【序】第一章:一節 〜後悔、先に立たず〜
――結――
いま、ここに居るということを知るために
第一章 〜後悔、先に立たず〜
定期的な魔物狩りという仕事を終えた帰路の途中で、
「――ん?」
不意に、彼女は歩みを止めた。
「どうしたのですかぁ~?」
不思議そうに、彼女の相棒は訊いた。
「なにか、聞こえないか?」
そんな彼女の答えに、しかし相棒は疑問顔で小首を傾げる。
「なにか、うめき声のような……」
よほど聞こえたことに確信があるのか、彼女は探るように周囲を見回す。
彼女の現在位置は、ちょうど道が分岐しているところだった。街道と呼ばれている西への道と、旧街道と呼ばれている南東への道がある。ちなみにいままで彼女が歩いてきた東からの“整備された石畳の道”が続いてゆくのは、“西への道/街道”である。
「こっち、か?」
気配は“南東への道/旧街道”のほうからするように思えた。だから彼女は、そちらへ進んでいった。
迷いもためらいもない自分に、彼女は少々の疑問を覚えた。――が、しかし歩みが止まることはなかった。
ほどなくして彼女は、道端に横たわるひとりらしき影を発見した。
最初は魔物に襲われた哀れな旅商人かと思ったのだが、近寄るにつれ、それが軽装備の剣士であることがわかった。手には抜き身の剣――打刀と呼ばれる“東の島国ジパング”独特の剣が握られ、身には籠手以外の防具はなく、自信過剰でやられたのかと思いきや、これといった外傷はなかった。
ただ、苦しみに表情を歪ますひとりの男がいた。
薄れゆく意識の中で彼が感じたのは、強い不安感だった。
けれどなぜ“それ”を感じるのか、彼にはわからなかった。そして“わからない”ことが、“それ”をよりいっそう強くする。
彼は足元から這い上がってくる粘着質の“それ”から逃れるように、あるいは振り払うように、身を動かそうとした。
「――っ」
しかし根の深い痛みが、頭の中の脳が悲鳴のような軋みを上げてそれを妨げる。
それでも彼は、“それ”に抗おうと試みた。胸の内で渦巻く恐怖心が原動力となって、そうさせるのだ。
彼は振り絞るように、最大限の抵抗として苦悶の声を漏らした。
だが“それ”はとても強大で、ついに彼は“それ”に囚われ――
不意に、“誰か/温もり”にそっと優しく頭をなでられた。
すると次瞬、ドロドロと全身を這い回っていた“それ”の気配が消えた。
ふと訪れた解放感と安心感に、彼はすがりつくように身心をゆだねた――
歪む思考が認識するその場所は、特徴のない平原。
そよ風の中にあるのは、たたずむふたりのシルエット。
変化のない、時の流れ。
地平の彼方から日が昇り、落ちてゆく。繰り返し。繰り返し。
変化のない繰り返しに、しかし不満はなかった。
愛しい者と、その“時”を共有しているから。
世界が、暗闇に染まった。
ロウソクの灯りを吹き消すように、世界は暗闇に染まった。
文字盤と針だけの時計が、暗闇の中から浮き上がるように現れた。
時を刻む、その音はとても心地好く聞こえた。しばし、聴き入った。
不意に、嫌な胸騒ぎがした。
それは次に起こることへの、確信だった。
時を刻む、その音が止んだ。
時計が、動かなくなった。
どうしようもない喪失感に、囚われた。
――そして彼は、薄く眼を開く。
ぼんやりと、『井』の字を連ねたようなマス目状のモノが見えた。
「…………」
そのまましばし、彼は『井』の字を眺める。まるでそこに“求める答え”があるかのごとく、そして“求める答え”それ自体の正体を見極めんとするがごとく、じぃと眺める。
観察の結果、どうやら『井』の字は、木材を組んで造られた建築物の天井であるらしいことがわかった。
そこで彼は、自身が横になっていることに気が付いた。それと同時に、いままで自分は寝ていたらしいことを知る。
眠りから覚めたとき特有の気だるさは、まったくなかった。だから自分が寝ていたらしいことにいまいち確信が持てないのだが、あるいはこれを“爽やかな目覚め”と呼ぶのかもしれない、と彼は思った。
ふと、なにかとても“重大/重要”なことがあった気がした。――が、しかし気がするだけだった。
そんなことより、と彼は上体を起こした。
「――っ!」
