【序】第三章:五節 〜手にした平凡な日常〜
ゲヴラーの前には二つ、リムティッシュの前には三つ、アリエスの前には四つ、ヴァーグナー校長の前には一つ、それはそれぞれ置かれていた。
食べられて空っぽになった丼である。
ちなみに、丼のサイズは決して小さくない。
主に来店する傭兵家業の屈強な男達を、一つの丼でお腹いっぱいにするくらいの質と量を誇り、並の女性ならちょっとお残しする一品である。
が、ゲヴラー、リムティッシュ、アリエスの三名は、同じ木卓に着くヴァーグナー校長が一つ食べ終わる間に、二つ、三つ、四つ、と苦もなくたいらげた。三名の身体は決して大きくない、というか引き締まった体付きをしているので、線はどちらかといえば細い部類に属す。特にアリエスは細い線に加えて身長も低い。
食べられた“ギュートン勝つ丼”たちは、いったい身体のどこに消えてしまったのだろうか。
やたらとご飯を食べる人は、食べる事で満たされない心の隙間を埋めようとしている、寂しさで飢えた人だ――と、どこかで聞いた気がするが、まあこの考えは偏見だろうけれども、しかし本当に食べた物はどこにいったんだろう。と、ヴァーグナー校長は、飲食終了直後から眠たそうにウトウトと夢の世界へ船を漕ぎ出して往きそうなゲヴラーと、既に夢の世界へ船旅に出てしまっているアリエスを見つつ、ちょっと真剣に思っていた。やはり人体には不思議がいっぱいである。
「類は友を呼ぶ――という言葉が、二人を見ていたら浮かんできたのだが、何故だろうな」
冷やす為の水で九割薄まった発泡酒で、頬を薄く紅にしたリムティッシュが、微笑ましそうに呟く。そして、
「ゲヴラー、眠いなら無理してないで寝てしまったほうがいいぞ。これからどうするかは、明日にでも話し合えばいいのだし」
眠気に抗い、首をガックンガックンさせているゲヴラーに提案する。
「……うん、そうさせてもらうよ」
気合で眠気を御し、答え、半目になりつつゲヴラーは与えられた部屋へ安眠を求め往こうとする。が、席を立とうと腰を浮かせたら、隣で座り寝をしていたアリエスがこちらへ倒れこんできた。
「おっと」
眠たくともそれくらいの反射神経は働き、ゲヴラーはアリエスを受け止める。
どうやらアリエスは寝てもゲヴラーの服の袖を手放す気がないらしく、その為ゲヴラーに引っ張られる形で倒れそうになったようだ。
はたから見ていると顔面の筋肉が緩む光景である。が、しかしいったいアリエスの右手をそこまで一途な頑固にしている思いとは、なんなのだろう。果たしてそれは本人すらも知りえているか、定かではないが。
ともあれ、困った。
「どうしよう……」
アリエスを支えつつ、ゲヴラーは困ったように眉尻をガックンと下げ困微笑を浮かべる。
「どうしようと言われてもな……」
そんな眼差しで見つめられると、逆に困るのだが、
「キキっ! 空き部屋はあるか?」
リムティッシュは食堂内の喧騒に負けないように声を張り、踊るギュートン亭ではウェイトレス、傭兵戦士団スリンガーでは依頼受付嬢、しかして実際は雑用も含めてこの場におけるほとんどの仕事をこなしている、多忙な娘さん――キキに尋ねる。
「ん? んんー、今日は珍しく満室だよぉっ!」
「本当に珍しいな」
「リムちゃんっ! ボソっと失敬なこと言わないでっ」
スマンと謝りつつ、
「とりあえず、私の部屋に寝かしておこう」
リムティッシュはアリエスの頑固な右手を優しくしかし確実に解き、彼女を俗に言う“お姫さま抱っこ”状態――何故だかとてもカッコよい絵図らに見える――にすると、ゲヴラーと共に階段を上がり往こうとするが、
「あっ! 待ってくださぁいですよぉ〜」
と、引き止める者がいた。
「どうしたんだ? アキ」
帰ってくるなりキキに注文を取る雑用を押し付けられ、いつの間にか姿を消していた振袖姿のフェアリー(小妖精)――アキに、リムティッシュが反応し振り仰ぐ。
「ぬし様ではないのですよぉ〜」
アキはエメラルドグリーンに微発光する翼で飛翔し、ゲヴラーの肩に着地するなり彼の頬をペチリと叩いて――といってもくすぐる程度だが――ちょっと急った風に、
「校長先生に届けるモノがあったですよぉっ!」
大事なことを教えてくれる。
「…………あ」
