【序】第四章:一節 〜始まりの終わり〜
――悼――
一つの命を平等に尊重し続けていても、
世界はなにも変わらない。
第四章 〜始まりの終わり〜
1
すべては自分で選んだこと。
だから、後悔はしていない……
――本当に?
ベッドの上で安眠する幼娘の喉下に、ダガーナイフの切っ先を突きつけながら“彼”は自問自答していた。
この子が居なければ、あのヒトと別れることはなかったのではないか。
その可能性が脳裏にチラついた途端、
「後悔していないのなら、憎いと思ってしまったこの気持ちは」
不意にやった視線の先に、こちらを見つめる眼差しがあった。あのヒトと同じ色の、無垢な金色の瞳がジッと静かに、何を言うでもなくこちらを捉えている。
とたん、“彼”は畏れにも似た感覚に――
木造の扉を体当たりするようにブチ開け、“彼”は発狂したが如き勢いで廊下を駆け、階段を落ちるように降り、硬く閉ざされた宿屋の扉を開けようとする。
「おいおいおい。外じゃあ“砂龍が怒っている”ってのに、お前さん連れの子を置いて、どこ行こうってんだ? あの世以外に」
気を違えたとしか思えない“彼”の行動を、いままで暇そうに葉巻を味わっていた宿屋の主人が当惑気味に止めた。それも当然だろう。外では、砂漠で生活している者が“砂龍の怒り”と畏怖する、命すら枯らす砂嵐が吹き荒れているのだから。
しかし“彼”は泣き叫ぶように、宿屋の主人を組み技で床に引き倒し制すると、強引に閉じられた扉を開けてしまう。
轟っという雑な音と共に、粒子の細かい砂が無差別な襲撃を開始し、とたん宿屋の内部は眼も開けていられず呼吸するのも難しい惨状と化した。だが“彼”は、幻想に憑かれた者のごとき盲目さで、周り状況は意に介さず――
自らが抱きかかえ連れてきた幼娘を宿屋に置き去り、来た道を駆け戻る。
どれほど駆けずり回ったのかは記憶になかった。ただ気が付くと、地には乾いた砂が、天には灰色の曇が、地平の果てまで続いている場所に立っていた。
足元すら曖昧に見せていた砂塵は、しかし嘘だったかのごとく、ぱったりと静まり返っている。
どこか遠くで、風が啼いた。ぐるりと周囲を見回し、耳をすませても、しかし感覚が捉えた変化はそれだけだった。
ぽつねんと広大な砂の海に独り。
だが“彼”は、確信めいた勘に引っ張られるようにして歩み続けた。
そして――
よく知る一振りの打刀を発見する。
その瞬間、“彼”は悟りにも似た感覚で、砂漠にぽつねんとよく知る打刀が突き立っているという事実が教えてくる現実を理解した。
「……あぁ」
とたん、操り糸が切られた人形のように、“彼”は力なく膝から崩れ、
「ぁあ……っ」
突き立つ打刀を前にして、今そこにある変えようもない現実をただ嘆く。
涙も枯れると、仄暗い水底のような心とは対照的に、頭はどこかスッキリしたような明晰さで思考していた。
もう居ないヒトを想って、求めて、嘆いて、後悔し憎悪しても、今そこにある過去は変わらない。感情の変化では、現状は何も変わらない。
だから、だから行動せねばならない。“彼女”の未来を守る為に。
“自分”に残されているあの人との絆は、繋がりは――
もうそれしかないのだから。
“自分”に残された居場所は――
もうそこしかないのだから。
砂埃でザラついた服の袖で涙を拭い、“彼”は決意めいた表情で、ただ凛と静かに突き立つ一振りの打刀を手に取る。そして踵を返し、急ぎ足で、絆の、繋がりの、約束の証明たる“彼女”が居る、無国籍な集落の宿屋へと向かう。
戻る道のりは静かだった。しかし無音というわけではない。自身の発する呼吸や動悸は、やたらと大きく聞こえてくる。それがまるで催眠術のように“彼”を急かし、ひたすらに砂を蹴り駆けさせた。
先ほどは砂塵により視覚や聴覚が阻害され距離感が曖昧だった為か、もっと長い距離を駆けずり回っていたように思えたが、ほどなくして“彼”は数多くのキャラバンが駐留する無国籍な集落へと戻り着いた。
砂嵐による被害を調べている集落の人々を横目に見つつ、“彼”は飛び出してきた宿屋の扉の前へ歩みを進める。
幸いにして扉は硬く閉ざされておらず、普通に押し開けられた。宿内へ入ると同時に、誰かのすすり泣く嗚咽と、それをなだめる女性の声が聞こえた。見ると、うつむいて目元から流れ出る涙を両手でゴシゴシと拭い続ける小柄な誰かに、砂っぽい黒髪をポニーテイルに結んだヒトが床に両膝をつき目線を合わせて、一言ひとこと慎重に言葉を選んで語りかけている。