顔の正面、目と鼻の先に、小さなヒトが浮かんでいた。
肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪に、薄緑色のくりくりとした愛らしい瞳を持ち、小さな鳥ほどの身体に紫の衣をまとい、背中にはエメラルドグリーンの淡い光の翼がある。この淡い光の翼は羽ばたく必要なく浮く力を与えるらしく、小さなヒトは羽ばたくことなく空中にいた。
急に彼の顔が迫ってきたことに驚いたのか、小さなヒトはビクッと身を震わせたあと、目を見開いたまま動かなくなってしまった。そしてなぜだか徐々に、浮かぶ高度が下がってゆく。
「――ハッ!」
目をパチクリして驚きから覚めた小さなヒトは、彼の目と鼻の先まで上昇して戻ると、その愛らしい瞳で彼の顔をじぃと凝視する。
「…………」
いろいろと理解が追いつかず、彼は停止した。
「じぃ――」
「…………」
しばし無言の時を消費して、やっと彼はなにか言おうと思い至り、そして言葉を発しようとした、まさにそのとき――
小さなヒトは、ふいと身をひるがえして、半開きの扉から退室してしまった。声をかける間もなく、速やかに。
……なんだったのだろう? と彼はあっ気に取られつつ、疑問に首を傾げた。――首を傾げたついでに、彼は自身がベッドの上にあることを認識した。そこから生じる次なる疑問に、彼は眉をひそめた。
なぜ自分は、ベッドの上にあるのか?
それについて彼が思考を巡らせようとしたところ、不意に足音が聞こえてきた。
コツコツと木造の床を踏む音は、次第に近く鳴る。そしてそれは、ぴたりと半開きの扉のところで止む。
――次瞬。
ノックもためらいもなく開かれた扉の前には、白銀の胸当てを着けた、黒の長い髪の若い女性がいた。腰の右には、細身の剣を吊っている。
彼女は意志の強そうな、しかし決して威圧的ではない夜色の瞳で彼を見やったあと、無言のまま窓際へ移動し、閉まっていたカーテンを開放する。
窓から射した光が、室内を夕焼け色に照らす。
黒髪の若い女性を目で追っていた彼は、いきなりの光に目を射され、まぶしそう目を細めて顔をそむけた。実際、とてもまぶしかった。
「どこか痛むのか?」
いつの間にかベッド脇のイスに腰掛けていた黒髪の若い女性は、そう言って気遣わしげな眼差しを彼に向ける。
それに対して返答しようとした彼は、
「…………」
しかし言葉を失った。
美しかったのだ。間近に居る彼女が。なにより、その夜色の瞳が。
「……?」
なぜか自分を見たとたん動きを止めた彼を、黒髪の若い女性は怪訝そうに見やり、
「なあ、おい、大丈夫か?」
のぞきこむように顔を近づけ、“様子/容体”をうかがう。
吸い込まれるように見とれていた彼は、
「――えっ?」
高い所から落ちたような感覚と共に現実へ引き戻り、
「ああ、うん、だ大丈夫。……たぶん」
そう答えて、けれど再び顔をそむけた。思いのほか近くに彼女の顔があって、それを意識してしまって、どうにも恥ずかしかったのだ。
「……そうか」
安堵と心配が半々な表情で、しかし努めて素っ気なく彼女は言った。
それから彼女は姿勢を正し、夜色の瞳をまっすぐ彼に向け、
「私は、リムティッシュ。ゆえあって、ここ、傭兵戦士団スリンガーで世話になっている。――まあ、いちおう傭兵だ」
威厳と余裕と落ち着きのある凛とした声で、そう名乗った。
だからそれが当然であるように彼も、
「オレは――」
自らを名乗ろうとした。
「オレは……」
だが、
「オレは…………、オレは……、オレは」
名乗れなかった。
「オレは、……誰だ?」
頭の中に確かに存在しているのに、手が届くほど近くに見えているのに、けれど果てしなく遠い――“それ”は、まるで蜃気楼のようだった。
リムティッシュは夜色の瞳を驚きに染めつつ、
「“自分/名前”がわからない、のか?」
慎重に、確かめるように訊いた。
「オレは……、オレは…………」
それでも彼は辛抱強く、あるいは必死に、そこにある“それ/蜃気楼”をつかもうとした。しかし“それ/蜃気楼”は、思わせぶりに手が届くふうを装うだけで、その片りんにすら触れさせてはくれない。
「……どうして」
彼は怯えるように、
