北辛夷
「おい、行くぞっ!」
土方さんが玄関でそう言うと、鉄之助君が家の中から走って行った。
「はいっ! 今行きますっ!」
「ち、ちょっと、鉄之助君っ!」
走って玄関へ行く鉄之助君を私も追いかける。
「置いていかねぇから、そんなに走るな。怪我するぞ」
「大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないでしょう」
玄関でやっと鉄之助君に追いついた。
「お前、外套を持って何してんだ?」
私を見た土方さんがそう言った。
「今日は寒いから、鉄之助君に外套を着せようと思っていたら、土方さんの声が聞こえたら急に走り出すから追いかけていたのですよ」
「蒼良さん、大丈夫ですよ。もう三月だし」
最近の鉄之助君は、蒼良先生と言わなくなった。
何か心境の変化でもあったのかな?
「三月でも、箱館は寒いの。今日なんか朝から曇っていて寒いじゃないの。これ、着て行った方がいいよ」
「私は、大丈夫です」
鉄之助君はそう言いながらブーツに足を通す。
「せっかくこいつが持ってきたんだから、着て行け」
土方さんがそう言うと、
「わかりました、着て行きます」
と、鉄之助君は素直にそう言った。
私の言う事は聞かないけれど、土方さんの言う事は聞くって、どういうこと?
「じゃあ、行って来る」
「行ってきます」
土方さんと鉄之助君が玄関を出た。
「行ってらっしゃい」
玄関を出た二人を外まで出て見送る。
二人の姿が角に曲がって見えなくなるまで見送った。
実は、見えなくなる直前に、鉄之助君がチラッと私の方を振り返って手を振ってくれるのだ。
私も鉄之助君に負けないぐらい大きく手を振った。
「あいつ、変わったよな」
気がついたら、横に原田さんがいたからびっくりした。
「い、いつからここに?」
「ずうっといたが」
そ、そうだったんだ。
「で、誰が変わったのですか?」
そんな話をしていたよね?
「鉄之助だよ。あんな子供らしい表情をするようになるとはな。鉄之助に必要だったのは、家族だったのかな」
「家族ですか?」
「今の俺たちがのいる環境が、鉄之助にとっては家族と一緒にいるような感じなんだろう」
そうなのか?
家族かどうかと言われるとわからないけれど、でも、今の環境が居心地いいのは間違いないと思う。
だって、私も居心地いいと思うから。
「俺たちも中に入ろう。今日は寒いから外にいると冷えるぞ」
そうだ、今日は寒かったんだ。
そう思ったら、急に寒くなってきた。
「中に入りましょう」
私たちは家の中に入った。
台所の隣にある板間では、沖田さんと島田さんが朝食を食べていた。
「今日は寒いみたいだね」
沖田さんがご飯を食べながらそう言った。
「それなら、私がお汁粉でも作りましょうか?」
島田さんが笑顔でそう言ってくれたのだけれど、
「いや、お汁粉はいいよ。そう言う気分じゃないし」
「お汁粉を食べたいと思うほど寒くもないですから、大丈夫ですよ」
と、私と沖田さんは急いで断った。
というのも、島田さんは甘党で、お汁粉を作らせると糸を引くぐらい砂糖を入れて甘いお汁粉を作るのだ。
最初見た時は驚いた。
だって、お汁粉が糸をひいているんだもん。
でも、私も甘い物が好きだからと言う事で、軽い気持ちで口にいれたら、二口目を口に入れることが出来なかった。
それを見ていた沖田さんは、口に入れることなくお汁粉を置き、
「お腹いっぱいなので」
と、笑顔で島田さんにそう言っていた。
「そうですか」
ちょっと残念そうな顔で島田さんがそう言った。
すみません、島田さんのお汁粉、甘すぎるので食べれないのですよ。
でも、そんなことは言えないので、
「また今度、お願いします」
と、私は笑顔でそう言った。
「本当に今度作ってきたら、どうするんだ?」
各部屋を掃除しながら原田さんがそう言ってきた。
出かける人たちが家を出ると、私たちは掃除を始めた。
いつも原田さんが手伝ってくれるし、たまに家にいる人たちも手伝ってくれる。
「そ、その時はその時に考えます」
島田さんがお汁粉を作ることがないように、祈るしかないか?
そんなことを思いながら別な部屋に行くと、まだ布団が敷いてあった。
誰か、敷きっぱなしで出かけたのか?
