【序】第三章:七節 〜手にした平凡な日常〜
食堂に下りてきて、とりあえず朝ごはんを食べようということになった。
カウンター席に腰を落ち着けたゲヴラーとアリエスは、キキが手早く用意した“キノコのオムレツ”と“ギュートンのソーセージ”と“黒糖パン”を猛然と食している。
そんな二人の隣で、リムティッシュはコーヒーを味わいつつ読書を楽しんでいる。どうやら彼女は、朝からガッツリ食べるタイプではないらしい。
「「――ごちそうさま」」
ほぼ同時に、ゲヴラーとアリエスが食事の終了を宣言した。
「おそまつさまでした〜」
鼻歌交じりに忙しなくお仕事中なキキが、皿をさげつつ応える。そして彼女は流れる動作で、水が満ちているタルの中へさげたお皿をぶっ込み、
「で、ゲヴちゃんにわたす物があるんだよっ」
濡れた指先をエプロンの隅っこで拭い、依頼書類等々が保管されている鍵付きの棚から巾着袋を取り出し、
「はい、コレ」
とゲヴラーの前に置く。
「えっと、あの……」
これはなんですか、とゲヴラーが訊ねるよりも先に、
「ほら昨日、ゲヴちゃん依頼の成功報酬を受け取らないで寝ちゃったじゃにゃい。だから、これは預かってた仕事の報酬だよっ」
巾着袋を指差しながら、キキはにっこりと猫スマイルを見せてくれる。
そういえばそうだった、と金銭感覚に鋭くなくてはならない傭兵には明らかに適さないことを思いつつ、ゲヴラーは巾着袋の口紐を解いて中身をのぞいてみる。そこには白い銅貨が数十枚と銀貨が一枚あった。
ロートワール国の硬貨は、見る角度によって、表面にロートワール王家の紋章、裏面に識別番号が、それぞれ浮かび上がる特殊な加工が施されてある。これはロートワール国が唯一のモノで、非常に高度な偽造防止効果を発揮する。ロートワール国の硬貨の信用性を、交易商人が好んでもちいるモノへと高めている。
「金銭については、憶えているか?」
今まで書物の活字へと向けていた視線をゲヴラーに移し、リムティッシュは訊ねる。金銭についての知識が欠落していては、傭兵であろうとなかろうと生活そのものが危うくなってしまう。ゆえに、これは訊ねなければならないことがらなのだ。
「え、ああ、うん。憶えてるよ。“ギュートンのしょうが焼き”が物凄く安値だってわかるから」
ゲヴラーは巾着袋から視線を外して、蚊の羽音ほどの声量で「記憶はお金じゃ買えないのにね」などと自虐的な呟きを漏らしてから、苦微笑を浮かべリムティッシュを見やる。
「それはよかった」とはさすがに言えない空気を暗というか露骨にかもしだすゲヴラーに対し、ちょっと戸惑ったリムティッシュは、どうにか素っ気なく「そ、そうか」とだけ返した。
「えっと、それで……」
ゲヴラーは、リムティッシュからキキに視線を動かし、
「金銭感覚があるから疑問なんですけど」
「ん? なにかいにゃ」
「成功報酬の金額が多いと思うんです」
紐の解かれた巾着袋を再びのぞきながら、眉尻を下げる。
「ええっ、そんなことないと思うけど……。ああ、でもエルフって金銭感覚にちょっと疎いところがあるから、間違えちゃったのかなぁ」
ちょいと確認させてねっ、とゲヴラーから巾着袋を拝借し、一ぃ二ぅ三ぃ……と硬貨を数え、
「……えーと、別に多からず少なからず、ピッタシだけれど」
どうして多いと思ったの? と眉を寄せつつ、キキはゲヴラーに巾着袋を返却した。
「でもオレ、手紙を届けて小包を持ち帰っただけですよ。それなのに銀貨って」