届け物を渡そうとしたところで、アリエスにボディータックルされるという怒濤の超展開ですっかり忘却していたが、そういえばそうだった。という事を思い出し、
「忘れてしまっていて、すみません。セシルさんから届け物を預かっていたんです」
背負いっぱなしだったバックパックから、手紙の添えられた小包を取り出し、ヴァーヴナー校長に手渡す。
「はい。確かに受け取りました」
受け取った校長は手紙の宛名等を確認し、ゲヴラーに告げた。
ここでやっとゲヴラーは初仕事を終え、本当の意味で、彼の今日という一日は、幕を見るのだった。
窓から月明かりが射し込む、深夜にはまだ余裕のある時間帯である。
この時間帯になると、踊るギュートン亭の食堂から、酒を飲んで呑まれているお客さん達の姿が、徐々に減ってゆく。
別に怪奇現象が発生している訳ではない。
ただ単純に、キキがお客さんを追い返しているのだ。
お店側の者がお客さんを追い返すとは、なかなか客商売ではありえてはいけない光景であるが、しかしこの踊るギュートン亭では、常なる風景であった。決してキキが暴挙に出た訳ではない。
酔いつぶれる前に、道端で寝落ちてしまうという危険な状態になる前に、とっとと寝床に帰りなさい。というのが、この安宿の――というか多忙すぎるウェイトレスなキキの経営方針なのだ。
ちなみに経営方針とかを決定しうる権限を本来持つこの踊るギュートン亭の亭主は、今はこの場に居ない右眼を黒い眼帯で覆った漆黒鎧のオッサン――ゼロなのであるが、彼は開店初日以降接客する場に出ていない――ゼロにとってはちょっとトラウマな出来事があったのだ――ので、実質的に踊るギュートン亭を経営しているのはキキであったりする。
まあゼロは傭兵戦士団スリンガーとして色々御仕事をこなしているので、キキとゼロの二人は、互いに欠落している感のある部分を補い合って、今のこの場所を形作ったと言えようか。
で、大酒をかっ喰らっていた男達が寝床に返され、座れるようになったカウンター席に、ゲヴラーとアリエスを除いた面々の姿があった。
そして、キキが趣味で漬け込んでいる漬物を酒のさかなに、チビチビと蒸留酒をなめていたヴァーグナー校長が、思い出したように、
「手紙の配達と、荷物も運んでいただきまして、私の依頼した事はちゃんと完了しました。というわけで、コレは報酬です。ご本人は眠ってしまいましたので、明日にでも渡しておいていただけますか?」
と、手紙を届けるという依頼をこなしたゲヴラーへの報酬がはいった巾着袋を取り出し、カウンターの内側で明日の為に料理の仕込みをしているキキへ手渡す。
「はいよぉっ、確かに受け取ったよっ。ていうか、ごめんねぇ〜、ゼロが依頼を強要したんでしょう?」
調理で濡れた手をエプロンの隅で拭ってから、キキは巾着袋を受け取り、それを依頼書類等々が保管されている鍵付きの棚へ収納しつつ、己が相方の横暴を詫びた。といっても、ゼロはゲヴラーの為に依頼を強要しに行ったりしたわけでもないで、実際は誰が悪いわけではない――
「いえいえ、事前からゼロに手紙配達を依頼するつもりでしたので」
――ということはヴァーグナー校長にもわかっているし、そもそも本当に手紙配達の依頼は事前から頼むつもりだったので、誰を責めるつもりは元より無かった。
「そういえばですねぇ〜、その依頼でぇ――」
キキの漬物をかじっていたアキが、思い出したように語る。
手紙を届ける途中で、魔物と戦闘になった時のことだ。
「へえ、ゲヴラーはなかなか良いセンスをしているようだな」
話を聞いたリムティッシュが、関心したように声を漏らす。
「ふと思ったんだけどさっ、剣士って記憶失くしても戦えるものなの?」
キキが素直な疑問を、この場ではゲヴラーと同じく刀剣類を扱うリムティッシュに投げる――が、
「剣士だから記憶を失くしていても戦えるとは、さすがに限らないとは思うが、私にもよくわからんな」
彼女は首を傾げる以外に応えを知りえない。
「そういう精神や記憶云々の事柄は、医師や魔術師の領分だと思うが」
リムティッシュは言葉と共に、その領分に居る二人――いまだに皿洗いをやらされている、本来は踊るギュートン亭と傭兵戦士団スリンガーの専属医師と、美味そうにお酒をチビチビ舐めている魔術学校校長――を、問いの眼差しで見やる。
「断言はできませんが、おそらく生きる為に必要な事は憶えているのではないかと思います」
