋は無く、たゆたいキラキラと輝く湖の水面が在るのみである。
周りを見わたしてみても、目前の湖を渉る手段は見あたらない。
迂回して行くという手段も無くはないだろうが、この湖は横に相当大きいらしく、対岸は目視できるが左右は良く見えず、できれば迂回するのは最後の手段にしたい。なので、何かを知っていると思われる、それぞれの柱の前で仁王立ちをしている筋骨隆々な二人の男に手段を訊いてみるのだが、
「すべての物事に――」
と右から、
「――必要なのは」
と左から、
「「勇気ではなく、決断力だっ!」」
と左右から、同時にクワッと目を見開いて力強く言うのみで、いかんせん何を言っているのかゲヴラーには理解できない。自身の頭上で同じく頭を悩ませるアキに訊いてみても、
「んぅ〜、前に来た時はぬし様も一緒だったのですけどぉ、わたしは飛んでいたので、ぬし様がどうやってココを渉ったのか思い出せないのですぅ。ごめんなさいですぅ」
どうしよう。少し困った。
果たして、記憶を失う前の自分だったなら、この状況をどうして乗り越えていたのだろうか……
――――お前は――いや、ゲヴラーはよほど魔術に縁があるんだな。
不意に脳裏に甦ったのは、昨日リムティッシュに言われた言葉だった。
魔術か……、魔術、まさか自分が魔術師だった訳じゃないだろうが――断言はできないけれども――この状況にも何か魔術が関わっているのだろうか?
「アキの使える魔術の中に、水面を渉れるようにできるようなものとかない?」
今現在、魔術を操れるのはアキだけなので、どうしても魔術関係の事――とは限らないのだが――になるとアキに頼らなければならない。その事を申し訳ないとは思うのだが、今のゲヴラーにできるのは自身の非力さを嘆くことのみなのである。
アキは「んぅ〜」と思考した後、「あっ!」と何かを思いついたようだったのだが、「……あ」と何かに気づいたように、
「ないことはないのですけどぉ〜、ぬし様が居ないとできないのですぅ」
アキには色々と制約があるようである。
やはり一対の柱の前で仁王立ちしている二人に訊くしかないと思い、再度、どうしたらいいのか尋ねるゲヴラーだが、
「すべての物事に――」
と右から、
「――必要なのは」
と左から、
「「勇気ではなく、決断力だ」」
と左右から、同時にクワッと目を見開いて力強く、先ほどとまったく同じ動作で言うのみで、彼らから明確な返答はない。
必要なのは、勇気ではなく決断力……?
この言葉が今の状況に無関係だとは思わないのだが、しかし、どのように解釈したらいいのだろうか。勇気――物事を恐れない強い心。ではなく、決断力――はっきりきめる能力。が必要……。
「んん〜。やっぱりよくわからないや」
「んぅ〜。わたしもさっぱりわからないですぅ」
眉をハの字に、腕を組み小首を傾げるゲヴラーとアキ。
いっそ泳いで行こうか。自身が泳げるという確証はないが、このまま何もせずに居るというわけにもいかないだろう。
少し自棄になっていたのか、それこそ最後の手段にするべきだという事にゲヴラーは気づかず、彼は泳いで渉る事を決する。コレもある意味の決断力なのか。
そして数歩後退した後、ゲヴラーは少々の助走をつけ、目を瞑り湖畔から水面へとダイ…………ブ? した筈なのだが……、
「……アレ?」
身体は何所かに着地した。水面までの目測を誤ったか?
