【序】第一章:四節 〜後悔、先に立たず〜
早朝、踊るギュートン亭の食堂は、夕食時の喧騒とは無縁の雰囲気を見せる。
朝日が優しく射し込む現在の食堂にはシックな感じに落ち着きがあり、コーヒーの作られる匂いが、好い感じに漂っている。人影はポツポツ程度で皆が静かに朝食を食している。
そんな感じに大人な落ち着きをみせる踊るギュートン亭の食堂、夕刻ならば屈強な男たちが大酒をかっ喰らっているカウンター席に、朝食を終了させて食後のコーヒーを楽しんでいるリムティッシュと小さなヒトなフェアリーのアキの姿があった。
ちなみに、今のリムティッシュは白銀の鎧に身を包んでいない。紺のロングスカートに白いブラウス、そしてブラウス内側の柔らかい谷の間にムギュムギュと例の懐中時計があるという格好である。正直、地味な格好ではあるが、彼女の艶やかな長い黒髪と夜空を想わせる黒い瞳、そして彼女のまとう凛々しい雰囲気と合わさると、『良い所の清楚なお嬢様』と思える。が、しかし剣士のたしなみとして側らに剣を携えている。まぁ、それはそれで絵にはなるのだが。
そんな感じに絵になるリムティッシュは、こちらはこちらで小さいが幻想的な絵になるであろう淡い紫色の振袖姿なアキに、
「ゲヴラーをそろそろ起こしてきてくれないか?」
と、お願いした。本当は自分で起こしに行ってもいいと思うのだが、しかし何故だか気恥ずかしさが勝っていた。
「わかりましたですぅ〜、ぬし様」
アキは己のぬし様のちょっぴり可愛いらしい部分を知ってか知らずか、羽ばたく事無く浮力を与えるエメラルド色な翼を使い、一気に一階食堂のカウンターから二階客間へとニコニコと嬉楽しそうにゲヴラーを起こしに飛んでいった。
リムティッシュは視線で見届けてから、カップに残っていた少量のコーヒーを飲み干し、
「キキ、コーヒーのお代りをもらえるか。あと、ゲヴラーにお手頃な依頼も」
と、ネコマタハーフなウェイトレス兼、依頼受付嬢に親しげな視線を向けて言った。
「はぁ〜いよっ」
いつもと変わらぬ格好で、カウンター内でキュッカキュッカとお皿を拭いていたキキは、ニッと猫みたいな笑顔(通称、キキの猫スマイル)で応え、お皿を拭くのを中止して、リムティッシュからカップを受け取り、ポットから美味しい香りを漂わすコーヒーを注ぐ。
そして、カウンター奥の食器棚の隣にある依頼書類保管棚から一つの封筒を取り出して、コーヒーと一緒にリムティッシュへと差し出す。
「この依頼ね〜、今朝早くゼロから渡されたやつなんだよね。『情けねぇツラの“神の力”の実力試すにゃぁこれがいいだろ。こなせねぇならオメェが扱き使ってやれ、皿洗いとか何とか色々あんだろ』って言い残して、用事があるとかで出て行っちゃったけど」
中途半端なゼロの顔真似と声真似を混ぜつつ、キキは猫スマイルで言った。
リムティッシュは、
「ああ見えて、ゼロは面倒見が良いからな」
と、いい香りが湯気発つコーヒーカップに口を付け微笑みながら言い、見た目と口調と中身がミスマッチなゼロが貰ってきた、まだ開いていない依頼封筒の表を見て、コーヒーを舌で味わいつつ封筒を返して裏を見た。
表には〈依頼事――傭兵戦士団スリンガーへ〉と達筆な筆字で書いてあり、裏には魔術学校を示す蝋封印と、表とはとてもギャップのあるやたらと子どもっぽい筆跡の〈魔術学校より〉という筆文字があった。
「……魔術学校からの依頼、か…………」
リムティッシュは何かを思い出すように少し上目をし、
「まさか、また失敗したキメラの始末とかじゃないよな……」
