【序】第三章:四節 〜手にした平凡な日常〜
うつむき、
「――造……魔術、ですか。……ヴァーグナー氏ですら、理解しがたいモノ。……あぁ――嗚呼ぁっ!」
伏せた顔面にニンマリと不気味な笑みを浮かべた白衣の男が、ワナワナと沸き起こる欲衝動と抑えきれずに、危ない感情の含まった震える声で呟き、
「あぁ、嗚呼っ! 是非にっ! 是非に隅々までっ! その身体を隅から隅まで調べたいっぃいっ!」
欲望が理性の御する沸点を突破。気持ち悪いくらいに十本の指をワナナカセ、ジワリジワリと「ハァハァ」しながら、クソ医者にして変態――ドラッド医師は好奇心の対象たる一途な心を持つ無垢なる少女へにじり寄る。
変態の眼差しにさらされた無垢なる少女――アリエスは、隣に腰掛ける三ヶ月間再会を待ち続けた人物――ゲヴラーの影へ、まるで小動物が怯えて物影に身を隠すように、ふるふると身震いしながら逃げ込んだ。
やっと再会できたゲヴラーが記憶を失い、自分の事を憶えていない、思い出せない、という事実を知った彼女には、もはや眼帯黒鎧のオッサンたるゼロへ勇猛果敢にも襲い掛かった時の勢いはなく、目前に迫り来る変態メガネに対して斬りかかるという気力は、髪の毛先ほども沸き起こらなかった。
今の彼女は、かけられた言葉に対して事務的に返答するのがやっとな心理状態なのである。
迫り来る変態の暴挙から少女を護れるのは、後に残る者たちなのであるが、ゲヴラーはそもそも自身の事柄でお手上げ状態なのでアテにはならない。
ならば変態にしてクソ医者の変態魂に火を灯してしまったヴァーグナー校長はというと、しかし物事を知ることへのどうしようもない欲求、探求心から来る押さえ切れない衝動というモノに若干の理解があるのか、苦い表情をしながらも、ドラッド医師を止めようという動きはない。
となると、ここはやはり威厳をたたえながらも涼やかな優しさを持つ黒髪黒瞳の女剣士――リムティッシュの出番なのだが、いかんせん現状のドラッド医師が変態すぎて、生理的に近寄ることを拒絶してしまい、行動が遅れ気味。
各々がどうやって変態に対しようかと逡巡している間にも、ドラッド医師は確実にアリエスへ近づくべく「ハァハァ」しながら歩みを進める――
――その進路上に、突如として飛来するモノがあった。
円形で薄い物体。シルエットだけならばコインのようであるが、大きさはコインの数倍はある。それは回転しながら、ドラッド医師の顔面めがけて高速で飛翔し――
「――っ! ぶぇっぼぉっ!」
欲に目がくらんで視野が狭まっていた彼を、いっそ清々しく殴り飛ばす。
「コレっ、ドラちゃんっ!」
ドラちゃんというのは、踊るギュートン亭でウェイトレスという職につくネコマタハーフ(猫亜獣人)の人物――キキが変態クソ医者に付けた呼び名である。
ネーミングセンスはイマイチなキキが、酒に呑まれてセクハラな感じにからんでくるお客さん達をグーパンチで優しくぶん殴り介抱しつつ、
「ドラちゃんっ! 好奇心は猫をも殺すって言葉――知ってる?」
寒気がするくらいに優しい笑顔で、詰問してきた。
キキが投擲したトレーを顔面に喰らい、片膝をつき顔面を押さえて声も無く苦悶する白衣の変態は、痛みでちょっと正気に戻ったらしく、
「好奇心は猫を殺す/Curiosity killed the cat――余計なことに首を突っ込みすぎるのは危険……という意味でしたか? 貴女に言われると、妙な説得力があるように思えますが」
顔面をさすりながら返答する。
「正解――だ・け・どっ!」
ズンズンとこちらへ足を運びながらキキは言い、ドンッ! とドラッド医師の目前に仁王立つと、
「私がドラちゃんに言いたいのはねっ、ことわざじゃなくて、少しは自重しないと近いうちにお役人さん達のお世話になるよ? って事――好奇心を持つのは悪いことじゃないけどね、好奇心に任せて首を伸ばしすぎると、その首はそのままギロチンされちゃうよっ?」
呆れ混じりな冷たい眼差しで見下ろし、あるいは諭すように言葉を投げかけるが、
「用心は猫を殺す/Care killed a cat――という言葉もあることをご存知ですかキキさん?」