身体へと伝わる感触は水に触れた時のソレではなく、かと言って地面に触れているようなソレでもなく、のっぺりとした何かに触れているような、形容し難い感触。しかし水中ではない事は確か。
ゲヴラーは怖いもの見たさという様に、薄っすらと目を開き……、
「……んっ、んお!?」
驚きに目を見開いた。ゲヴラーの目測は誤っていなかった。確かに彼は湖へダイブしていたのだ。ただ、その身が水上に在るという事だけが、予想外。
アキが何かをしてくれたのかと思い、反射的に振り仰ぎ見るが、アキも普通に驚いた表情をしていた。何かを知っているであろう筋骨隆々二人男には、訊くだけ無駄か。
何はともあれ道は開けたのだ、まごまごしている理由は無い。
「よし、行こう」
内心まだ驚いている自分に言い聞かせるように、興味深げに水面へ眼差しを向けているアキへと呼びかけた。
が、すぐに一歩を踏み出せたかといえば、否である。少しの不安は、やはりある。本当に歩いて行けるのか、そもそも対岸までちゃんと行けるのか。とか、考え始めるときりがない。
「よし、行こう」
言い聞かせるように、再び口に出す。そして一歩を踏み出し、視線を足元から前方へと移す。と、
「どうしたのですかぁ〜?」
随分と先にアキの姿が……。足元を見て迷っている内に、先に行かれてしまったらしい。情けない。というか、なにかちょっぴり恥ずかしい。
「なんでもないよ。さ、行こう」
足元は見ずに、前方を楽しそうに飛翔するアキの背を追いながら、ゲヴラーは歩み始める。
後半は少々駆け足になっていたが、まあそれは気にするところではない。
ゲヴラーとアキは数分の時をかけて、湖を対岸まで徒歩で渉った。
途中、湖の中心と思われる所に差し掛かった時、見わたすかぎりの美しい自然を湖の中心から眺めるという好い体験をしたのだが、ふと、どこからか湧いて出た冷静さが、なにか自分は取り残されているのではないか、という考えを浮かばせた。こんなにも密集している美しい木々たちの中に在って、自分はポツリと繋がりを持たずに佇んでいる……
「オレは……」
「どうしたのですかぁ? お腹痛いさんですかぁ?」
湖を振り返り、変な事を思い出していたゲヴラーの視界内へ、にゅっと心配そうに形の良い眉をハの字にしたアキが出現。何故か今にも泣き出しそうに見える。
「えっ? いや、どこも痛くないよ。むしろ絶好調かな」
調子の悪いところは別にないので、嘘ではない。
「そうですかぁ? ならばいいのですけどぉ。今のゲヴちゃんはぁ〜、なにか辛いことを我慢している時のぬし様の顔と同じだったのですよぉ」
アキはぴとっとゲヴラーの頬に手を当て、心配そうに上目で覗き込む。心配性なフェアリーに、大丈夫だよと笑みを作り応えながら、ゲヴラーは改めて渉った岸を見回した。
向こう側と同じ構造の一対の柱があり、周囲には木々が伸び伸びと居る。そして一対の柱から見て進行方向前方に、簡素な作りの閉ざされた木製門とそこから左右に伸びる木製の塀が在った。門番などの姿は見あたらない。
ゲヴラーは門の前まで歩み、とくに意味はないがとりあえず手で閉ざされている門を押してみた。と、てっきり閂などで固定されていると思ったのだが、その門はゲヴラーの微々たる力によって開かれてしまった。これでは門の意味がない気もするが、半開きの門前で立ち尽くす事の方がもっと意味がないので、
「失礼……しま〜す」
と、まるでコソ泥のように、辺りをキョロキョロと探りつつ、門の内側へと侵入する。
侵入後、まず目に付くのは、割と密集して建ち並ぶ、人一人分高所に建てられた木製の高床式建物群である。湖の近く故に浸水などに備えているのだろうか? 門なども浸水に備えたものだとしたら、閂などを常時していないのもなんとなく肯ける。
ゲヴラーは物珍しげに辺りを眺めつつ、ぶらりと歩み始める。
「そういえば、ココがエルフ村なの?」
実はまだ先ということもありえそうなので、自分の横にならんでふわふわと浮かんでいるアキに訊いてみた。
「そうですよぉ〜、ふわぅっ」
答えつつ、アキは小さなアクビを噛み殺す。どうやら少し疲れているようだ。
そしていくばくか歩んだ後、第一村人を発見する。
農具を肩に背負ったエルフ族の特徴たる尖った耳を持つ人物で、彼――服装と纏う雰囲気的に男性と判断――はこちらを発見すると、一瞬、喜んでいるような表情をしたのだが、転瞬、嫌なものでも見ているかのように顔をしかめた。
「ココでは外から来る人はあまり歓迎されないの?」
悪い人には見えないが、どうにもヴァーグナー校長のように人当たりがいいようにも見えず、どうなのだろうかと、アキにヒッソリ訊いてみた。
やはり眠気が勝ったらしいアキはゲヴラーの頭の上に着地しつつ、
「あぁ〜、それはぁ〜ですね〜。ココの人達はぁ〜――」
言おうとした瞬間、第一村人が物凄い形相でアキを睨んだ。
アキはそこで何かを思い出したかのように、はっと両の手で口を塞ぎ、
「――ええとぉ〜……、あまりちゃんと言えないのですけどぉ、悪い人たちではないのですよぉ」
なんだろう、何か知っているようだが……、言ってはいけない事でもあるのだろうか?
