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Farce of the Creators  作者: かくにん
▽:第一部・一章【序:管理された世界の】
3/31

【序】第一章:二節 〜後悔、先に立たず〜

「ちょっと診せてもらいますよ」

 いつの間にか彼の前まで移動していた薄汚れた白衣の青年は、そう言って彼の腕を取り、黙って脈を診る。そして軽い健診を終え、

「どうやら、身体に問題はないようですね」

 クイとメガネの位置を直しながら述べた。

「……そうですか」

 彼はそれを複雑な心境で聞いた。

 そんな彼を代弁するように、

「じつは、とても繊細で複雑な問題があるんだ」

 リムティッシュは“彼の現状”を説明した。

 それを聞いたふたりは、二者二様の表情を見せる。

 真人間に見えない青年は、不謹慎にもどこか喜ばしそうな、気色の悪い薄ら笑みを。

 善人に見えないおっさんは、訝しむような、険しい表情を。

 あまり愉快ではない“静けさ/空気”が場を包み――

 ぐぅ~、という愉快な音がそれをぶち壊した。

 ぐぅ~、とその音は激しく自己主張する。

 ぐぅ~、とまったく慎むことなく。

「誰だ、腹鳴らしてやがんの」

 言って、黒の眼帯のおっさんはそれぞれの顔を睨む。

 しかし音源は、すぐに知れた。

「なんだお前ぇ、腹へってんのか?」

 そんな問いかけに――

 ぐぅ~、とお腹が勝手に返答してしまい、

「…………そのようです」

 彼は顔を真っ赤にしてうつむく。


 詳しい話は夕食を食べながら、ということになった。この“踊るギュートン亭/宿屋”は、二階に客室、一階に食堂があるので、一同は部屋から出てそちらへ移動する。

 階段の途中の踊り場に、“簡素な姿見/大形の鏡”があった。宿泊客が外出前になにげなく身だしなみを確認できるように、という宿側の配慮が感ぜられる。

 そんな優しさのある“簡素な姿見/大形の鏡”を前にして、

「…………」

 彼は言葉もなく突っ立つ。

 知らないヒトの肖像画を眺めているような、感慨のない気分だった。はっきりとした輪郭でそこにいるのに、“当たり前のようにそれを自分と認識する”ことができなかった。

 ただひとつ、鏡を見て知れたことがあった。鏡の中の“自分”は、適当に切って分けた、黒に近い茶色の髪をしていた。

 覇気のない、頼りない、地味なヒトだな、と彼は鏡の中の“自分の姿”を眺めて思った。それは他人の身なりを批評するヒトのような、感情移入のない俯瞰の意だった。

「どうかしたのか?」

 鏡の中を凝視して動かない彼に、リムティッシュはうかがうように声をかけた。

 彼は、首を横に振ることでそれに答えた。


 一階の食堂は、夕食時ということもあり、とても賑わっていた。他愛無い世間話をする者、黙々と食事を味わう者、酒の力で話し冗語になる者、酒を黙って嗜む者、仕事や職場や人間関係に関して愚痴をこぼす者、恋愛に関する話で熱くなる者に冷める者――食卓それぞれに、様々な色彩の個性が溢れている。

 特別さもなくそこにある鮮やかな色彩たちは、彼にとって耐え難いほどまぶしかった。逃げるように、耐えるように、彼は足元に視線をやる。息をするのが、苦しい。一歩を踏み出すのが、辛い。歩みが止ま――

 うつむく彼の手に、リムティッシュは言葉なく自らの手をかさねる。そしてちょいと手を引き、向かうほうへ彼を導く。

 幾億の励ましの言葉より、たったそれだけの温もりで、彼がまた一歩を踏み出すには充分だった。

 食堂の隅っこにある木製の円卓に、一同は腰を落ち着ける。黒の眼帯のおっさんは彼の対面に、薄汚れた白衣の青年とリムティッシュは彼の隣に、それぞれ座った。

「――で、お前ぇは」

 と黒の眼帯のおっさんが話そうとするのをさえぎって、リムティッシュは、

「この悪人面をしているのが、ゼロ。ここ、踊るギュートン亭の亭主であり、傭兵戦士団スリンガーの副長だ。言葉が粗暴で、この顔面事情だから、確実に誤解されるが、中身はとても良心的で優しいヒトだ」

