【序】第三章:六節 〜手にした平凡な日常〜
気が付くと、地には乾いた砂が、天には灰色の曇が、地平の果てまで続いている場所に立っていた。
どこか遠くで、風が啼いている。
ぐるりと周囲を見回し、耳をすませても、視覚と聴覚はなんの変化もとらえない。
ぽつねんと広大な砂の海にたたずむ。
これが孤独というやつだろうか。
何故か、寂しさや恐れを感じず、冷静に、曇天を眺めながらそんな事を思う。あるいは混乱を極めて、冷静であると勘違いしていただけなのかもしれないが。
理由はなかった。あても無かった。だが、足は歩みだしていた。
どれだけ歩いたのかは、景色がなにも変化しないので推測できず、加えて身体が疲れをうったえないので、本当に足をどれだけ動かしているのかわからない。
あるいは、歩いていなかったのかもしれない。
向こうからやってきたのかもしれない。
地平の果てから、砂の地に突き立つソレが、唐突に。
ソレは、変化のないこの薄暗い世界にあって、凛とした存在感をともない、なにを主張するでもなく、ただそこに突き立っている。
ソレは、打刀と呼ばれる刀剣類。皮を裂き、肉を切り、命を絶つ武器だ。
なぜこんな所に?
疑問の念を懐きつつも、手が打刀に届く位置まで近づく。と、そこで初めて、打刀の側に人影があることを認知する。
その人物は、すすり泣いていた。
正確には、すすり泣く音だけが聞こえている。
表情はうかがえない。それはその人物が、地べたに這いずるように、嘆いているから。
打刀を前にして。
何故?
疑問は尽きない。
だがしかし、声をかけることは、はばかられた。
その人物の嘆きは、他の介入を良しとしない。
不意に、人物が顔を上げた。
それを、驚きをもって見た――
なぜなら、そこに居たのは自分だったから。
顔面を壊して嘆いているが、確かにそこに居るのは、その顔は、鏡の中に見た自分の――ゲヴラーと呼ばれる男のモノだった。
なぜ“自分”は、泣いているのだろう?
目前の“自分”が動いた。
打刀を地から引き抜き、涙を拭っている。
なにか決意めいたものを、嘆きの後の顔にたたえながら――“自分”は過ぎ去ってゆく。
こちらには気づいていないのだろうか。
真横を通り過ぎ、“自分”は背後へと消えてゆく。
呼び止めようと思ったが、しかし声は出なかった。
いや、かけるべき言葉が、わからなかったのか……。
不意に、微かな音が聞こえたような気がした。自分を呼んでいるような、微かな音が。“自分”が過ぎ去った背後からではなく、真逆の、
前方から――
翌日、リムティッシュが毎朝の鍛錬から自室に戻ると、ベッドに寝ていたはずのアリエスが姿を消していた。
窓際でいつも寝ている自らの相棒たるフェアリー(小妖精)に、
「なあアキ……」
その所在を訊こうと思ったが、どうにも相棒――アキは豪快にヨダレを垂らして爆睡中であった。
リムティッシュはアキの口元を切れ布で拭いつつ、
「寝ているのだから知らない……かな」
あまりにも心地良さそうなアキの寝顔を見ていると、思わず頬の筋肉が緩み、和やかな気持ちになる。
どうせならこのままそっと寝かせておこうと思ったリムティッシュは、自室から出て、階段を下りた。
そして、食堂カウンターの内側で忙しなく動く、果たしていつ睡眠をとっているのか謎なウェイトレス――キキに、
「アリエスを見なかったか?」
単刀直入に訊ねる。
「アーちゃん? アーちゃんなら――ゲヴちゃんの部屋はどこだぁ〜って、目が覚めるような勢いで訊いてきたから、ゲヴちゃんの部屋教えて、そしたら、さらにスゴイ勢いで上に戻っていったけど」
髪の毛と同色の赤茶い二叉尻尾でリズムをとりながら調理をしつつ、キキはその片手間で答えてくれる。ちなみに“アーちゃん”というのは、キキがアリエスにつけた呼び名である。例の如く、なんのヒネリもない呼び名だ。
「そうか」
アリエスの現在位置を知り、とりあえず一安心と、何の気なしに二階の方へリムティッシュが視線をやった――
その時。
早朝には――早朝じゃなくても、どこまでも近所迷惑な、木造建築をぶっ壊わさんばかりの、床を踏み抜いたような騒音が轟き、安宿を構築する木材が軋みの悲鳴をわなないた。
遠くから呼ばれているような、曖昧な感覚に引き寄せられ、
「……んっ……っ」
薄く目を開く。
ぼやける視界に入り込んできたのは、心配そうに形のいい眉をハの字にゆがめた、可愛いよりカッコイイ感じの……そう、確かアリエスという名前の女の子……のはずだが、
「……なんで?」
それは疑問の種にしかならない。
何故か?