しかし、第一村人さんは嫌そうな表情をしつつも立ち止まってくれているのだ、道を尋ねれば答えてくれるかもしれない。
「あ、あの……」
ゲヴラーが口を開いた瞬間、第一村人さんは何か物凄い視線を向ける。ゲヴラーはよくわからない視線にさらされて若干腰が引けてしまったが、
「……セシルさんをご存知でしょうか?」
どうにか尋ねることはできた。
第一村人さんは転進する。
「あ、あの〜」
やはり教えてはくれないのかなと思いつつ声を掛けるゲヴラーだが、第一村人さんは背中越しにアゴをクイと動かし何かをうながす。
ついて来いという事だろうか?
一瞬、迷ったゲヴラーだが、
「いくですよぉ〜? ふわぅっ」
小さなアクビを噛み殺しつつ、額をぺちりと叩いて第一村人さんの背中を指差し言うアキにうながされ、歩みだす。
ほどなくして一軒の高床式家屋の前へ到着する。
造りは他の家々と変わらない丸太を巧みに組んだ構造なのだが、若干急な階段を上がった正面にある扉の脇に、家紋と思われる紋様が焼き刻まれていた。ココへ到着するまでに観る事のできた家々にはそのような紋様は無かった。ということは、この目前の家は何か特別ということなのだろうか。
と、いつの間にか玄関前へと移動していた第一村人さんが、扉をコンコンと軽くノックする。すると中から、
「は〜い。ちょっと待ってくださ〜い」
コロコロとした可愛い感じの声が応え、ドタドタという物音の後、扉が内向きに開かれた。第一村人さんは小声で扉の向こう側の人物に何かを言った後、何事も無かったかのように、元来た道を戻り始める。
ぼぉっと目前の光景を眺めていたゲヴラーは、お礼を言っていなかったことに気づき、去り往く第一村人さんの背中に向かってお礼を述べる。第一村人さんは振り返らなかったが、背中越しに片手を振って応えてくれた。
「それで、ご用件は?」
横斜め上方向から冷気をおびた声が振ってくる。はたとそちらを振り仰いだゲヴラーの目に映ったのは、眼にしみるような純白の長衣に、流れるような銀色の長い髪、黄金色の双眸。そして、エルフ族の特徴たる尖った耳を持つ、冷徹な表情の人物だった。
一見、ヴァーグナー校長かと思ったのだが、どうにも一回りほど体躯が小さく見えた。それに貼り付けている表情がだいぶ違う。この人がセシルさんなのだろうか。
「ええっと、ロートワール魔術学校――ヴァーグナー校長からの手紙を、セシルという方へ届けに来たのですけど……」
階段を数段上り、サイドポーチから取り出した手紙を、冷徹な眼差しで見下ろすヴァーグナー校長に似た人物へ差し出す。
ヴァーグナー校長似の人物は、スッと差し出した手で受け取り、手紙の表と裏をサッと眺め、
「立ち話もなんですから、中へどうぞ」
と冷徹面のまま、ゲヴラーとアキを室内へと招く。
そんな冷たい眼差しのまま言われても、と思わなくもないゲヴラーであるが、これと言って断る理由もないので素直に上がらせてもらう事にする。
入室してすぐに目に付くのは、一つの巨木を切り出して作られたと思われるテーブルで、備えられている椅子は輪切りにされた丸太である。
と、音が、
――ポコ。
何か液体が、
――ポコッ、ポコポコ。
沸騰した時に発するような、
――ポコッ、ポコポコ。ポコッ。
音がしだいに、
――ポコッ、ポコポコッ。ボコッ!