 発言の邪魔をされて苛立たしげな表情を浮かべるそのヒトを、彼に紹介する。

「テメェ、いちいち余計なこと言うんじゃねぇ」

 黒の眼帯のおっさん――ゼロは、鋭利な眼光をリムティッシュに向ける。

「ちなみに、いまのは照れ隠しですね。こう見えてゼロは、とても照れ屋さんですから」

 薄汚れた白衣の青年が、からかう口調で言う。

「んだど、このクソ医者」

 リムティッシュに向けていた眼光に殺意を足して、ゼロは薄汚れた白衣の青年を睨む。

「いまクソ医者と言われたのが、ドラッド。この宿屋専属の医師で、とても残念なことにとても残念な人間だ。ちなみに、運び込まれたお前を診てくれたヒトでもある」

 薄汚れた白衣の青年のことを、リムティッシュは流れ作業のごとく彼に紹介する。

「ずいぶんとまたバッサリおっしゃる」

 薄汚れた白衣の青年――ドラッド医師は薄ら苦笑を浮かべて言い、メガネの位置を直す。

「……どうも」

 色彩の濃いふたりに気圧されつつ、彼は当然のこととして挨拶を述べた。けれどそれは、食堂に溢れる色鮮やかな賑わいにのまれて埋れて跡形もなく消える。速やかに。

「それで? お前ぇは誰だ? なんの目的があってここにいる?」

 ゼロは眼帯のない左眼で彼を真っ直ぐ見据え、斬り込むように問うた。

 それに対して、

「彼の“いま/現状”については、さっき説明したろう」

 リムティッシュは怒りを覚えているヒトの冷静な口調で、抗議を述べる。

「記憶喪失ってか? お前ぇは書物の読み過ぎだぜ、“リムティッシュ/本の虫”」

 ゼロは鼻で笑って、

「それに、そもそも“こいつ”が“役者/詐欺師/悪人”じゃねぇ保証はどこにある?」

 至極真面目な、責任ある立場のヒトの顔になって訊く。

「それは――」

 彼が“そのような存在”ではないとリムティッシュは確信しているが、しかしそれを“証明/保証”できうる絶対的な根拠はどこにもなかった。それでもあえて理由を述べるとしたら、

「――女の勘だ」

 彼女は真摯な眼差しで、

「私の勘が、彼は決して“そのような存在”ではないと言っている」

 きっぱり言い切る。

「勘て、お前ぇ……」

 あきれを通り越して、もはや感心しているふうな表情で、ゼロは言葉を失う。

「必ずしも的外れとは言えませんよ、ゼロ」

 ドラッド医師が、リムティッシュの意を援護する。

「ああん? どういうことだ」

「女性の脳は、男性の脳よりもコミュニケーション能力が優れているんですよ。ですから、まぁざっくり言えば、本能的に他者を見る目が優れているわけです」

「だから信じろってか?」

「そうは言ってません」

「じゃあ、なんだってんだよクソ医者」

「決め付けるのはまだ早い、という話ですよ」

 ドラッド医師はメガネの位置をクイと直し、気色の悪い薄ら笑みを浮かべながら言う。

「記憶喪失は、実際に起こりうる症状です。頭に強い衝撃を受けたときや、脳になにかしらの損傷を負ったとき、あるいは耐えられる限界を超えるような“精神的ストレス/精神的ショック”を受けたとき、――はたまた“薬物/毒物”や魔術によって外部から“頭/脳/精神”に干渉を受けたときに」