「思い出せない……」
両の手で、顔を覆う。
思い出せないことを認識したとたん、彼は耐え難い孤独感に襲われた。それは光の射し込まない樹海に突然ほうりこまれ、そこを当てもなく彷徨っているような、恐怖をともなうモノだった。
「……きっと」
リムティッシュは“それ”を言うべきか逡巡してから、
「大丈夫さ」
しかし、あえて言うことを選んだ。
「“一時的にそうなることがある”と書かれた書物を、以前読んだことがある。あくまでも“一時的”、とな。……だから、そう焦るな」
そう言ってリムティッシュは、幼子を安心させる母親の“それ”と同じように、そっと彼の頭を優しくなでる。“剣/死”を扱う者の手とは思えないほど、その手は細くてしなやかで、なにより他者への温もりを知っていた。
しかし耐え難くは、同時に抗い難く。彼は諦めたように消沈して、
「そうだね」
と儚く微笑む。
リムティッシュは反射的に前向きなことを言おうとして、けれど思い止まる。これ以上“根拠のない無責任な言葉/前向きなこと”を言い連ねても、それでは彼の暗闇を照らせない。
「お前は、東門の道の、旧街道に倒れていたんだ。ここはロートワール国の首都にある、傭兵戦士団スリンガーの拠点を兼ねた、踊るギュートン亭という名の宿屋」
リムティッシュは自らが知る限りの、彼が現在に至るまでの足どりを知らせてみた。
「どうだ? なにか思い当たることはあるか?」
彼は追い詰められたヒトの顔になって、首を横に振る。
「……少し待っていろ」
しばしの思考の末、リムティッシュは言葉以外に“灯り/光源”を求めてみようと考えた。自分の“所持品/装備品”を見るなり触れるなりすれば、あるいは彼にとって得るモノがあるかもしれない。――あってほしい。
彼女は胸の内で“明るいほう”を願いつつ、別室にある彼の“所持品/装備品”を取りに行くため席を立つ。
「――ん?」
ふと視線を感じて、彼女はそちらを見やる。そこには、いまにも泣き出しそうな、独りになることを拒絶する、彼の怯えた表情があった。
「いや、お前の“所持品/装備品”を取りに行くだけなのだが……」
リムティッシュは困ったふうに言って、おとなしく待っていてくれるよう彼を説得するための言葉を探す。まだ容体のはっきりしていない彼を、動かすわけにはいかないのだ。
「…………わかった」
しかしいまの彼を無視できるほどの“冷静さ/冷淡さ”を、彼女は持ち合わせておらず、
「わかったから、そんな眼で私を見ないでくれ」
結局、彼と一緒に別室へ行くという選択をした。
さまざまな装丁の書物が、ところかまわず乱雑に平積みされていた。足の踏み場がない、ということは、けれどなく。ともすれば道のような足の踏み場は、ちゃんとあった。乱雑ではあるが、まったくの考えなしというわけではないらしい。
それが彼の“所持品/装備品”を一時保管してある別室の、リムティッシュの私室の、ウソ偽りないありさまであった。
「なんだ、女の部屋だからって緊張しているのか?」
なぜか扉のところで動きを止めた彼に、リムティッシュはからかう口調で言葉を投げた。
「――え?」
おもしろがっているような微笑みを浮かべて、こちらをのぞきこむリムティッシュの、その表情が近くて、
「あ、いや、その」
思わずドキリとしてしまった彼は、それを誤魔化すように焦って答える。
「書物の多さに、なんか圧倒されちゃって」
女の部屋というよりは、もはや“本の虫の巣穴”と述べたほうが正しい部屋である。彼の“反応/感想”は、決して間違っていない。むしろ、とても素直なモノであると言えた。
「これでも、だいぶ減ったほうなんだがな」
リムティッシュは思い出したふうに苦笑を浮かべて、
「以前、床を貫いてしまったことがあってな。そのとき多くの蔵書を、泣く泣く古書店へ売却したんだ」
語るその言葉には、“惜しむ/悔やむ”気持ちがにじみ出ていた。語ったことで改めて“それ”を再認したのか、彼女はガックリとうなだれ、
「――て、私のことはいいんだ」
しかし速やかに感傷の海から浮上し、話を本題に戻す。
「そんなことより、お前の“所持品/装備品”だ」
言って、リムティッシュは部屋の内部へ三歩進み、
「――ん?」