と、思い出した事に苦笑を浮かべつつ言った。
「んん〜。……あの時はゼロも機嫌悪くなってたから、さすがに自分でもらってくるとは思えないけど……。それに今回はゲヴちゃん用にもらってきたっぽいから、あの時みたいなのではないと思うよ」
キキはお皿を拭くのを再開しつつ猫スマイルをやや苦笑色にして言いった。ちなみに、「ゲヴちゃん」というのは、早々にキキがゲヴラーに付けた呼び名である。なんのヒネリもない呼び名である……。
と、噂をすれば何とやら。ゲヴちゃんことゲヴラーが、頭の上にフェアリーなアキを乗っけて階段を降りてきた。
彼はまだ眠たそうに少し背を丸めて、頭上のアキが指差す食堂のカウンター席へコテコテと木製の床を鳴らして移動し、
「おはよう」
食堂カウンター席のリムティッシュの左隣に腰を下ろす。
「……おはよう」
と、コーヒーカップに口を付け、目線だけをゲヴラー向けつつリムティッシュ。
「おっはっよぉ〜。よっ、ゲヴちゃん」
と、お皿を拭きつつ、新しいオモチャを発見した子猫のように満面の笑顔でキキ。
「で、ゲヴちゃんは、朝はご飯派? パン派? どっちもあるけど?」
頭の上にクエスチョンマークを無数に浮かばせて訊いてくるキキに、ゲヴラーはしかし少しの思考する間を置いてから、諦めたように口を開く。
「……えっと。オレ、払えるご飯代金持ってないんでっぅぇ――――!」
クワッ! と、目を見開かせたキキは、ネガティブ全開で言おうとしたゲヴラーの襟首を右手一本でガシッ! とホールドし、カウンターに身を乗り出しつつゲヴラーの眼を窺うようにグッと顔を近づけて、
「いいかいゲヴちゃん。キミはもう傭兵戦士団スリンガーの一人なの。私達はお仲間の事情を知っていてお金貰おうとするほど小っさくないの。だから――」
キキが口を開く度に鼻頭に吐息があたってこそばゆいうえに、キラキラとダイヤモンドのように輝く彼女の瞳を間近で見て魅入られそうで、耳が熱くなっているのが自分でわかる。
「――このフレンチトーストを食えぇ!」
鼻に吐息が掛かるほどの近距離から一気に身を離し、彼女はダンッ! と、おいしそうな甘い香りを放つそれをゲヴラーの前に置いた。
ゲヴラーが、えっえっと若干困惑していると、
「オリジナルブレンドモーニングコーヒーも付けてやるぅ!」
と、口調は荒々しく手元は慎重にキキはコーヒーを出した。
コーヒーを口に含んで香りと味を楽しんでからリムティッシュは少しだけ身を動かし、ゲヴラーに向き直り、穏やかになんでもないことのように言う。
「細かい事は気にするものじゃない」
「そうだよっ!」「そうですよぉ」
と、キキもアキもウンウンと頷いた。
「それに、フレンチトーストもコーヒーも美味しいぞ?」
と、穏やかに微笑んで、好き嫌いをする子どもに語るようにリムティッシュは言った。
「…………そうだね。それでは、遠慮なく――いだだきます」
「はい、召し上がれ」
お皿を拭くのを再開しつつキキは猫スマイルで優しく応えた。
しかし、リムティッシュのゲヴラーを見る夜空のような瞳には、本人も気づかない程度の哀しみ色があった。それはどこかで、ゲヴラーが思考する間の内に、なにを思っていたのか分かっていたからなのかもしれない。
自分が、朝はご飯派なのかパン派なのか、それすら思い出せない、そんな彼の哀しい気持ちを。
しばしの時を経て、ゲヴラーが朝食を食べ終わった。
「ふぅ」
と食後の淹れたてコーヒーで一息ついたゲヴラーの隣、《とあるハンターの発掘ロマン》という題名の史実ハードカバーな小説を読みながら、キキお得意のカフェ・ラテを楽しんでいたリムティッシュは、それに枝折を挟んでパタンと閉じる。