でも、この部屋は空き部屋だったよな?
「布団ぐらいたたんで行けってえんだ」
原田さんがそう言いながら掛け布団をはがすと、なんとお師匠様が眠っていた。
「えっ、お師匠様?」
「誰じゃ、眠りの邪魔をしたのは」
「お師匠様、もう日はとっくに登っています。いつ来たのかわかりませんが、さっさと布団から出てください。掃除をしますので」
本当に、いつの間に来たんだ?
「冷たいのう」
「なんとでも言ってください」
掃除したいから、早く出てくれっ!
「わかった」
トボトボと部屋を出て行くお師匠様。
「あ、そうじゃ。しばらくわしもここにいるから、頼んだぞ」
部屋を出る直前にお師匠様がそう言った。
「えっ、ここにですか?」
「そうじゃ。居心地がいいからのう」
そ、そうなのか?
「現代に帰らないのですか?」
「もう帰っている場合じゃないじゃろう。春も近くなってきたしのう」
そう言いながら、今度こそお師匠様は部屋を出て行った。
春が近くなってきた、戦が近くなってきたと言う事だろう。
「わしの飯がないぞ」
「あ、お師匠様がいるとは思わなかったので、用意していませんでした。今日の夜から用意しますね」
「そうなのか。仕方ない、食べてくる」
今度こそ、トボトボと出て行った。
「いいのか、蒼良」
「大丈夫ですよ。外にも食べるところがたくさんありますからね」
「蒼良もなんか変に強くなったよな」
そ、そうなのか?
この日も一日、何事もなく終わった。
部屋に戻ると、土方さんが文机に向かっていた。
私は土方さんの背中に羽織をかけた。
土方さんの肩がビクッと動いた。
「戻ってきていたのか?」
気がつかなかったのか?
「さっき部屋に入ってきたのですが、気がつかなかったのですか?」
「考え事をしていた」
そ、そうだったのか。
私が入ってきたことも気がつかないぐらいの考えことって、深刻なことなのか?
私がそう思って土方さんを見ていると、土方さんは私の方に体を向けて座りなおした。
「お前に頼みがある」
改まってそう言われると、なんか不安になってしまう。
頼みって、何だろう?
まさか、別れようとか、ここから出てってくれとか、そんな頼みじゃないよね?
「玉置良蔵って知っているか?」
知っている。
確か、鉄之助君たちと同じぐらいの年齢で、一緒の時期に入ってきた隊士だった。
鉄之助君と同じく年齢が低いから、土方さんの小姓として働いていた。
私たちと一緒に箱館まで来たのだけれど、労咳になってしまい、今は休養している。
私がうなずくと土方さんも小さくうなずいた。
「良蔵は、箱館病院にいる」
「そんなに悪いのですか?」
「長くねぇらしい」
そうなんだ……。
「鉄之助君と同じぐらいの年ですよね?」
「一つ下だ」
わ、若い。
それなのに、労咳で先がないって……。
あまりに早すぎないか?
「良蔵をこの家に引き取って、ここで看取りたいと考えているんだが、いいか?」
あ、もしかして頼みってこの事だったのか?
「いいですよ」
そんなことなら御安い御用だ。
「ずいぶんあっさりと返事をしたな」
「私は、土方さんが別れ話でもするんじゃないかと思っていたので、違う話しでホッとしていたのですよ」
「別れ話なんてするわけねぇだろうが。ここまでついてきたお前を簡単に手放せねぇよ」
土方さんのその言葉を聞いてさらにホッとした。
「で、本当にいいのか? ほとんどお前が面倒を見ることになる。お前に大変な思いをさせることになるが、それでもいいか?」
「本当にいいのか? って、もう土方さんの心の中は決まっているのですよね。それなら私はそれに従います。それに、大変な思いは今までもたくさんしてきましたから大丈夫ですよ」
「確かに、俺はお前に苦労をかけてばかりいるよな」
「急に何を言い出すのですか? 私も土方さんに苦労をかけているのでお互い様ですよ」
女だとばれないように土方さんと生活してきた。
その中で土方さんは、私に対してたくさん苦労してきたと思う。
「そう言われるとそうだよな。ったく、お前に対していらない苦労をたくさんしたと思うぞ」
そう言われると、さらに申し訳なくなってくるじゃないかっ!
