【序】第FIRST章:一節 〜公共の敵 ‐ Public enemy - 〜
――想――
真実には、
主義も主張も存在しない。
第FIRST章 〜公共の敵 ‐ Public enemy - 〜
――戦死者を選ぶ者 一節 ‐ Valkyrie ‐
相容れる事のない“誰かの為”の主張は、総てをまきこみ果てを見ない。
トンネルのような閉ざされた奥行きをもつ聖堂の縦軸をなす身廊には、木製の長椅子が並べられていた。床の大理石は鏡のごとく磨かれている。
身廊の正面。
数段高くにとられた内陣には、祭壇があった。
そこに祀られているのは、虚無。
しかしてその光景が哀美に見えるのは、なぜだろうか。
祭壇のむこうに。
もっとも奥まった後陣、半円のドームをかけた張り出し部に、光の壁――果てがあるのか認識できない、曰く圧倒的な白闇に包まれた空間があった。それは堂内の光源となり、虚無を祀る祭壇に、ひときわ鮮やかな自分の影を刻ませている。
その影に溶け込むように、背広姿の人物が祭壇の虚無を見上げていた。
だがその眼差しは、どこか遠く――
背広姿の人物は、夢を眺めていた。
経験した事のある、過去と呼ばれる一つの夢を。
見わたすかぎりを砂で覆い隠したその場所には、複数の影があった。
「ジ・イニシエーター。……いや、アルカナ・オルトリンデ――我が妹、我が家族よ。どうしてお前なのだ。どうしてお前が、我々を裏切るのだ」
肩口でざんばらに切られた鴉の濡れ羽根を思わせる漆黒の髪を、吹き荒ぶ砂塵が嬲り揺らすのを感じながら、砂漠という場にはにつかわしくない背広姿の人物は、ともすれば聞き逃してしまいそうな声量で、対じするその人を問いただした。
「過去の罪を、未来に、この子に負わせたくない――そう、思ったから、思えるようになったからです」
目深に着た黒いフード付きコートの奥から、確固たる決意を秘めた金色の瞳をのぞかせて、ジ・イニシエーター/アルカナ・オルトリンデと呼ばれたその人は応える。
「その子は、過去の過ちそのモノだ。それと同時に、我々と管理者、この世の秩序を壊す猛毒でもある。それを理解していないお前ではないだろう。その為に“彼”を育て、自由(Liberty)を唱え過去を繰り返そうとする愚か者たちのもとへと潜り込ませたのだから。子を殺せない我々の代わりに始末をつける為に。お前も事を理解していたからシナリオを進行したのだろう? なのに、何故」
背広姿の人物は、アルカナの背後に居る二名の人物へ視線を投げやりながら、理解に足る説明を求めた。
「種や世の為ではなく、個を。一つの命が尊い、そのことを知ったから。“彼”の誕生、成長――共に過ごした時間、それらすべてが私に教えてくれたから、気づかせてくれたから」
言うとアルカナは愛おしげな眼差しを、背後にいる気弱そうで頼りなさげな少年と、彼の腕に抱かれる毛布に包まった幼子に向け、
「だから、いかな理由があろうと、産まれた未来を消したくないのです。私の意志で消さずにすむのなら、なおのこと」
再び決意を秘めた目を目前の背広姿の人へ向ける。と同時に、彼女は左手を前方へ突き出す。その手の内には、漆黒の鞘に納まった一振りの打刀があった。そして鯉口を切り、そっと右手を柄にそえる。
「貴方が――」
アルカナは、頼りなさげな少年に言う。
「――貴方が、その娘を護ってあげて。貴方が信じ往く道を、その娘を未来へ導いてあげて」
ゆっくりと右手に力をくわえ、眠っていた刀身を引き起こす。
頼りなさげな少年は、何かを言おうと口をパクパクと動かしたが、言葉は飲み込んで、一つだけ大きくうなずき、背広姿の人物を警戒しながら少しづつだが確実にあとずさってゆく。
「私から逃れられると思っているのか? 殺せずとも捕縛することは可能なのだぞ――」