けれど肝心の彼が、いまだ扉のところから動いていないことに気が付き、
「いつまでそこに突っ立ってい、……る、……ん、……だ?」
同時に、なにやら彼の様子がおかしいことを知る。
彼は、“ある一点”を凝視していた。まばたきを忘れた目で。病に苦しむヒトのような、荒い息遣いで。恐れと哀しみと親しみと拒絶の混在する、“痛む/悼む”ヒトの表情で。
リムティッシュは驚きを抑えつつ、彼の視線を追って“ある一点”を見やった。
果たしてそこには、ひとつの金製の懐中時計があった。簡素な木製の机の上に、平置きされた書物をわきへどけて作られた即席空間に置かれてある。
いまの彼の“状態/情態”から、あるいは“それ”が“灯り/光源”たりうるのではと感じたリムティッシュは、しばし様子を見守ることにした。静かに、そこへ到る道を譲るように身をわきへやる。
彼が懐中時計に意識を向けたのは、まったくの偶然だった。金製の“それ”に反射した夕陽の光が、たまたま目を射したのだ。――まぶしいと感じる間もなく、その“存在”を“意識/認識”した瞬間、彼は胸の内の心臓よりさらに深い部分を、もっともやわらかい部分を、容赦なく矢で射抜かれたような、呼吸が困難になる強烈な苦しみに襲われた。見えない矢で、見えない壁に縫い付けられてしまったかのごとく、身体も硬直して動かない。
いますぐ逃げ出したい。速やかに終わりにしたい。終わりたい。終わらせてほしい。耐え難い現状からの離脱を、終了を、彼は渇望した。だが、それが訪れることは、その兆しすらなかった。
――不意に。固まっていたモノがほぐれるように。
現状の元凶たる懐中時計に、なぜか懐かしさのある親しみを覚えている自分が存在することに彼は気が付いた。拒みたいはずの“それ”に“惹かれる/呼ばれる”ような“感覚/想い”が、確実さを持って徐々に強まってゆく。――彼がそちらへの一歩を踏み出すまでに、さして時は要さなかった。
彼は夢遊病者のような足どりで、そこへ辿り着く。そして懐中時計を間近にして、彼の眼差しは吸い込まれるようにくぎづけとなった。
懐中時計の蓋の部分には、なにか意味があると推察できる“記号/文字”のようなモノと、その“記号/文字”を庇護するかのような片翼が、職人の匠技によって美しく刻まれていた。片翼は“ある物語/ある書物”に登場する“天の御遣い/神の御遣い”の翼が、そのモチーフのようである。
彼は“それ”に触れようと手を伸ばそうとして、そのことに気が付いた。手が、震えていた。まるで“求め”と“拒み”がせめぎあうように、震えていた。
彼は辛抱強く“拒み”を説得し、ついに、けれど恐々と、“それ”に触れる。――そして、手に取る。
とても深いところから、なにか込み上げてくるモノがあった。
なぜだか、視界がくもりはじめた。
「――な」
見守るに徹していたリムティッシュは、突然の事態に驚き戸惑い、
「お前、……泣いているのか?」
なぜか、改めて訊いてしまった。
「へ?」
言われて、彼は確かめるように指で目元に軽く触れ、
「…………どうしてだろう」
そこで初めて、自分が涙を流していると知った。
――が、知ったからといって、急に涙が止まるわけもなく。彼は困惑するヒトの微笑を浮かべて、
「これを見てると、悲しくないのに涙が止まらないや」
どうしよう、と泣き微笑む。
とりあえず落ち着かせようと思ったリムティッシュは、彼をベッドに腰掛けさせ――しかし、そこから先は、いったいどんな顔をしたらいいのかすら、まったくわからなかった。どうにかしたい、してやりたい、と思うのに。もどかしさと、自らの不甲斐無さに、彼女は苛立ちを覚えた。
「すまない。どうしてやることもできなくて」
視界の隅に見えた書物の山に彼女は、奥歯を噛みしめる。
そんなリムティッシュの様子に、はっとして彼は、とても申し訳ない気持ちになった。
「キミが謝ることじゃないよ」
でも涙は、
「自分でもよくわからないんだから」
どうしようもなく流れ続ける。
「しかしっ」
リムティッシュは思わず語気を強めて言って、
「…………」
けれど続くべき言葉が、どんなに探しても頭の中に存在しなかった。
「……“これ”は」