いま自分が居る場所が、踊るギュートン亭に間借りさせてもらっている、自室のはずだからだ。
寝る前に、扉の鍵は閉めたし……。
あれか。驚くべき出会いが、昨日の今日で、寝惚けているのかな、自分は。
「なんでって、寝ながら泣いてるんだものゲヴラー。心配にもなるよ」
眉間に可愛いシワを刻んで、アリエスの幻影は口を尖らせる。
泣いている?
オレが?
なぜ?
「それは、わからないけど」
と、アリエスの幻影は応えてくれる。ずいぶん律儀な幻影だなと思う。
「幻影? なに寝惚けてるのゲヴラー。私はココに居るよ」
言うや、彼女はこちらの腕にそっと触れてくる。繊細に取り扱わなければ壊れてしまいそうな、細くて儚いガラス細工のような手で。
しかしガラス細工を思わせるその手は、優しい温もりをもっていた。
ガラス細工や、ましてや幻影ではありえない、血のかよった、生きている温かさ。
しばし無言で、その金色の瞳を見つめ……
次第に意識の覚醒が追いつき……
ベッドから半身を起こす。
改めて、黒に近い紫の長い髪に金色の瞳を持つ、可愛いよりカッコイイ雰囲気の娘を見やる。
そしてそこに居るのが、まごうことなきアリエスという名前の娘であると、再認識する。が――
「なんで、オレの部屋に?」
寝るまえ扉に鍵を掛けた記憶は確かにある、のだが。
「そ、それは……、その……」
アリエスは、なぜか頬を微かに赤らめて、恥らうように視線をそむけてしまう。
なんだろう、妙な間が生まれ、形容し難い性質の静寂に部屋は包まれる。
こんな時に限って些細な物音ですら聴き取る冴えた感覚が、床を踏み鳴らす音を捉えた。それはしだいに近く鳴り――
不意に、ピタリと止まる。
「むっ……んんー、はやる気持ちはわからないでもないがな、鍵の掛かった扉を蹴破るのはどうかと思うぞ」
声のしたほうへ視線をやると、開け放たれた扉を見つつ苦い微笑を浮かべるリムティッシュが居た。
リムティッシュは、いまだ涙の跡を残すゲヴラーを見るや、
「好奇心から一つ訊ねたいのだが――アリエス、君はゲヴラーになにをしたんだ?」
ベッドサイドで頬を赤らめているアリエスへ、なにかを思い起こしたように問いかける。
「こういう時は、『どうしたんだ』って言いませんか? 普通」
アリエスは、大人びた疑問の眼差しで答えた。
「私もそう思うよ」
と小声に出しつつ、リムティッシュは二人に食堂へ下りないかと提案し、断る理由のとくにない二人はそれを承諾。
「さ、行こうゲヴラー」
何がそんなに嬉楽しいのか、アリエスは朗らか表情でゲヴラーに手を差し伸べる。
<続くっ!>