ドラッド医師が返答する。無論、皿洗いは継続中であるが。
「「生きる為に必要な事……?」」
眉を寄せるはリムティッシュとキキである。
「ええ、この世で生きる為に必要な――例えば言葉です。彼は普通に我々と会話できました。しかし言語の記憶を失っていたら、言葉を覚える前の赤子と同じで、我々と話すことは出来ないはずです。言葉は人の世ではなくてなならないコミュニケーションツールですから、コレを欠落させてしまっては、あるいは生きることは困難でしょう? それにもっと極端に言えば、彼は歩いていた――身体を動かすということも、生まれてから習得するものであり記憶のなせる業です。体の動かし方の記憶がなければ、これまた生まれたばかりの赤子同様、まともに動けません。身体を動かせなければ――言うまでもなく生きる事は困難でしょう? 食事を摂ることも、排泄することも――我々の生命活動は記憶の蓄積によってなされています」
ドラッド医師は手を動かしながら得意げに語るが、
「もう少し噛み砕いて喋ってくれないか」
ドラッド医師のくどい言い回しでは伝わり難いようである。
「彼が失くしているのは、彼を彼たらしめる“個性”を形成しうる記憶ではないか、と。身体だけを生かす記憶はある、と言えばいいのでしょうか。彼が、戦わなければ生きてゆけないような状況に身を投じていたとすれば、戦う事が――つまりは剣術を駆使することが、彼の中では生命活動を維持する事と同義であり、個性とは切り離された記憶でありえるわけですから」
「ふぅん……なるほど」
思慮深げにアゴに手なんぞを添えて頷くキキである。どうやら彼女には何がしか納得できたようだ。
「個性を忘れる……、本人も辛いでしょうが、目の前に知りえる者が居るのに、しかしその者はそこに存在しえないという、居るのに存在しないという矛盾――自身の知りえるその者の人物像が、現状では虚像のようになってしまうという感覚に襲われる者もまた、辛いでしょうね」
手の内で蒸留酒の注がれたコップをころがし、酒の表面に小波を作らせながら、ヴァーグナー校長がその小波を眺めつつ誰にでもなく呟いた。
「それは……、鎌っ子ちゃんのこと、かいにゃ?」
キキが尋ねるが、
「…………」
校長は無言で微苦笑を浮かべ、ころがしていたコップの中身を一気にあおる。
「ヴァーグナー氏は、ずいぶんとあの娘さんに情的ですね」
洗った皿を布で拭きながら、ドラッド医師が言う。
「三ヶ月、三ヶ月間も、年端もいかぬ子どもが、隠しきれていない寂しさを隠して、壊れてしまいそうな自分を必死に隠して、気丈な振る舞いをして、ただひたすらにゲヴラー君との再会を信じ続けて探し回る姿を見ていたら、情的になってしまいますよ」
とヴァーグナー校長が言ったところで、そろそろ自室に戻るとリムティッシュが席を立つ。
「私達が勘ぐってみたところで何も解決すまい。詰るところ、当人の問題なのだから――私達に出来るのは、補助の手を差し出すことくらいさ」
喪失への怖さを知りえるがゆえに同情の念を懐き、下手な勘ぐりをしてしまっている自身へ対する、戒めのような言葉を吐いて。
漬物を美味しく味わっていたアキは、階段を上り行く自らのぬし様の背を発見し、慌てて後追い飛翔をする。
「そういえばさっ、ゲヴちゃんってさ、魔術による精神干渉の痕跡があったり、対抗呪文が頭に仕込まれてたりしたんでしょっ?」
自室へ行くリムティッシュとアキに「おやすみ〜」と言ってから、キキはふと思ったことを口走る。
「ええ、そのようですけど」
やっと皿洗いから解放されたドラッド医師が応えた。
「てことはさっ、魔術学校校長がちょいちょいって診たりすれば色々わかったりするんじゃにゃいのっ?」
もっともらしい意見であるが、
「いえ、おそらく無駄であると思います。ゼロの話だと、アキさんがゲヴラー君を診て、しかしあまり成果はなかったと聞いてますから」
「なしてそれだと無駄になるの?」
キキは、髪の毛と同色の赤茶い二叉尻尾をどことなく疑問系の形にして聞き返す。
「アキさんと私では、天才と秀才の違いがあるということですよ」
アキがしてもさした成果を得られず、自身がやっても無駄に終わる、と言うことは、アキが天才で、ヴァーグナー校長が秀才ということか?