そしてリムティッシュは、先の依頼封筒をゲヴラーの前に差し出す。
「さっそくだが依頼だ」
ゲヴラーは差し出された封筒を手に取り、リムティッシュがしたように依頼封筒の表と裏を見る。
「…………魔術学校?」
小首を傾げて疑問を口にした後、封を切って良いか視線で訊ねる。
「これ使ってぇ〜よっ」
と、キキが、何故か常に装備しているヒップホルスターから、鏡としても使えそうな程に研ぎ澄まされた投擲ナイフを差し出す。一瞬、ゲヴラーは微かに驚いてから、キキの投擲ナイフを受け取り、シュッと一瞬、指先に力を加えただけで封を切る。恐ろしいほどの切れ味である。
「……ありがと」
キキに投擲ナイフを返却してから、封筒の中から高級質な紙を一枚取り出し、三つ折りにされていた紙を開き、書かれていた事を口に出す。
「――昼頃、城下西の魔術学校受付へ来られるべし――……」
「……ん? それだけかいにゃゲヴちゃん」
「え、ああ、はい」
疑問符を頭の上に浮かべて訊いてくるキキに、ゲヴラーは高級紙を無駄に贅沢に使った依頼書を見せた。
「ありゃ、ホントだ。……こりゃまた、どえらい手抜きだにゃ」
「手抜き……なんですか、これ」
ゲヴラーの問いに「うん!」と、ウェイトレス兼、依頼受付嬢なキキは少しだけ得意げに説明をする。
「本当はねっ、依頼書には、依頼主の名前、住所、依頼内容の簡単な説明、契約金の額、依頼成功報酬の額、などなどを書いてもらわないと、私が依頼掲示板にこんな依頼が来てますよぉ〜って張り出せないのよ。まぁ、今回は特殊だから掲示板に張る必要なかったんだけどね」
ちなみに、依頼掲示板というのはカウンター席を左側へ行った突き当りの壁全体――掲示板というよりは宣伝チラシが無数に貼り付けられているだけみたいだが――のことである。そして仕事を欲する者は、この無数の中から自分で依頼を選び、キキに報告、正式な依頼書を貰い、依頼開始となる。のが、ここでの常である。
「……? オレの受けるやつは手抜きで特殊なんですか?」
「ん〜、まぁ、今回のゲヴちゃんの依頼は、私達がゲヴちゃんの実力を測るために用意したやつだから特殊ってだけなの。だから中身は普通の依頼とは変わらないよ。依頼書が手抜きなのは……向こうが忘れたのかなぁ……まっ、詳細は向こうに行けばわかるよっ」
そこまで言うと、キキは「注文お願いっ!」と食堂に呼ばれ、
「おっ、呼ばれた。んじゃまぁ、無理はしないでがんばってね、ゲヴちゃん」
ニッと、猫スマイルで言い残して忙しそうに注文を取りに行った。
実はこの安宿において彼女が一番多忙なのではないだろうか。と、そんなキキを視線で見送ってから、ゲヴラーはその視線を手抜きな依頼書に落とす。
「んん〜、昼頃か……。まだ、朝だし……散歩でもして時間を潰すか」
少し思案するように眉を寄せ、そしてすぐに楽しい事を見つけた子どものような微笑んだ表情で彼は言った。
もし、今この場に過去の彼を知る者が居たら、「実に彼らしいな」と思っていたであろう。が、今のこの場にはその様な人物の姿はない。
そして、少し彼の事を理解しつつある。で、あろうリムティッシュが口を開く。
「ゲヴラー、散歩のついでに付き合ってほしい所があるのだが……いいか?」
「別にかまわないけど。……それに、良く考えればオレ、道とか分からないし」
頼りない困った顔で微笑む彼が、自覚できない程度に、何故だかリムティッシュには儚くも愛しく感じられた。