大きく鳴り、
――ボコッ! ボコボコボコボコボコボコッ!
唐突には止まず、鳴り続ける。
反射的にゲヴラーは鞘口に左手をやり警戒しつつ、音の方を振り返る。
と、入室一歩目の左側の、そこには石積みで作られた台所があり、ヤカンが火にかけられていた。とんだ早とちりである。
ほっと胸を撫で下ろした、と同時に扉の閉まる音。下げた視線を戻すと、手紙を片手に持った柔和な表情の人物が、沸騰するヤカンを火から外している姿が目に入ってきた。
……アレ?
どういうことだろうか、背格好は先ほどと同じと思われる人物なのだが、表情がまったく違う。さっきまでは他を寄せ付けたくないというような冷たい表情だったのだが、目の前に居る人物の表情は、アキが言うところの「暖かくてポカポカした感じの人」なのである。扉は閉まっているし、他に人の気配は無いし……
「すみません、ごめんなさい。この村の人たちを誤解しないでください」
こういう場合も不意打ちと言うのだろうか。目の前の人物は開口一番に頭を下げて謝ってきた。声質はドタドタという物音と同時に室内から第一村人さんへとかけられたものと同質で、コロコロとした可愛い感じの声。まとう雰囲気と声質的に、この目前の人は女性だろうと判断する。が、とりあえずゲヴラーには、謝られる憶えはない。
「ええっと、あの〜……、何の事でしょう?」
面を上げた目前の人物は、
「えっ、あ、はい。あっ! ど、どうぞお座りください。あ、今お茶を淹れますから」
と慌てて茶を淹れようとして、
「熱っ!」
熱したてのヤカン要注意である。
湯気昇るティーカップには紅色の紅茶が注がれており、テーブルの中央にはミルクを練りこんだというクッキーがある。
ゲヴラーは腰に帯びた打刀を鞘ごと右手で引き抜き、自身の右側、テーブルに立てかけ、腰を下ろす。アキは甘い香りに誘われてテーブルへと降り立ったが、どうやら眠気が勝ったらしく、クッキーを一口味わったら、それを抱えたままスヤスヤと寝息をたててしまった。
手紙を片手に向かいに座ったヴァーグナー校長似の人物は、ゲヴラーたちが腰を落ち着けたのを確認すると、自己紹介と手紙の封を開くより先に、村人達のことを話し始めた。よほど誤解されたくないらしい。
そもそも、ゲヴラーはなにも誤解していないのだが。
ヴァーグナー校長似の人物が言うに、この村は長く閉鎖的な体制にあったが為、その時の体制――癖が抜けきらず、どうにも素っ気ない態度をしてしまったりと、いまだに村人の多くは、他から訪れる人にどう接していいものか模索中なのだとか。
聴かされたゲヴラーはしかし、
「はあ……、大変そうですね」
そもそも誤解などしていないので、どう応えたものか思いつかず、どうにも微妙な返事をするのであった。
そして自己紹介に到る。
向かいに座る、ヴァーグナー校長と瓜二つだが一回り小さな体躯に女性的な風をまとう人物。彼女が、ゲヴラーの目的であるセシルさんだった。ヴァーグナー校長の妹さんだそうで、瓜二つなのも納得がいくというものである。
しかも、この村の村長だとか。こんなに若いのにと一瞬思ったのだが、長寿なエルフ族である。恐らく、若く見えてもそれなりの年齢なのだろう。
ついでに初対面時の冷徹面は、彼女が村長であるということが大きく関わっていた。まあつまり、よそ者に村の代表がなめられては困ると言う事だ。
「知らない人に出会うと、知らずに怖い顔になってしまうらしくて、なかなかお友達ができません……」とセシルさんはボソリと悩みを漏らした。これもある意味、人見知りというのだろうか。ヤマアラシみないなお人である。
互いの自己紹介――アキは睡眠中なのでゲヴラーが変わりに名乗った――が終わり、やっと手紙の封を開き中身を読んだセシルが言うに、