そんな二人の周りでなす術もなくオロオロしているだけだった、過酷な砂漠をすら泣き言もなく渡る屈強な男たちの一人が、
「っ! テメェ!」
入り口で様子をうかがっていた“彼”に気づき、苛立たしげに声を荒げた。
その野獣も怯みそうな声に導かれ、その場に居る者の視線が一斉に“彼”を捉える。
今にも殴りかかってきそうな屈強な男たちの眼差しにさらされてなお、“彼”は平然としていた。しかし、その群れをかき分けて、泣言のような喚きを上げながら床に四つん這いになって近づいて来る、金色の瞳を持つ“彼女”の存在を認識すると、“彼”は意図せず少し怯んだ。
だがそんな戸惑いなどおかまいなしに、“彼女”は涙の後のしゃくり上げがおさまるのも待たず、非難するように潤みが多大に増した一対の金色の瞳で“彼”を見据え、脚にすがり付く。
「アンタがその子の連れかい」
身体にフィットした黒い長袖の服に、やたらとポケットがある砂漠迷彩の施されたパンツと、使い込まれた感のあるパンツと同じ迷彩柄のショルダーバッグを身につけた一人の女性が、ポニーテイルを左右に揺らし、履いたアサルトブーツで床をコツコツと踏み鳴らしながら、高圧的な無表情で“彼”のもとへ歩み寄る。
「…………」
視線をやりはしたが、しかし“彼”は無言で答えた。
その答えを肯定と受け取ったポニーテイルな女性は、
「そうかい」
と言い置いてから、密やかに右手を握って拳を作り――
放たれた一撃を、しかし“彼”は上体を後へ反らしてあっさりと回避する。
「なにをするんですか」
訝しげな表情で言いつつ、“彼”は周囲の動きを注視しながら左手にある打刀の鯉口を切った。
「なにを――だって? こんなに小さな家族ほったらかして死に行くようなバカを叱るには言葉だけじゃ足りないしアタシの気がおさまらないかなねぇ一発くれてやろうって話だよ!」
表情は冷静なままに語気だけを怒気に染め上げて、ポニーテイルな女性は“彼”を睨む。
嫌な脂汗がジワリと吹き出て脚がガクガク泣いてしまいそうな眼差しを真っ向から見返して、
「……家族?」
目前の女性はなにを言っているんだ、という訝しさに“彼”は眉を寄せ、
「この子は、守るべき対象ではあるけれど、家族と呼べるような特別な関係ではないです」
ただそこにある事実を述べた。
家族――少なくとも、そういう関係でありたかったヒトはもう存在していない。
ついさっき理解したことだ。
もうあの人は居ない。
「もう……あの人には会えない」
言葉が口から出たとたん、枯れたはずのモノが頬をつたい零れ落ちた――
そしてソレは止めどなく溢れて頬を濡らす。
「…………なにか、わけありかい」
いきなり泣き始めた“彼”に怒気っけを抜かれてしまったポニーテイルな女性は、一度大きく肩をすくめてから、やれやれというふうに優しい困り顔で床に膝を着いて“彼”に視線の高さを合わせると、まだしゃくりあげがおさまらない幼い女の子と、肩肘張って大人びている少年を、ぎゅうっと抱きしめる。二人の子どもの気が静まるまで、それは続いた。
ポニーテイルな女性の腕に抱かれて、“彼”は温もりを思い出していた。もう戻らない、遠い、もはや蜃気楼の如き、あの人の温もりを。
でも、なればこそ――
憎いと思った心と殺そうとした手で、どうして“彼女”を守るなんてできようか。
言葉はおろか歩き方すら知らぬ、まだ生まれてもいない名も無き“彼女”にこれから必要な、ヒトからの愛情、ヒトからの温もり、ヒトから伝わる教育――総じて親から得るべきモノを、憎悪し殺意すら懐いた者が与え伝えられうるはずもない。
そのことは“彼”も自覚していることだった。
自分には、敵性から“彼女”を守り、なおかつ未来へと導く資格なんてない。だからせめて、“彼女”の未来を阻害する敵性を排除しよう。
それが“彼”の導き出した答えだった。
独りで戦う。
平凡な未来へと続く道を切り拓く。
憎いと思い、殺そうとした、自分が“彼女”にできうることは、それくらいしかない。
そして見極める為の数日をおいてから。“彼”は、キャラバンの隊長を務める筋骨隆々なヒゲもじゃな男性とその妻たる件のポニーテイルな女性に、名も無き“彼女”を託して姿を消す。
約束は果たせそうにない。
そもそも総ては“彼女”の為ではない。
ただアナタとの繋がりにすがる自分の――
絆と罪は同義になった。
でもそこに安息を懐いてしまうのは……
もう戻せない。
過去は変えられない。
約束は……、
……許してくれ、
……ア■■■――――