【序】第三章:一節 〜手にした平凡な日常〜
――罰――
憶えていない、
忘れたいのかもしれない
第三章 〜手にした平凡な日常〜
遠くから呼ばれているような、曖昧な感覚に引き寄せられ、
「……んっ……っ」
薄く目を開く。
光景は、ひどくぼやけていてハッキリしない。
聞こえる音は、喜怒哀楽さまざまな人の声や、木材が軋むような音や、なにかごちゃ混ぜにしたような嫌悪感を懐くほどの雑音だった。その中にあって、細く小さく儚く自分の名前を呼ぶ声だけは、不思議とハッキリ認識できる。
次第に、視覚は古びた木造天井を映していき、聴覚は周りの喧騒を聞き分けてゆく。さまざまな感覚がハッキリしていくのにしたがって、後頭部の辺りにジワリジワリと、そして急激に強烈に、痛みを感じた。
「っ!」
思わず身もだえしそうになるが、なぜか身体は自由に動かない。というか、なにか腹部の辺りを圧迫されているような……、なにかが乗っているような……
「ゲヴラー、大丈夫か? 物凄い音がしたが」
古びた木造の天井を映していた視界に、流れ落ちる長い黒髪を片手で押さえながら腰をかがめてこちらの様子を心配そうにうかがう女性の姿が映りこんだ。リムティッシュである。
「……うん、大丈夫。だと思う。ズキズキするけど」
ゲヴラーの顔面には、苦微笑が浮かぶ。
「しかしまあ、こういうのも一途な思いというのか……」
言葉と共に、困ったような表情を浮かべたリムティッシュの眼差しが、ゲヴラーの腹部へと――その上に乗っかるモノへと移った。
ズキズキ感を後頭部に感じつつ、ゲヴラーもその視線を追って少し半身を起こし――といっても、ほとんど首しか動いていないが――そして、腹部を圧迫している原因とご対面をはたす。
そこに居たのは、円卓の椅子に座り、ヴァーグナー校長、リムティッシュと共に何やら話し込んでいた、魔術学校の女子生徒さんと思われるローブを羽織った黒に近い紫の長髪の人物だった。しかもその表情は、とめどなく流れる涙と鼻水とでボロボロだ。
「やっと、やっとまた会えた。ず、ずっと、ずっとずっと待ってたんだよ、ゲヴラー」
だが、嗚咽交じりに言葉を紡ぐ、喜ばしそうに責めるような眼差しの表情は、どこか華やいでいた。
が、しかし、
「……? キミはいったい――」
その表情はすぐに凍りつく事になる。
「――キミは、キミは誰だい?」
再会を待ち望んだ、彼の言葉によって。
「――――……、へ?」
結果とは、必ずしも望んだカタチであるとは限らない。
しかし、望もうと、望まざるとに関わらず――
――結果とは常にそこにあるモノである。
それを運命として、
受け入れる者もいれば、
それに抗う者もいる。
見上げた空は、灰色の雲におおわれていた。
こんな空の日は、時間の感覚がハッキリせず、どこか損をした気分になる事がある。
湿っぽい匂いの風が頬を撫できた。この風は、なんとなく嫌いではない。
だが大抵、こんな風の日は雨が降る。
雨の日は、好きじゃない。だが、何故と訊かれても、答えは思い当たらない。ただ、嫌いなのだ。雨の日が。
「はぁ……」
溜め息と共に、紫煙が空へ昇ってゆく。
紅一点、紫煙の素がくゆるのは、一本の老木がその頂点に鎮座する小高い丘の上である。この老木は『サクラの木』というらしい。
「花が咲いているところなんて、見たことないけど」
老木に背をあずけ、曇る空を見上げながら、くわえた煙草をくゆらせつつ、小柄な身体に漆黒の燕尾服を着た人物はボソリと呟いた。
「操り糸の切れた人形へは、追悼花は咲かせるに価しないって言いたいのかねぇ」
小柄な燕尾服は、鎮座する老木に語りながら、眼下に広がる光景を見下ろす。
その視線の先には、何も無い。
いや、よく見れば、一つだけモノがある。
それは、一見すると土塊に見間違えてしまいそうな程に朽ちた石碑だった。
