【序】第零章:零節 〜忘却の地より〜
[Farce of the Creators]
第一部【序:管理された世界の】
┗【世界をほんろうする神々の悪意から解放を】
統一された言語をもちいてもなお言の葉は不完全であり、個を証明するには至らない。
だが、それがゆえに温もりを感じる喜びは、何にも代え難い尊いモノでありうる。
――無――
いずれ真実がわれわれを自由にしてくれるだろう。
しかし、自由は冷たく、うつろで、人をおびえさせる。
嘘はしばしば暖かく、美しい。
ジョージ・R・R・マーティン著
「龍と十字架の道(風見潤訳)」に収録「サンドキングス」より抜粋
第零章 〜忘却の地より〜
砂嵐が残虐に吹き荒び、命の生存を拒む、その場所に――
忘れ去られた遺跡を思わせる、石造建築の、古びた聖堂があった。
死が隣人たるこの場所において、そのおごそかなたたずまいは、見やる者に“ひとつの希望”を懐かせる。
砂嵐の残虐さが支配する外部とは対照的に、聖堂の内部は静寂さに支配されていた。奥行きのある閉塞的な聖堂内にあるのは、忘却され使われないトンネルとも似た、恐怖とも畏怖とも畏敬とも似たモノを懐かせる、異様な静寂さだった。
聖堂の縦軸をなす身廊には、正面の祭壇に向かって木製の長椅子が並べられていた。床の大理石は鏡のように磨かれており、そこに真逆の世界を映し出している。
区別する境界線のような数段高くとられた内陣に、祭壇はあった。そしてそこには――
ひとりの、美しい女性が祀られていた。
絹のように滑らかな乳白色の肌を、しかし隠すべき衣服はない。だがその艶かしい身体は、直視するにはあまりにも痛々しかった。
聖堂の端々から伸びた粗暴な鎖が、その細くしなやかな肢体をまるで十字架のような姿に拘束している。――そして、芸術家が究極を求めて造形したような、奇跡的な曲線美を描く乳房の間に、なんら容赦なく存在する、一振りの剣。
皮膚を裂き、肉を破り、心臓を貫き、その剣は切っ先を彼女の背から覗かせていた。
そんな凄惨な姿でありながら、しかし彼女は一滴たりとも血を流してはいなかった。
この光景に哀美を懐いてしまうのは、なぜだろうか。
祭壇の背後、聖堂のもっとも奥まったところに、大きな光の壁があった。それは言葉ではなく絵で“ある物語”を伝えるために造られた、色彩様々なガラスを組み合わせて造られた、大きな装飾窓だった。
大きな装飾窓から射す光は、聖堂の内部を照らし、そして影を生む。
影は祭壇の女性の美しさと痛々しさを、より幻想的に演出した。
――彼女の影の内側、祭壇の前に、もうひとつヒトのカタチをした影があった。
それは影と区別できないほど黒尽くめな、ひとりの人物そのモノだった。
足元まである、黒のフード付きロングコート。黒のブーツ。黒の革手袋。そして目元を覆い隠す、黒の目隠し。身を隠す役割のモノはすべて、黒。――徹底したそれは、まるで“光”との決別を“表明/体現”しているようであった。
けれどそれとは対照的に、背中にたらしてある長い髪は白かった。光のような、空白のような、絶対的な、純粋な、白。――しかし黒尽くめな身なりの中にあってその白は、ある種の異様さという存在感を持ってそこにあった。
――不意に。
この場を支配する静寂が、聖堂の木製扉を開け放つ音によって破られた。
唸る砂塵と射光と共に外部から闖入してきた影が、大理石の床を這うように動く。足音が、高い天井にこだまする。
なにか意を持って歩み行くその闖入者もまた、黒尽くめだった。ロングコートに付いたフードを被っているので、さらに黒い。――と、闖入者は軽く両の手を振り下ろした。その次瞬、コートの袖から銀色のモノが滑り出てきて、静かに両の手の内へ納まった。
それは近年実用化された、引き金を引くだけで連続射撃が可能な“半自動拳銃”だった。手の平に隠れるほどの大きさで、あるいは子どもの手による殺傷をも容易にしかねない最新の兵器である。
銃が手に握られてから四歩目の足音と同時に、乾いた発破音が聖堂内に響いた。
乱暴に鼓膜を叩き、響く。
立て続けに、暴力は響く。
それは容赦なく、祭壇の前にたたずむ黒の人物を狙っていた。
――唐突に。
暴力は残響の尾を残し――、止む。
合わせるかのように、聖堂の扉が勢いよく閉まった。
大理石の床に真鍮製の空薬莢が跳ねる軽い音だけが――最後に、聖堂内に響いた。
呼吸音が聞こえそうな静寂が、聖堂の内部を再び支配する。
祭壇の前にたたずむ黒の人物は、ゆっくりと振り返り、
「しばらくぶりだね、ケセド」
目前で不可解に空中停止している弾丸は気にも留めず、親しい友人と話す口調で言う。少年のような、けれど枯れた老人のようでもある声の色だった。
ケセドと呼ばれた闖入者は、
「なぜ、なぜ“あのようなこと”をしたのです。ケテル」
静かな怒気と愁いを秘めた、聖母のような澄んだ声音で問うた。
「その名は捨てたんだ。いまはエノクと名乗っている。まあ、名を名乗る機会なんてないのだけれどね」
自嘲めいた微笑を口元に浮かべて黒の人物、エノクは応えた。
「答えなさい。なぜ同志を――、ゲヴラーを殺したのです」
ケセドは右手を突き出し、死を生む暗闇なる銃口をエノクへ向ける。
「…………死んだ、のか?」
意外なことを聞いたふうに、エノクは呆けて答えた。
「なにを!」
瞬間、ケセドの銃を持つ手に力がこもり、ちょっとした衝撃を与えるだけで撃鉄が下りてしまうなほど引き金が絞られた。
「わからないんだ。なぜ“そんなこと”になったのか。そして“これから”どうなるのか」
そんなエノクの言葉に、ケテルは怪訝そうな表情を見せ、
「あなたは、なにを言って――」
抗議する口調で言おうとして、けれど、
「あなたは、なにを知っているのです」
なにかを“悟った/察した”ふうに、そう問うた。そして手から力を抜き、銃口をエノクから外す。
しかしエノクは諦めたヒトのように横に首を振り、
「――でも」
と転じて穏やかで嬉しそうな声色で述べた。
「ひとつだけ、わかったことがある」
「なにを、です?」
「未来が見えないというのは、――自由でいいね」