「で、話は戻すが、本当にいいのか?」
良蔵君の話に戻ったらしい。
「ここなら鉄之助君もいるし、良蔵君も寂しい思いはしなくていいから、私も良蔵君がここに来ることに賛成です」
私がそう言うと、土方さんの手が私の頭にのってなでられた。
「ありがとな」
と言う事で、良蔵君もここに来ることになったのだった。
家の中でいちばん日当たりのいい部屋が良蔵君の部屋になった。
良蔵君がこの家に来て一番最初に言った言葉が、
「えっ、蒼良先生?」
だった。
ちゃんと女の格好をしている私を見て、驚いたのだろう。
「鉄之助から女だって聞かされていたし、土方先生からもそう言われていたのですが、どうしても信じられなくて」
そりゃそうだよね。
今まで、ほとんどの人がそう言っているもん。
「でも、こうやって見ると、どこをどう見ても女の人ですよね」
と、痩せた顔でニッコリと笑っていた。
「おかゆを持ってきました。入りますよ」
声をかけて襖を開けると、良蔵君が寝ている布団の横に沖田さんがいた。
「食欲がないだろうけど、ここは少しでも口に入れたほうがいいよ」
沖田さんが良蔵君が起き上がるのを手伝い、背中を支えていた。
沖田さんが、人の面倒を見ているぞ。
「なに、蒼良。珍しいものを見る目をしているけど」
そ、そんな目をしていたか?
「そんなことないですよ。良蔵君、おかゆ食べる?」
良蔵君は赤みのない顔でうなずいた。
この家に良蔵君を迎え入れた時、あまりの変わりように驚いた。
体は痩せ細っているし、顔や肌の色から赤みが消えて白く透けるような色になっていた。
労咳って、末期になるとこんなふうになってしまうんだと思った。
労咳の最初は風邪のような症状だと聞いたことがある。
そして末期になってくると、吐く血の量も増えてくるという話しも聞いた。
確かに、労咳は血を吐くから、体から血の気も無くなるだろう。
あまりの体の白さを目にし、最初は何も言えなかった。
でも、いつまでも驚いているだけでは看病が出来ないから、すぐに頭の隅に追いやった。
「いただきます」
良蔵君は痩せた手でお椀とさじを持ち、おかゆを口に入れた。
「美味しいです」
と言って、ニコッと笑ってくれた。
「私が作ったから美味しいに決まっていますっ!」
胸を張って冗談を言う私に、
「自分が作ったって言っているけど、かまどに火を入れることが出来ないから、いつも誰かが手伝っているんだけどね」
と、沖田さんが言った。
「沖田さん、それは言わないでくださいよ」
「だって、本当の事じゃん」
そんな私たちのやり取りを見て、良蔵君は静かに笑っていた。
おかゆの入った器をもって部屋を出ると、沖田さんも一緒に出てきた。
「食べる量が減ってきているね」
器の中身を見た沖田さんがそう言った。
「そうですね。日に日に残す量が増えてきているような気がしますね」
労咳の末期の方になると、菌が腸や脊髄の方に転移をしていく。
良蔵君の場合は腸の方に転移をしていると思う。
だから、栄養も取り入れることが出来ず痩せてきてしまっているのだろう。
ここまでわかっているのに、何もすることが出来ない自分が少し悔しい。
「最近、良蔵を見ていると、なんで天野先生は僕を助けたんだろうって思うんだ」
器をもって廊下を歩いている私に、沖田さんがそう言った。
「僕も、蒼良たちに出会わなかったらああなっていた。僕の場合は、蝦夷まで来なかったかもしれないね。江戸で死んでいたかな?」
なんでそこまでわかっちゃうんだろう。
歴史では、沖田さんは近藤さんの処刑後に江戸で亡くなっている。
「たまたま、僕が先に労咳になったから、僕が助かったのかな? 良蔵が先だったら、良蔵が先に助かっていたかもね」
先とか、後とか、そんなことは関係ないと思う。
「そんなことを考えるとは沖田らしくないな」
スッと歩いていた廊下の隣にあった襖があいて、そこからお師匠様があらわれたからすごい驚いた。
驚きすぎて、器を落とすところだった。
「お師匠様、登場するときはひと声かけてくださいっ!」
「一応声かけたじゃろう」
いや、突然出て来ただろうっ!