と彼は手にある懐中時計を注視しながら、
「やっぱり、オレの“所持品/装備品”なのかな?」
慎重に、確認するように訊ねた。もうすでに“答え”は見えていたが、外部の視点による保証が、どうしても欲しかったのだ。
「ああ、そうだ」
リムティッシュは、簡潔に告げる。
「そう……」
彼は哀しげに懐中時計を見やり、そして言う。
「頼みたいことが、あるんだ」
「なんだ?」
「“これ”を預かっていてほしいんだ。“これ”を見なければ、たぶん平気だと思うから」
そう言いつつも、その意に反して彼の手は“それ”を放すまいと静かに抗い、
「わかった。責任を持って、預からせてもらおう」
受け取るために差し出されたリムティッシュの手に、“それ”が渡されるまでには、しばしの時を要した。受け渡したあとの彼の手は、とても名残惜しそうに“それ”の“質感/触感”を忘れまいとしていた。
リムティッシュは受け取った懐中時計のチェーンを首に掛け、そして白銀の胸当ての内へと“それ”を納める。金製の懐中時計に付属する、金製のチェーンは、首から掛けるのに充分な長さのある環になっており、なおかつ衣服のポケットにクリップで留められるよう作られてあった。
――無言の間が生まれた。
彼の顔を、リムティッシュは密やかにうかがう。そこには、泣いたあとのヒトの顔があった。けれど、泣いているヒトの顔はなかった。
ふと、目と目が合った。
泣いたあとの潤んだ瞳で、「なに?」と見やり返してくる彼に、
「ん! んん……、いや、なんだ……、その……」
なぜか動揺を覚えてしまったリムティッシュは、それを断ち斬るように、
「そうだっ! 他の、他のはどうだ?」
よくわからない勢いで、そう訊ねた。
「えっ……と……」
どうにか涙の止まった目で室内を見回し、
「…………他って?」
彼は哀しい影のある困り顔になって、訊き返した。
リムティッシュは、自らの配慮のなさに憤りを覚えた。
「……すまん」
詫びの言葉は口にできても、彼のほうを見やることはできなかった。彼女は逃れるように、間を空けず言葉を継ぐ。
「他というのは、これらのことだ」
彼女が示したのは、木製の机の上に置いてある品々であった。丈夫な布で作られた、サイドポーチ。鋼と布を組み合わせた、漆黒の籠手。そしていまは鞘に納まる、打刀。
「悪いと思ったが、なにか身分の判るモノがないか、中身はあらためさせてもらった」
身分を確認するというのは当然の行為ではあるが、しかし当事者に黙って“所持品/装備品”の中身をあらためるというのは、これも当然だが、とても失礼な行為である。あえてそのことを知らせる必要はないが、リムティッシュはその“あえて”を選び、詫びの意を込めた言葉と共に、サイドポーチを差し出した。
彼はそれを受け取りつつ、
「なにかあった?」
若干の期待を込めて、けれどすでにわかりきっていることを訊く。
「……いや」
リムティッシュも、それをわかりつつ、
「応急処置程度の、簡易的な医療道具しかなかった」
あえて、きっぱりと返答した。
「そう……」
気にしてないふうを装って、彼は受け取ったサイドポーチを見やる。確かに中身は、簡易的な医療道具しかない。
「…………」
触れても、見ても、思うところはなにもなかった。
彼はサイドポーチを膝の上へやり、首を横に振る。
たったそれだけの動作は、しかし明確に結果を物語っていた。
リムティッシュは反射的に言わんとした言葉を制して、
「――では、これは?」
と素っ気ないふうを演じ、彼の唯一の防具である漆黒の籠手を差し出す。
サイドポーチと同じく、彼は漆黒の籠手から“自分/内部”を探し出そうとするが、
「…………」
やはり、なにもなかった。強いて思うところがあったとするなら、この籠手はとても使い込まれていて、使い込まれたモノ特有の“味わい/古さ”があるな、という外部からの感想だけだった。
膝の上、サイドポーチの上に、漆黒の籠手を置き、彼は言葉なく、ひとつの結果を明確に表す動作をおこなう。
「――最後は、……これだ」
リムティッシュは“素っ気ない”を演じていられる内に、話を次へ移す。
「お前は、これを抜いた状態で倒れていたんだ」