「使用予定の薬草が足りないのですぐに送って欲しい――あと紅茶も……。兄さん、あいかわらず必要事項しか書かないですね」
今朝の、高級紙を無駄に贅沢に使った依頼書もヴァーグナー校長によるものなのかな、とかティーカップに口をつけながら思っていたゲヴラーに、セシルは「すぐにそれ等を用意するので帰り際に届けてもらえないでしょうか」と頼む。
とくに断る理由のないゲヴラーはそれを承諾。
返答を聞いたセシルは別室へ姿を消す。「あら?」「う〜ん?」「どこだったかしら?」と何かを探すような呟きだけは聞こえてくる。しばしゴソゴソとあさるような雑音が聞こえ、
「あった!」
どうやら発見したらしい。
「えっ! わっ! きゃっ!?」
壮大な土砂崩れの旋律。そして沈黙。
…………沈黙。
………………沈黙。
……………………沈黙。
…………………………さすがに心配になる。
「あ、あの〜だいじょう……ぶっ! じゃない!」
そろりと別室内を窺ったゲヴラーの目に映ったのは、書物や木箱やビンの山頂で誇らしげに薬ビンを掲げるほっそりした腕。ゲヴラーは迅速かつ丁寧に山を切り崩していき、要救助者発見。
「うぅ〜……。スミマセン、助かりました」
ゲヴラーの差し出した手を掴み、セシルは起き上がりながら礼を述べた。
救助活動終了。
複数の薬ビンを抱えて戻ってきてから、セシルは荷に添える手紙を書き始めた。
筆のはしる音に耳を傾けたまま沈黙を守るのもなんなので、お茶を頂きつつ、ゲヴラーはエルフ村に訪れるまでの出来事をセシルに話した。
聞いたセシルは、まずロートワールからエルフ村までの道のりで魔物に出会ったことに驚いていた。
ロートワール周辺は憲兵や傭兵によって定期的に魔物駆除が行われているし、エルフ村の周辺には魔物除けの結界が張ってあるので、よほど運が無いに限り、この辺で魔物に出会うことなどないらしい。
加えて、その魔物達を一瞬で消し去った「奥方」は、樹海の主たる“彷徨う樹木達の王・オールドウッディ”と愛を誓いし、彼女達の祖国メルトキオでも高位の人物“森の貴婦人・メリュジーヌ”であるらしい。
そもそも、ゲヴラーの知識の中には、メルトキオという国名はもちろん、“彷徨う樹木達の王”と“森の貴婦人”という存在がないので実感が湧かずよくわからないのだが、知らぬところですごい人と対面していたようだ。
また会うことは難儀なようで、何か知っているふうであった自身の記憶云々について訊ける日が来るのは、だいぶ遠くになりそうである。その事を少々残念に思ったゲヴラーが、気を紛らわすかのようにティーカップの紅茶をグイと飲み干したのとほぼ同時、セシルが荷に添える手紙を書き終えた。
薬ビンと手紙の包まれた紙袋を、背負いっぱなしにしていたバックパックへと収納。そして、クッキーを抱えたまま気持ちよさそうに寝息をたてているアキを優しく起こし、立てかけていた打刀を腰に帯び、帰還の準備が完了する。
門の所まで見送るというセシルと共に、日が暮れ始めた空の下、ゲヴラーとアキは帰路につく。
村の入り口まで見送ってくれたセシルに別れを告げ、村門を通過したゲヴラーを、ガタゴトという荷馬車の発てる雑音と共に、
「ロートワールまで往くけど、乗っていくかい?」
青年と思われる外套を纏った黒癖毛な人物が呼び止めた。
「いいんですか?」
「ああ、もちろん。友人に頼まれた用事があるだけで荷は無いしね」
早く帰れるのだ、どこに断る理由があるだろうか。
ゲヴラーは自分の頭上で睡魔と格闘してガックンガックンしているアキを掌に乗せ、青年のお言葉に甘えて荷馬車へと乗り込む。
そして荷馬車は走り出す。暮れ逝く陽の下、ロートワール国首都の西門を目指して。