どちらにせよ、普通より一つ段の高い所にいる、と言っているように聞こえるが。
「なにー、それは嫌み?」
言うキキは、別に気分を害した風はない。
「嫌みというよりは、事実といいますか。誕生と同時に、呼吸するように、当たり前のように、魔術を扱うフェアリー(小妖精)――彼ら、あるいは彼女らは、我々エルフと同種の妖精族にカテゴライズされていますが、しかし我々とは根本的に違う存在です。我々――妖精族、特にエルフは、ただ単純に老いることが遅く、ゆえに蓄積できる情報量が多い。魔術に必要とされる知識を多く得ることができる。なので我々は他種族よりも魔術が長けているように他の方々には映るだけで、実際は他種族の方々と妖精族のスタートラインは同じです。ただ我々は知ることを継続できる期間が長い、ただそれだけ。しかしフェアリーはスタートラインの立ち位置からして、反則的なまでにフライングしています。彼ら、あるいは彼女らが、不得意だ、としていることですら、我々から見れば十分すぎるほどの事ができていたりするのです。土水火風を司りし精霊に愛されし小人――この言い方は、彼ら彼女らを畏怖する意味もあるのですよ」
一気に喋り、ヴァーグナー校長はコップの蒸留酒をあおる。
正直、なにを言っているのかわかり難い。
「ねぇ校長、酔っ払ってるでしょう?」
若干、キキは呆れた感じで、校長の前に置かれている蒸留酒の一升瓶を取り上げ、
「とっとと帰りなさい」
酔うと少々ひがみっぽくなる魔術学校校長なエルフ族の、その特徴的な尖った耳を引っ張り、息が掛かるほどの近距離から、強制帰還命令を下すのだった。
遠くから、静かな音が聞こえてきた。
それは次第に近く鳴り、それが人の声であると私は気づく。
涼やで凛とした、それでいて、どこか愁いているような音声だった。
意識がハッキリしてゆくのにしたがって、その声が詩を歌っているのだと認識する。
耳触りの良い声が歌う詩だった……
何故だろう、詩の意味とか全然わからないのに、哀しい。
「――すまん。起こしてしまったか」
唐突に、歌っていた声が聞いてきた。
その言葉に、身を起こす。
どうやら私はベッドの上で寝ていたようだ。
声のした方を見ると、そこには、こちらに背を向けて安楽椅子に座り、開け放った窓から月夜の星々を眺めている、黒の長い髪をした人物の後姿があった。
「いえ、別に……、ここは……? ――っあ、ゲヴラーはっ!」
私は自分のいる場所を知るよりも先に、さっきまで隣に居たゲヴラーの姿がない事を知る。
そんな……、やっと、やっと再会できたと思ったのに……。
さっきまで隣にいた彼は……、まさか、今までの事はすべて夢だったなんてこと――
「落ち着け。ゲヴラーなら、自室で寝ているよ。ついでにココは、私の部屋だ」
いつの間にか側に来ていた黒長髪の女性が、私の肩に手を置いて制する。
「どこっ! ねえ、ゲヴラーの部屋はっ」
「だから、落ち着け。いくらなんでも、寝込みへ突撃するのは賛成できないからな」
私をベッドに寝かしつけるように手に力を込める黒長髪の女性――たしか、リムティッシュと言ったか。
私はその力に抗えず、ベッドに押し戻されてしまう。
「明日にでも存分に話し合うといい。だから今は、少しでも寝て明日に備えろ」
いいな? と彼女は、私の額にかかった髪を指先で払うと、そっと頭を撫でてくる。
どうしてだろう、そうされると何故だか次第に心地好い安らぎに包まれ――
眠気が増してきて……
視界が狭まって……
「私がゲヴラーを見つけココへつれて来て、彼を待つこの子が現れて……。今思うと、私が彼を見つけたのが偶然ではなく必然のように思えてくるから、不思議なものだ」
リムティッシュのささやくような声を最後に――
意識が暗転した。