言葉と共に差し出されたのは、彼の最後の“所持品/装備品”である打刀であった。
自分が扱っていたということに疑念を懐きつつ、彼はそれを受け取る。見た目の印象と違い、打刀にはずっしりとした重量があった。危うく手腕ごと床に落としてしまいそうになったが、どうにか持ちこたえる。
「それは“東の島国ジパング”独特の剣の一種で、“打刀/うちがたな”と呼ばれるモノだな。私はかなりの業物と見受けるが――」
リムティッシュの話しを半分の意識で聞きつつ、彼は打刀の柄に右手を掛ける。柄は、握った拳ふたつ分より少し長い。
次いで彼は“鯉口を切り/左手の親指で鍔を押し、刀を鞘に留めておく役割のはばきという金属部分だけを先に抜いて”、刃を抜きやすくしてから、ひと息で引き抜く。
凛と鋭く冷やかな鞘走る音が、空を斬る。
彼は意図せずして姿勢を正し、打刀を見やる。
若干反りを持たせた、片刃の刀身。刃紋は、乱れなき一筋の境界線を思わせる直刃。刀身の長さは、ピンと伸ばした腕の、肩口から指先ほど。窓から差し込む夕刻の光によって、淡い黄昏色の微光をまとい、妖艶な美しさがある。
その姿に彼は、しばし時を忘れて見入った。
――そして。
ふと、それに気が付いた。
刃に、ヒトの顔らしきモノが映っていた。淡い黄昏色の中に、ぼんやりとした輪郭で映っている。はっきりとはしないが、よくよく見ると、どうやらそれは若い男の顔であるらしいと知れた。覇気のない、気弱そうな、頼りない印象の顔だった。
ひとつの疑問を、彼は覚えた。そのことに気づいてからずっと、その頼りないふうな顔の人物と、目と目が合い続けているのである。
映りこんでいるその顔が“自分であるらしい”と、彼が疑問を解消する発想に至るまでには、短くない時を要した。
まったく実感のともなわない“ひとつの気づき/発想”だった。
事の流れから、彼の意識は“自身”へ向いた。目で見れる範囲内の“自分の姿”を、いまになって初めて見やり、知る。
深緑色の、少し布地の厚い長袖の服。濃紺の、穿き込まれて味のあるジーンズ。黒の、なぜか足に馴染むアサルトブーツ。服には左肩、ジーンズには左太腿のところに、極めて目立たないが繕われたような痕跡があった。
身体は華奢というわけではなく、かといって筋骨隆々というわけでもなく、必要なところに必要な筋肉のある、均整のとれたモノだった。しかしそうであるからこそ、力強そうには見えず、どちらかと言えば弱そうであった。
そんな身なりをしているのが、どうやら“自分であるらしい”と、彼は努めて“認識/意識”した。……けれど、やはり、まったく、実感はともなわない。
「――どうだ?」
リムティッシュは切実に願うヒトの瞳で彼を見やり、訊いた。
彼は“流れる動作”で起きた刃を鞘に納め、首を横に振る。
「……そうか」
眼差しを床に落として、リムティッシュは最後の“素っ気なさ”を演じた。
得るモノはまったくなかった、というわけでは、しかしなかった。彼は“そのこと”に無自覚のようだが、リムティッシュはしっかりと“そのこと”に気が付いていた。打刀の扱い、に関してである。抜刀と納刀の動きを、彼は無駄も迷いもなく“慣れた手つき”でおこなっていたのだ。これは微々たる、けれど確かな彼の“片りん”である。
だが、リムティッシュは思い悩む。いかにして“そのこと”を彼に説明したらよいのか、わからないのだ。“自分”が不確かなのに、その“自分”の“片りん”を自覚しろと、いったいどのような言葉をもちいたら、正しく受け取られる説明ができるのだろう?
難問の答えを求めて、リムティッシュは思考の海に沈む。
そんな彼女の表情が、しかし彼には苦悩するヒトの“それ”に見えた。そして“それ”を浮かべる原因が自分にあるとわかっていたから、とても申し訳ない気持ちになった。胸の奥が、痛い。
膝の上にあるサイドポーチや漆黒の籠手を、ぎうぎうと逡巡するように握ってから、彼は断ち斬るように、
「……そういえば」
と思い出したふうに言った。――思い出したふうに、ではあるが、それは“自分”のことではなく、
「目が覚めたときに――」
最初にご対面した、けれど一言も交わすことなく別れた、小さなヒトについてである。いったい、“誰/何者”なのだろう?