「だから?」

 ゼロは、苛立たしげに“答え”を要求する。

「ですから、彼が記憶になにかしらの混乱を起こしている可能性は否定できないわけです」

「ふーん」

 ゼロは値踏みするような左眼で、彼を見やる。

「というわけで」

 ドラッド医師は場違いな嬉々とした表情で、

「詳しく診せていただいてもよろしいですか?」

 いやらしく揉み手をしながら、彼に訊く。

「お願いします」

 彼は喰らいつくように答えた。“自分”を知れる可能性があることなら、なにがどうあれ拒否する理由はない。

「診てわかることなのか?」

 必死に切実に“答え”を急く彼に代わって、冷静に慎重な姿勢でリムティッシュが問うた。

「それは、診てみないことにはなんとも」

 ドラッド医師は明らかに楽しそうな笑みを浮かべて、

「では、さっそく診察を始めましょうか」

 プレゼントの包み紙を、いざ剥がさんと心を躍らせる子どものように、

「生きてるうちに“極めて希な症例/記憶喪失”を実際に診れるとは――」

 けれど“変質者/変態野郎”のごとく両の手を気持ち悪くワキワキさせながら、

「なんと幸運なことでしょう」

 まったく場の空気に対して配慮のないことを、平然と口にする。

 そんなドラッド医師のことを、ゼロは道ばたの石ころ以下のモノを見やる左眼で見やり、リムティッシュは必殺の間合いにある“その首”を刎ねんとする剣士の眼で見やった。


 突き刺さる批難の視線をまったく気にするふうもなく、ドラッド医師は彼と向かい合う。そして彼の顔の前に右手人差し指を突き出し、賑わう食堂の中でもよく通る低い音声で、短い呪文を詠唱する。――すると、突き出した指の先端に、ロウソクの火を思わせる小さな光が灯る。

 ドラッド医師は光の灯った指を複雑に動かし、“指の軌跡/残光の尾”で幾何学模様を描き出す。――指を動かすのを止めても、“それ”は淡い光を発しながら空中に存在し続ける。

 ――次いで。

 幾何学模様の中から、帯状の幾何学模様が生えるように出現した。

 帯状の“それ”は、獲物を捕食せんとする蛇を想わせる動きで音もなく速やかに“彼の頭の中”へ侵入し――

 次瞬、気配すら残すことなく霧散して消える。

「おや?」

 ドラッド医師は一瞬だけ真面目なヒトの表情を見せてから、

「おやおや?」

 なにか楽しいモノを発見した子どものように目を輝かせる。

 それとは対照的に。

 彼は顔面蒼白になって背を丸め、こみ上げてくるモノを抑えようと手で口元を押さえる。額には、脂汗が病的に浮かぶ。

 どう見ても明らかに体調が悪くなった彼の、その弱々しい背を優しくさすりつつ、

「いったい“なに”をしたんだ」

 リムティッシュは責めるヒトの口調で、そこに居る“医者/医師”に訊いた。

「なにも」

 含みのある笑みを浮かべながらメガネの位置を直し、ドラッド医師は述べる。

「正確には、“なに”をおこなおうとしたら、べつの“なにか”に“なに”をなかったことにされてしまったのです」

「…………」

 リムティッシュは頭痛を堪えるヒトの表情を浮かべて、

「……もう少しわかりやすく話してくれないか」

 噛み砕かれた説明を求めた。

「つまりですね、彼の頭には“鍵が掛かっていた”という話です」

「……頭に、鍵?」

「大切なモノを保管している金庫には鍵を掛けるでしょう? それと同じことですよ」

 ドラッド医師は、自らの頭を指して言う。

「魔術師にとっての大切なモノである“知識/知恵”を保管しておく金庫は己の頭の中であり、そこに掛ける鍵は己の施す“魔術/呪文”である、というだけのことで。ちなみに魔術師にとっての鍵である“魔術/呪文”とは、外部からの“魔術/呪文”による“頭/脳/精神”への干渉を“拒絶/無効”する一種の対抗呪文のことです。いまさっき私の“魔術/呪文”が霧散して消えたのも、この“鍵/対抗呪文”の作用です」