働きに対してそれ以上の対価を与えられる。高評価を受けたと思えたなら、なんら問題のない、むしろ喜ぶべき事である。が、ゲヴラーには秀でた働きをした憶えはない。というか、誰が行っても同じ結果になることしかしていないのだ。どうにも多い報酬の分だけ、自分の境遇を知っている魔術学校校長が同情してくれているように思えてしまい、どこかスッキリしない、苦しい気分を懐いてしまう。実際に言われたわけでもなく、想像の域でしかないのだが――いや、自分が同情されていると考えついてしまうことに対して嫌気を感じているのか。
どちらにせよ――
ゲヴラーは思考してしまったモノを振り払うかのように頭を振ってから、
「こんなには受け取れませんよ」
キキへ巾着袋を差し出した。
しかしそれを受け取ろうとする手は伸びてこない。
キキは腕を組んで小首をひねり、思案顔である。
少し図々しいくらいの気質が傭兵にはちょうどイイと思っている彼女なので、果たしてゲヴちゃんは傭兵にむいているのかなぁ、と考えてしまうのだ。
ともあれ、傭兵戦士団スリンガーの受付嬢としては、報酬が正当なものであると教える義務があるので「銀貨は依頼の報酬じゃないよっ――」と彼女は説明する。
「銀貨はねっ、ロートワール国からの報酬なんだよっ」
「ロートワール国からの?」
「そうだよっ。スリンガーはロートワール国と契約してるからね、定期的に魔物を狩るっていう。だから偶然にせよ魔物を狩ったゲヴちゃんには、報酬を受け取る権利があるし、こっちとしては渡す義務があるの」
わかってくれたかいにゃ? とキキは差し出された巾着袋を押し戻す。
納得できたような、できないような。ゲヴラーは眉間に小ジワを刻み難しげな表情をつくる。そんな眉間に、
「ゲヴちゃん、細々と考えすぎっ」
キキはデコピンを一撃おみまいした。
しかしゲヴラーは眉間をさすりつつ、「でも」と言葉をつむぐ。
「やっぱり受け取れませんよ。オレ、魔物と戦いはしましたけど倒してませんから」
最終的に魔物を消し去ったのは、“森の貴婦人・メリュジーヌ”である。ロートワール国からの報酬は、彼女にこそ受け取る権利があるとゲヴラーは思うのだ。
「……え? でも昨日の話じゃぁ――」
キキは小首を傾げて、昨日アキが語っていた事を思い起こす。
「――大立ち回りの末、どうにか勝利を収めた……んじゃないの?」
ゲヴラーは首を横に振り、否定する。勝利という意味では、“一度は”が正確である。結局、倒した相手は再生してしまったのだから。
「すまん。アキは大げさに語ってしまったようだな」
爆睡中の相棒に代わり、リムティッシュが詫びる。主観の語りに誇張が含まれてしまうのは、そもそも感情ある生命なのだから致し方ないことであり、あえて彼女が代わりに詫びることではない。が、それは根幹にねざす律儀さが良しとしない。まったくもって、真面目な娘だ。
というわけで、ゲヴラーは銀貨をキキへ返す。
キキは後頭部をかきつつ、
「にゃははっ。とんだ早とちり、失敬をば」
デコピンかましてしまって、どこか極まりが悪そうに、返された銀貨を受け取った。
「ところでゲヴラー。エルフ村を訪れて、なにか思ったことはなかったか?」
リムティッシュの唐突な問いに、
「いや、とくになにも」
ゲヴラーは巾着袋をサイドポーチにしまいながら答えた。
「……どうして?」
唐突な問いかけに対して彼が疑問を懐くのは、いたって普通な反応である。
「アリエスの話によると、君たちはエルフ村へ向かっていたらしいからな。実際に訪れて、なにかを感じたのではないかと思ったのだ――あるいはそこにヒントたりうるモノがあるのでは、とな」
リムティッシュの意を聞き、ゲヴラーは改めてエルフ村の印象を思い起こすが、やはりこれといったモノはない。
なにかゲヴラーに思うところがあったなら、エルフ村へ向かうのも選択の内かと考えていたリムティッシュだが、どうやらその選択に早急性はないようだ。となると、