顔面をさすっていた手でメガネをクイッと上げ、不敵にギラつかせながら、懲りるという言葉を知らないらしいクソ医者は、目の前にそびえるキキを、口の端を薄く吊り上げ見上げる。
ちなみに“用心は猫を殺す”という言葉の意味は、用心しすぎると猫のような気ままで大胆な行動力を損なう――である。が、変態が大胆な行動力を身に付けたら、それは単純に迷惑なだけだ。
「……はぁ」
額に薄っすら青筋を浮かべ、片眉と頬をピクつかせながら、
「ドラちゃん、皿洗い」
なんの感情もこもっていない平坦な声色で、キキは吐き捨てる。
何故だろう、この瞬間――酒で無駄に騒がしい食堂内の空気が、凍ったようにシンッと静まり返った。
さっきまで食堂内の雰囲気を気にして、品値を半額にしたり豪気に酒までふるまったりしていたキキが、どうしてだろう、もっとも食堂内の雰囲気をぶち壊した感があるのは。
「あの変態野郎よけいなことしやがって……」「くそぉ、どうしてくれるんだ……」「姐さんが前にキレたときは食堂内が血霧に染まったって聞いたぞ……」「どうするんだよ、ゼロさんはいねぇのか」「怒ってる姿もイイなぁ」「嗚呼、あの冷めた眼でオレも叱ってほしい……」などなど、すっかり酔いが醒めたお客さん達が、各々思うところを小声で呟く。
危機感知本能に理性を強制覚醒させられたドラッド医師は、無言で立ち上がり、そして無言のまま、調理場を兼ねているカウンターの向こう側へと姿を消し往く。
どうやら踊るギュートン亭での暗黙の上下関係は、キキがドラッド医師より上らしい。
「……はぁ」
ドラッド医師がカウンターの向こう側へ消え往く姿を、追っていた視線で視認したキキは「疲れたぁ〜」と言うように深い深い溜め息を吐き、
「鎌っ子ちゃん、気持ち悪い思いさせてごめんねぇー。ドラちゃん、根は変態だけど悪いヤツじゃないんだよっぉ。許してあげてくれると嬉しいんだ――けど?」
クルリと反転、今まで置いてけぼりを食らっていた面々へ苦い半笑を浮かべつつ、変態のせいで一番嫌な思いをしたであろう少女へ、うかがうような眼差しと共に謝罪の言葉をのべた。暗に、根が変態でどうしようもないから諦めてくれ、あるいは我慢してくれと言っているようでもあるが。
「別に、気にしてない――です」
アリエスはゲヴラーの影に身を寄せつつも、そう答える。
「そう。それはよかったっ」
ニッと猫みたいな笑顔で、キキは安心したように胸を撫で下ろした。それに合わせるかのように、食堂内の空気も元に戻る。
そして早くもお客さん達はホロ酔いな感じである。が、それは酒によっているというより、キキの笑みに酔っているような風で、ベロンベロンというよりデレデレという感じ。
「なにはともあれ、話に一段落ついたんでしょっ? さあ、さ、メシを喰えっ!」
いつの間に持ってきたんだ、という目にもとまらぬ早業で、キキは一同の木卓へ食事を運ぶ。ちなみにメニューは“ギュートン勝つ丼”という名の、厚く切ったギュートンの肉へ衣をつけ、油でカリッと揚げ、それをだし汁でグラグラ熱し、半熟タマゴで閉じたやつで、名前に“勝つ”という字があるからか勝負事をおこなう前、食べに訪れる者が多いという一品である。ドデカイ丼の影に隠れる――ゲヴラーの影に隠れるアリエスのようだ――小皿には箸休めの漬物があり、なんともコレ最強な丼物だ。
「さあ、召し上がれっ」
言いつつ木卓へドンッ! と、冷やす為の水で九割薄まった発泡酒――そのジョッキを四つ面々の前へ置く。
「腹が減っては戦は出来ぬ、空腹では妙案も浮かばない――か。まあ、できたての内にいただこう」
手を合わせて「いただきます」と律儀に礼をおこなってから、据え置きの箸を手に取り、リムティッシュは“ギュートン勝つ丼”を食し始める。
「それもそうですね」
とヴァーグナー校長も続く。
ああ、なぜだろう。本当に美味いモノは、見た目と匂いだけで、ご飯が食べられそうなのは。他人が食べているモノが、無償に美味しそうに見えるのは。
美味いモノの誘惑には、どんなマイナス思考も敵う術はなく、ゲヴラーもアリエスも、目の前で美味しそうに“ギュートン勝つ丼”を食されて、生唾ゴックン。間を置かずして飲食開始。
いつの世も、どんな状況でも、美味いモノに対する食欲は強大な力を秘めているようだ。