「…………」

 リムティッシュは難書を読み解くように眉根を寄せて眉間にシワを刻み、

「……つまり」

 そして、ひとつの解に至る。

「彼は魔術師ということか?」

「違います」

 ドラッド医師は、きっぱりと否定し、

「自分で施した“魔術/呪文”に拒絶反応を起こす魔術師なんて、記憶喪失者以上に希な存在ですよ――というか、聞いたことありません」

 いまだ気持ち悪そうに背を丸めている彼に、好奇のある視線をやる。

「ですから、彼の頭の“鍵/対抗呪文”は、彼以外の他者によって施された可能性が高いと思われます」

「――で?」

 いままで凶悪な顔面をして黙っていたゼロが、

「結局なんも解決してねぇと思うのは、俺だけか?」

 凶悪な顔面をして問うた。

「短気ですねー、ゼロは。短気は損気と言いますよ?」

 どこか小バカにした物言いのドラッド医師を、

「ああん?」

 ゼロは射殺すように眼帯のない左眼で睨む。

「まあ、しかし――」

 刺さる眼光など意に介することなく、ドラッド医師は言う。

「聞きかじった程度の私の魔術では、この“鍵/対抗呪文”をどうにかすることは無理ですね」

 あまりにもあっさり言われて、“詳しく診ること”に少なからず希望を託していた彼は、よろしくない顔色の中に愁いた影を落とす。

「どうにかできないのか?」

 リムティッシュが訊いた。

「私の魔術では、なにをどうしたって無理です」

 あるいは突き放すようにドラッド医師は、

「私の魔術では、ね」

 含みのある眼差しで答える。

 数瞬、リムティッシュは“それ”の意味するところを考え、

「ああ、アキか」

 いま気づいたヒトの表情で、

「身近すぎて失念していた」

 その意味するところを正しく理解した。

 ――そして。

「ん? そういえば、ふたりを呼びに行ったっきり姿を見ていないな」

 いざ頼みごとをしようとして、リムティッシュはそのことに気が付いた。

「あいつなら、キキに捕まってたぞ」

 ぶっきらぼうにゼロが教える。

「そうか――」

 リムティッシュはイスから腰を浮かし、食堂内を見回す。

 その姿は、すぐに見つけられた。アキは食卓から食卓へと文字通り忙しなく飛び回り、客から注文を受けている。

「ちょっと待っていてくれ」

 賑わうというより、うるさいと述べたほうがより正確な状況の食堂である。声を上げて呼ぶよりも、こちらから呼びに行ったほうが早いだろうと判断したリムティッシュは、そう言い残して一時退席する。

「…………」

 ゼロの凶悪な顔面にある左眼からの眼光鋭い眼差しと、ドラッド医師の不精ヒゲな面の上で怪しくギラつくメガネからの好奇の眼差しと、無言の間の重さが圧力となり、彼はどうにも居心地の悪さを覚えた。そして同時に、この居心地の悪さに、いまここにいるという逆説的な証明を覚え、安堵にも似たモノを胸の内に小さく懐いた。


 リムティッシュは大酒飲みが酒をかっ喰らっているカウンター席の脇に立ち、注文を受け終えたアキが来るのを待つ。その間に、お腹を鳴らすほど空腹な彼のためにオススメの品を注文しておくことも忘れない。

 ――しばしの時を経て。

「あれぇ~、どうしたのですかぁ? ぬし様?」

 注文の報告を終えたアキが、可愛らしく小首を傾げながら訊いた。いまは紫の衣の上に白の割烹着を着ている。

「アキに頼みたいことがあってな」

 リムティッシュは、事の次第を端的に説明する。

「なるほどぉ~」

 ふむふむと肯き事情を理解したアキは、

「わかりましたぁ~」

 と言って、頼みを快諾してくれた。


「目をつぶってくださぁ~い」

 そう言ってアキは、彼の額にそっと手をあてる。

 彼は言われたとおり目をつぶる。それでもしかし、目と鼻の先に、眉間のところに、アキの存在を感じ、なんだかこそばゆいと彼は思った。それと同時に、感触としてはとても小さいアキの手に、けれどなにか大きくて優しいモノに包まれているような、安心にも似た温もりを感じた。以前にも、どこかで似たような温もりを感じたことがあるような気がした。

 アキの背後に、身長と大差ないエメラルドグリーンに淡く発光する幾何学模様の円陣が発現する。それに呼応するように、彼の額に触れた手の平の部分にも手より少し大きい程度の円陣が発現する。

 不快ではない“なにか”が頭の中に侵入してくる感覚を、彼は覚えた。そして不意に、カチリと“なにか”が音を発して噛み合わさったような、“なにか”がゆっくりと動き出したような、形容し難い不思議な流動感を彼は感じた。

「すごいですよぉ~」

 やれることをやり終えてから、アキは皆の注目の真ん中で演説でもおこなうように、

「とても強力な“鍵/対抗呪文”が五重に施されていましたぁ~。とても強力なので、最初の“鍵/対抗呪文”に“ピッキング/対対抗呪文”で割り込むことしかできませんでしたぁ……、ごめんなさいですぅ……」

 自分の“やれたこと”を報告して、しょんぼりと申し訳なさそうに肩を落とす。

「でもですねっ!」

 とアキは不意打ちのように転じて、

「明らかにっ! 魔術による干渉の痕跡があるのですっ!」

 力強く断言するように“そのこと”を付け加える。

「――で?」

 いままで凶悪な顔面をして黙していたゼロが、

「やっぱ結局なんも解決してねぇと思うのは、俺だけか?」

 凶悪な顔面をして斬り込むように問うた。

「んー、まぁ、彼が頭に困難なモノを抱えているらしいという可能性は証明されたわけですから、“いかにしてその困難を解消するか”という進むべき道は見えたとは言えますね」