「――追うべくは“黒い鎧の海賊”か」
優美なアゴに手をそえて、「うーむ」とリムティッシュは考えをめぐらす。
「あの、なにか問題でも?」
目の前にゲヴラーがいるという事実で九割がた安心しきり、あまり積極的に会話へ参加していなかったアリエスが、ゲヴラーごしに長黒髪の乙女を、やや不安そうに柳眉を下げて見上げる。九割は安心している、だが残りの一割――つまりゲヴラーの記憶について、目を背けたくなるような現実がそこにあり、唯一その一割を払拭してくれるであろう解決案に対して、どうにもリムティッシュが物申してきそうな気配が感じられ、不安感をくすぐるのだ。
「問題、というわけではないよ。ただ、海賊に関すること――やはり海のことだから、港街まで出張って情報収集したほうが効率的だろう、がそれをするべきか否か」
チラリとアリエスへ視線をやったのち、また「うーむ」とリムティッシュは考え込むしぐさをする。
「え、私は最初から港街ウラガアへ行くものだと思ってましたけど」
そんなことでリムティッシュが考え込んでいるのが、行ってしかるべきと思っていたアリエスには予想外だった。
「いや、行くには行く。そのつもりではある。だが――」
リムティッシュはまたチラリとアリエスへ視線をやり、渋いお茶を飲み下したあとのような表情で、
「――交易で栄える国や町というのは、物の出入りと同様に人の出入りも激しく、治安が悪くなってしまう傾向がある。ロートワールは比較的治安が良いところだがな、交易の拠点たる港街ウラガアは、治安がイイと言われるロートワールの中にあってあまりイイ話を聞かない所でな」
喋るリムティッシュの言葉をさえぎって、
「港街ウラガアがどんな所かは、話に聞いて知っています。それよりも、いったい貴女は何が言いたいんです?」
煮え切らない態度で不安感をつつくリムティッシュに、アリエスは苛立ちを覚える。
「ん、まぁつまり、治安のイイとはいえない所に子どもを連れて行くのは好ましくない、と言いたいんだ」
リムティッシュのアリエスへ向ける表情は、むしろ子を心配する母のそれに近いのだが、
「っバカにするな!」
アリエスはテーブルに拳を叩きつけ席を立ち、リムティッシュにズイと乗り出すように身を接近させる。
「私を子ども扱いするな。自分の身くらい自分で護れるし、魔物だって狩ったことがある――んですから」
アリエスは拳を握って声を荒らげて言うが、最後には冷静さが追いついたようで、超近距離まで乗り出した身を引く。
「昨日の、ぞう……造魔術だったか? アレがなくても同じことが言えるかな?」
リムティッシュの問いに、アリエスは口をへの字しながら首肯する。
「よし。ならば、見せてみろ――」
「組み手やるんだったら、裏庭でやってねっ」
というキキの言葉に従って、リムティッシュとアリエスは装備を身に付けると、踊るギュートン亭の裏庭へと姿を消した。
板挟み状態で、二人のやりとりを傍観していたゲヴラーは、ぽつねんとカウンター席に取り残された。食器を洗ったり調理の準備をしたりするキキの奏でる“踊るギュートン亭朝の顔”の音が、やたらと大きく聞こえる。
それにしても、
「港街ウラガアって、そんなに危ない所なんですか?」
リムティッシュの態度を見るかぎり、そう推測したゲヴラーは、ちょっと寂しさすら覚える静けさを消すかのように、キキに訊ねた。
「んっ? んー、どうだろう。闘技場が在る、ここの――首都の北地区だって、結構アウトローがたむろってるから、危ないって言えば、危ないし。港街ウラガアだって、場所によると思うよっ。リムちゃんは、ちょいと心配性が過ぎちゃってるけどねっ」
困った風な微笑みを浮かべて、キキは裏庭の方に視線をやる。