何か文字が刻まれているようではあるが、汚れや破損が目立つそれを読み取ることは難しい。
果たしてどれほどの者が、コレを墓標であると認識するだろうか。
そしてなにより、この墓標を作った人物を誰が知りえるだろうか。
「ま、花が咲かないのは気候が合わないからだろうけど。それで――、いつまでそこに突っ立てるつもりだい?」
小柄な燕尾服は、墓標に――いや、首を若干動かし背後に視線をやって、言葉を投げた。
「上への報告を終了した。ロートワール国首都に潜伏している“蛇を喰らう者達”の活動状況、武装の状態、人員規模、先の調査で得た報告する必要のある情報は全て」
言いながら、老木の影から姿を現したのは、なかなか巨大な老木にも勝るとも劣らない大柄な人物だった。まさに巨漢といえるその身を包むのは、しかし小柄な人物と同じデザインの燕尾服である。
「そう。で、今後の私達はどうなるって?」
小柄な燕尾服は、肺に紫煙をたっぷり吸い込んでから、どうでもよさそうな半目で問う。
「ザ・メディックの直下に配属されるそうだ」
「ザ・メディック――マゾヒストのアムリタ・シュヴェルトライテ、ねぇ……。“彼”の屍体を確認したのが、ザ・メディックだったと聞いているが、しかし“彼”の生存はこの眼で確認済み……、願わくばザ・メディックご本人にこの矛盾を訊いてみたいところだが――まっ、“パトリオット”にとっての“彼”には、このまま永眠しておいていただく事にしよう。その方が都合のいいヒトも居るようだし、私にとっても当分の間は好ましい。それにしても、ザ・メディックの直下に配属とは――死ぬ心配は無くなるが、つまりは最前線に行け。と、そういう事か」
小柄燕尾服は、口の片端を吊り上げて、ニタリとする。
「ザ・マンは、よく勘が働くよねぇ」
「しかし、いいのか? 最前線にまわされては“彼”の動きを把握できない。ひいては、再び接触する機会が――」
「いや」
と、巨漢な燕尾服が言うのを遮り、振り返った小柄燕尾服は困った風もなく言う。
「裏切り者は、“彼”だけじゃあないからねえ。確かもう一人が“蛇を喰らう者達”と行動を共にしていたはず――あるいは、“彼”よりも色々知っているかもしれない。急がば回れ、というやつさ。今は状況に合わせて動いた方が、手っ取り早い。結果が望むカタチになるのなら、過程なんて問題じゃあない」
「そうか。問題がないなら、いい」
言うと、巨漢な燕尾服は小柄な燕尾服の隣に並ぶ。どうにもこの二人が並ぶと、小柄な方はより小さく、そして巨漢な方はより大きく見える。なんというか凸凹コンビというより、父親と子供という感じだ。が、子どもっぽさの欠片もない小柄な燕尾服は、
「それにしても、鬱陶しいなぁ」
父親らしさなんて元々無い巨漢な燕尾服に向かって言う。
「ずいぶん前からだな」
いきなり鬱陶しいと言われたことに、しかし巨漢燕尾服は変わらぬ表情で応える。
「“ジパング皇女人質銃火器密輸事件”があって以来、アメル合衆国国内では常に」
紫煙を溜め息と共に吐き出しつつ、小柄な燕尾服は老木に背を向けて歩みだす。巨漢もその後に続く。
「まあ、察しが良いのは尊敬に値するけど。せめてもう少し巧く監視してほしいものだよねぇ、気配が鬱陶しくてしょうがない」
「あれは……?」
「さぁてね。まあ、見ているだけしかできない連中であることには、違いない」
途中、朽ちた石碑の横を通り抜ける際、小柄な燕尾服はまだそんなに吸っていない煙草を石碑に向かって捨て飛ばした。
名も無き者達に――
――墓標はない。
石碑の前にポトリと落ちた火の灯ったままの煙草は、煙を上げている。
真の英雄達には――
――墓標がない。
「さようなら、同胞諸君」
小柄な燕尾服は歩んでゆく。
自ら見定めた道を。
煙草の火は二人が去った後も、石碑の前で灯り続けていた。