 少々困ったふうな表情で、ドラッド医師は強引に前向きっぽいことを言う。

「……その、……頭の“鍵/対抗呪文”は、どうにかできるんでしょうか?」

 切実に願うヒトの表情で、彼は訊いた。

「オレは、オレのことを思い出したい」

「…………それは」

 とても答え難そうに、しばし逡巡してから、

「それは、どうすることもできないのですぅ」

 アキはウソ偽りなく“答える/宣告する”。

「“鍵/対抗呪文”がとても強力なので、ある程度まで強引に“開錠すること/割り込むこと”はできても、それ自体を完全に“解除/抹消”することは、術を施した術者にしかできないのですぅ。誰ともわからない術者を探し出して“解除/抹消”してもらうしか、本当の意味で“鍵/対抗呪文”をどうにかする方法はないのですぅ」

 その宣告は、彼に残酷であった。

「よーしよし、どうにもできねえってことがわかったところで――」

 ゼロは話を切り替えるようにひとつ拍手を打ってから、

「お前ぇの処遇について言わせてもらう」

 容赦のない鋭い眼光を彼に向け、

「飯が食い終わったら、とりあえずお前ぇの身柄は憲兵に引き渡す」

 容赦のない言葉を、容赦なく彼へ投げ付ける。

「そんなっ!」

 沈む彼に代わって、リムティッシュが声を荒げた。

「彼は罪を犯したわけではないんだぞ? それなのに憲兵に引き渡すなんて、あんまりじゃないかっ!」

 そんなリムティッシュの抗議に対して、

「ひとつ」

 ゼロは右手を突き出し、人差し指を立て、

「罪を犯したわけではない――かもしれない、だ」

 冷静な口調で言い、

「ふたつ」

 突き出した右手の、人差し指と中指を立て、

「そもそも俺らが世話焼いてやらなきゃならねぇ義理はねえ」

 と、きっぱり突き放す。

「それは……」

 ゼロが彼に対して厳しい評価をくだすことは、リムティッシュにも理解はできた。傭兵戦士団スリンガーの副長であり、踊るギュートン亭の亭主であるという、責任ある立場のゼロである。“もしも”の可能性を危惧しているのだ。記憶喪失らしい、という身元も素性も不明の彼が、“もしも”招かざる事態を惹き起こすような人物だったら、と。

 立場ゆえの判断は理解できる。理解できるのだが――

 リムティッシュは、彼を見やる。どこか遠くを見るような、まったくの別人を見るような、慈しみと哀しみの混在する眼差しで。

「彼は――」

 そして彼女は揺るぎない夜色の瞳でゼロを見据え、

「彼は私に“命の借り”がある」

 当然のことを訴えるふうな口調で言う。

「……なに?」

 あえて発言を確認するように、ゼロは訊き返す。

「彼は私に“命の借り”がある。私には“それ/借り”を返してもらう権利があるし、彼には“それ/借り”を返す義務がある。彼は剣士だ。剣士は借りには報いるものだ。それが剣士の誇りであり、剣に“忠を尽くす”ということでもある。もし憲兵に身柄を引き渡してしまったら、借りを返される権利のある私にも、借りを返すべき義務のある彼にも、お互い不都合が生じてしまう」

「だから身柄はここに置いとけってか?」

「そうだ」

 きっぱりと真摯な眼差しで答えるリムティッシュに、

「…………」

 ゼロは“もはや笑うしかない”という困ったふうな苦笑を浮かべる。

「彼のことは、私の“剣/誇り”に誓って私が保証するし責任を持つ――」

 とリムティッシュが言うのをさえぎって、

「ああ、ああ、もういい。もうわかった。めんどくせぇ。テメェの好きにしやがれ」

 ゼロが折れた――というより、言い合うのを放棄した。

 消沈した意識の隅で、ふたりのやり取りを認識していた彼は、

「……ありがとう」

 リムティッシュとゼロに感謝した。リムティッシュは安心させるような柔らかい微笑みでそれに応え、ゼロは鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「……ありがとう、……ございます」

 不幸中の幸いと言えるこの状況に、けれど彼は、なにか胸騒ぎめいた不安のようなモノを感じてしまっていた。それがとても失礼なモノであるとわかっていたから、彼は自らに嫌悪の情を懐いた。しかし、それでも――

 どうしてリムティッシュは、こんなにも自分を信じてくれるのだろう?