聞こえたとき、すでに背広姿人物の手は頼りなさげな少年を捕まえる寸前まで迫っていた。が、しかしその手は何も掴むことなく引っ込められ――直後、間に割って入ったアルカナの放つ一閃が、空を斬り上げる。
「いきなさい――ゲヴラー!」
頼りなさげな少年へうながしの言葉を発しつつ、アルカナは上段から追撃とけん制の刃を背広姿の人物が無防備にさらす肩口へと斬り下ろす。
「まさか身内に斬られることになろうとは、可能性すら考えたことはなかったが――」
背広姿の人物は大きく踏み込み、アルカナとの間合いを一気に詰め、余裕を残しながら左の掌で斬り下ろされる打刀の柄頭を受け止める。
「――異端者は今ある倫理をくつがえし、秩序を乱す。それを防ぐことが私の使命であり存在理由。……ゆえに、たとえそれが家族であろうとも――私は」
自らを納得されるように呟いてから、背広姿の人物は左腕へと力をくわえて止めていた打刀を押し戻し、後方へと跳び退る。そして嘯くように握った右の拳を頭上へかかげた。何かを呼び込むようにその手は開かれる。と同時、掌前方の宙に淡い光をおびた幾何学模様が出現。しかしてそれは一瞬の事。幾何学模様は砕け散り、煌びやかな粒子へと変化し、新たな姿を形成する。粒子が集結した手の中には――
「アルカナ・オルトリンデ、私はお前を“生”のコミュニティーから排除せねばならない。“蛇を喰らう者たち”と同様に、異端者として」
――なんら飾り気の無い斧槍が、ただ役割を果たすためそこに在った。
背広姿の人物は、斧槍をかつぐように構える。
そこから先の出来事は――
その瞬間、斧槍で斬撃を防ぐと同時に弾き上げた打刀は宙を舞い、数転したのち砂地へと突き刺さった。
得物を失い死に体となった元家族の身へ、背広姿の人物は毅然と斧槍の切っ先を突きつける。
だが必殺の間合いに捉えられてなお、アルカナ・オルトリンデは嘯く。
「すべてを失っても、未来は残ります」と。
もうその時には、頼りなさげな少年と毛布に包まった幼子の姿は、砂塵の向こう側へ、有視界外へと消えていた。
――断片的で曖昧だった。
憶えていないのか……。
あるいは、忘れたいのかもしれない。
役割を果たすために。
それが自らの使命であり存在理由――
だが家族をすら守れない者に、秩序など守る資格があるのだろうか。
背広姿の人物は、虚無を祀る祭壇のその先を見つめながら思考に沈んでいった。
だからだろうか、背後から近づく気配にまったく気づかなかったのは。
闇が動きをもった液体へと変化したようなそれは、硬く閉じられた木製扉の隙間から溢れるように這い出てきた。一定量、扉の下に溜まると、墨汁のようなそれはボコボコと激しく煮えたぎるように気泡を弾けさせ――湧き上がるように、人の輪郭を形成する。そして、それはしだいに鮮明な人形へと変貌していく。首から下の、早熟なふくらみを備える細やかな肢体を、肌にフィットした漆黒の光沢と艶をもつ液体とも固体とも言い難いモノで禁欲的に覆い隠した、血の気を感じない白く小さな面立ちをもつ、女の人形へと。
その女の人形は、肩まであるストレートの黒髪を揺らしながら歩みを進める。切れ長の目にある寒気すら覚える蒼い瞳に、背を向けて立つ背広姿の人物を捉えて。
肩に何かが軽く触れ、初めて背後になにかいると気がついた。
とっさに身をひるがえし、肩に触れたのが人の手だと認識する。反射的に触れている手の首を取り、相手の背後にまわると同時に、肩の関節を極め、膝を折って体勢を崩し、動きを封じる――段階になってやっと、それが自らの知る人物だと気づく。
「――ザ・パペッター。なぜお前がここにいる」
言葉と共に拘束を解かれた顔以外を艶やかな黒で包むその人は、眉を寄せ、蒼い瞳で批難の眼差しを向ける。だが背広姿の人物は、それを受けることもなく、
「お前にはメリュジーヌとエイブラムスの監視という役割があったはずだろう」
逆に、とがめるように言った。