「……ん?」
彼の唐突な思い出しに、
「……アキは、名乗らなかったのか?」
時間差で理解が追い付いたリムティッシュは、床から彼に眼差しを移して、訊く。
彼は首肯して、答える。
「話しをするまえに、どこかへ飛んで行っちゃったから……」
それを聞いたリムティッシュは、穏やかな苦笑を浮かべて、
「アキは少しそそっかしいところがあってな、悪気はないんだ、許してやってくれ」
と詫びを述べてから、
「アキは、私の家族であり親友であり頼もしい相棒でな。身体は小さいが、風神に愛されし小人と称される“フェアリー/小妖精”で、魔術に関しては非常に頼もしい才能を発揮してくれる、とても強い、私の誇るる友だ」
まるで自分の自慢話をするように胸を張って、“家族/親友/相棒”を紹介する。
リムティッシュの表情が明るいモノへと変化したことに、彼は嬉しさにも似た安堵を覚えつつ、憧れるヒトの眼差しで彼女を見やった。誇るべき存在があるということが、“他者/外部”との“絆/繋がり”があるということが、とてもうらやましく思えたのだ。
果たして自分にも、誇るべき“家族/親友/相棒”は存在するのだろうか? 存在していたのだろうか?
「……その」
リムティッシュは戸惑うように視線を泳がせ、
「なんだ……」
頬を微かに朱に染めて、
「……そんなに」
黒の長い髪の毛先を、指先でもじもじといじりながら、
「見つめられると……」
涙を流したあとの潤みの増した瞳で、じぃと見つめてくる彼に、
「……こ、こちょばいのだが」
深刻な問題を扱うヒトの心境で、指摘する。
「――え?」
言われて初めて“そのこと”を意識し――、
「……あ」
とたん、彼は急激に気恥ずかしくなり、
「ご、ごめん」
不審な挙動で視線を逃がし、床に平積みされた書物と書物の間にある闇を凝視する。顔が茹でられたように赤い。
こっ恥ずかしい、ドギマギとした無言の間が生まれる。
ふたりとも心拍数の上昇を抑えようと努めた。そして“お努め”に集中し過ぎて、
「お前ぇ……、弱った男を部屋に連れ込んで“なに”やらかしやがった?」
その登場に、まったく気が付かなかった。
びくぅ! とリムティッシュは身を震わせ――
転瞬、拗ねる子どものような表情になって、
「し、失礼じゃないかっ、女性の部屋にノックもなしに」
と抗議を述べる。
扉のところには、ふたりの人物が居た。
ひとりは、漆黒の鎧に身を包み、黒の眼帯で右眼を隠した、決して善人には見えない顔面をした“おっさん/中年男性”。腰の左右には、それぞれ片手半剣を吊っている。
もうひとりは、よれよれの薄汚れた医師の白衣を着た、不精ヒゲの生えた面の上でメガネをギラつかせている、決して真人間には見えない青年男性。手には、往診に向かう医師が持つような、革製の大きな鞄がある。
「開けっ放しにしてるヤツに、そんなこと言われる筋合いねぇよ」
閉まっていたら扉がある位置で、ノックをする仕種を見せてから、黒の眼帯の男性は言った。
まったくその通りなので、リムティッシュは言葉を返せない。
「アキに呼ばれて来てみりゃあ、部屋に居ねぇ」
黒の眼帯の男性は、批判するヒトの口調で言う。
「――かと思ったらテメェの部屋に“そいつ”を連れ込んでやがる」
ギロリと鋭い眼光を放つ左眼で、彼を見やり、
「あげく、連れ込まれた“そいつ”は泣きっ面」
それからリムティッシュを、責めるヒトの左眼で睨み、
「お前ぇ、“なに”やらかしやがった?」
自白を要求する訊問官のように、容赦のない威圧的な語気で迫る。
「どうして私が“なにか”した前提で言うんだ」
とても心外というふうに、むぅっとした不満顔で、リムティッシュは、
「こういうときは、“なにがあったんだ”とか“どうしたんだ”と訊くべきだろう」
譲れないモノを守るように、発言の訂正を求めた。