「それにしても――」

 とりあえずは一段落といった雰囲気の中で、

「せめて名前だけでもわからないものかな」

 胸の前で腕を組み、気遣うふうな眼差しを彼に向けながらリムティッシュが述べた。

「それが思い出せたら……、他のことも思い出せそうな気がするけど……」

 顔を伏せ、彼は首を横に振る。

「名前は、たぶん“■■■■/ゲヴラー”だと思いますよぉ~。……あれれ?」

「なに?」

 至極あっさりと重大なことを言ったと思われる自らの相棒に、

「アキ、いまなんと言った?」

 リムティッシュは喰らいつく勢いで訊く。

「うぅ~、え? あ、ですからぁ~、名前は“■■■■/ゲヴラー”だとぉ……」

 言って、しかしアキは困難を抱えているヒトのような表情をする。“真実”言おうとしていることが、“事実”言っていることとズレいるような、けれど“事実”が間違っているという確かな自覚があるわけではなく、とても曖昧な“気がする”という、もんもんもやもやとした形容し難い感覚が、どうにも身を包むのだ。

「ゲヴラー、ゲヴラー、か……」

 リムティッシュは“それ”を口に馴染ませるように発してから、

「しかし、どうしてわかるんだ?」

 慎重さを忘れることなく確認するように問う。

「ぬぅ~、え? あ、それはですねぇ~」

 もんもんもやもやを解消せんと頭をひねっていたアキは、はっとして答える。彼が左の腰に留めている、いまは鞘に納まる打刀を指し示して、

「この剣にですねぇ~、『いかなるときもこの身は最愛なる“■■■■/ゲヴラー”と共に、いかなる害悪からも“■■■■/ゲヴラー”を護り、いかなる困難をも絶ち斬る力となれ』という強い“意志/意思/遺志”のある、とても強力な護りの“魔術/呪文”が施されているからですぅ」

 と彼の名前らしきモノを知りえた理由を述べ、そして、

「物理的に刀身に“呪文/術式”を刻むことなく“魔術/呪文”を剣に施してある、とてもすごい、どこか優しい感じのする護りの“魔術/呪文”ですよぉ」

 それがいかにすごいモノであるか、その小さな顔の表情筋を駆使して力説する。

 それを聞いた彼は、左の腰から鞘ごと打刀を抜いて、まじまじと不思議そうにそれを観察する。あるいは他にも“なにか”があるのでは、と淡い期待を込めて。

「護りの“魔術/呪文”か……」

 彼を見やりつつ、リムティッシュは思う。よくも悪くも、どうやら彼は魔術と縁が深いらしい、と。

「……ゲヴラー」

 打刀から顔を上げて、彼は“自分らしき”名前を口にする。

「……ゲヴラー、……ゲヴラー、…………それが、“オレ/自分”なのかな?」

 名前さえわかれば“なにか”劇的に変化するかも、と根拠もなく“期待/希望”を持っていたが、“現実/事実”は“幸せな物語”のように好都合ではないらしい。

「それは、私が答えられることではないが……。でも、ずっと“お前”と呼ばれるよりいいじゃないか。ゲヴラー、古語で“神の力”という意味だったかな。好い名前じゃないか。ゲヴラー。お前は、ゲヴラーだ」

 言って、リムティッシュはやや眉尻を下げ、

「……それでいいだろう?」

 と控えめに提案してみる。

「…………そうだね。……オレは、ゲヴラー。……オレが、ゲヴラー」

 記憶を失くすというのは、ひとつの死のカタチなのかもしれない。あるいは希望的に考えて、再び誕生したのと同じ……。死は、未来を失くす。記憶喪失は、過去を失くす。今現在を境界に、以後を失うか、以前を失うか、――違いは、それだけでしかない。どちらも、世界との“繋がり/関わり”を失くす。どことも、誰とも、“繋がる/関わる”ことができなくなる。

 ――だから、彼はゲヴラーと呼ばれることを受け入れた。どこかと、誰かと、世界と、“繋がる/関わる”ためには、“自分”が、“名前”が、――必要だから。

「なんとも頼りねぇ“神の力”だなぁ、オイ」

 からかう口調でゼロが言う。

 そんなゼロを、リムティッシュが睨む。

「おお、怖えぇ」

 おどけてゼロが、降参とばかりに両手を上げる。

 そんな光景に、小さくではあるが自然と笑みが浮かぶ。それは彼にとって、ゲヴラーにとって、微々たるではあるが、けれど嬉しい成果である。

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