「今は、蒼良の事より沖田のことだ。なんでわしが沖田を助けたか」
「なんでですか?」
沖田さんがお師匠様に食いつくように迫っていった。
「わしが沖田を死なせたくなかったからじゃ」
一瞬、シーンとなった。
そ、そんな理由でいいのか?
もっと、ちゃんとした理由を言った方がいいと思うのだけど。「それだけ?」
沖田さんがそう言うと、
「それだけじゃ」
と、お師匠様が言った。
ほ、本当にこれでいいのか?
それから色々言えの仕事をし、それがひと段落してから沖田さんを探した。
さっきの話のことが気になったからだ。
あんなことを言いだす沖田さんは、らしくない。
そこにお師匠様があまり為にならない一言を言い放ったから、余計に気になる。
家じゅう探しまくり、沖田さんを見つけた。
沖田さんは縁側で日向ぼっこをするような感じで座っていた。
一人で座り込んで考え込んでいる感じだったから、声をかけずに私もそおっと隣に座った。
「ねぇ蒼良。なんで僕だったんだろうね?」
私が隣に座ったことを察していたのだろう。
座ったと同時にそう聞かれた。
「あのですね、沖田さんが労咳になって亡くなることは、私の時代では有名な話なのですよ」
沖田さんは私が未来から来たことを知っているから、正直に話した。
「だから、お師匠様も私も、この時代に来て沖田さんの病気のことを一番に気になっていたのですよ。労咳にさせないようにお師匠様はお師匠様なりに気を使っていたと思いますし、私も私なりに気を使っていました」
だから、牛の肝とか訳の分からない食べ物を食べさせてたりしていたし、私も、沖田さんのお姉さんから労咳に効くと言われる訳の分からないものを食べさせようとした。
「それは分かっていたよ。色々食べさせられそうになったからね」
「私もお師匠様も、沖田さんだけは助けたかったのです」
「じゃあ、良蔵が労咳で亡くなることが有名な話だったら、やっぱり良蔵を助けていた?」
そ、それはどうなんだろう?
やっぱり助けていた?いや……。
私は首を振った。
「それでも、沖田さんを助けていました」
沖田さんの方が先だったからとか関係ない。
この時代に来て考えていたのは、沖田さんをどうやって労咳にさせないかと言う事だった。
ずうっと、私の中では沖田さんと言えば労咳だったのだ。
だから、沖田さんの労咳が治った時は、この時代に来た目的の半分ぐらいは達成できたような感じがするぐらい嬉しかった。
良蔵君には本当に申し訳ないけれど、私はどんな状況でも沖田さんを選んでいたとおもう。
良蔵君、本当に、ごめんね。
「蒼良、ごめん。辛い思いさせちゃったね」
良蔵君に申し訳ないという気持ちがたくさんあふれ、それが涙になって出ていた。
「蒼良から、僕を選ぶという言葉が聞きたかっただけなんだ。それなのに、良蔵と僕を天秤にかけさせて、蒼良に嫌な思いをさせちゃったね」
沖田さんはそう言うと、自分の肩に私の頭を乗せるために私を引き寄せた。
「ごめん」
そして、私が泣き止むまで何回もそう言っていた。
私が落ち着くと、沖田さんは
「僕は、この助かった命を大切にして生きないといけないと改めて思ったよ。労咳で亡くなった人たちの分も、良蔵の分も。今の良蔵を見るのは、正直つらい。だって、僕が本当に進むべき道だったのだから。でも、そこから目をそらしてもいけないと思う」
と、ここまで前を見て一気に言うと、今度は私の顔を見た。
「僕は、生きるから。これからを生きるために、ちゃんと良蔵を看取ろうと思っているから」
そう言う沖田さんを見て、私は安心した。
沖田さんは大丈夫だ。
一方で良蔵君は、日に日に弱っていた。
鉄之助君が時間があると良蔵君の部屋に顔を出していた。
同じ時期に入隊した仲間だからだろう。
そして、鉄之助君と一緒に銀之助君も一緒に顔を出すようになった。
銀之助君は、名前を田村銀之助といい、鉄之助君や良蔵君と同じ時期に新選組に入ってきた。
やっぱり年も同じぐらいだったので、銀之助君と同じく小姓として働いていた。
今は、榎本さんの小姓となり、そこから修学のためフランス人の先生や通詞の人の所で勉強している。
この二人が来ると、良蔵君も楽しそうでいつも笑顔でいる。
でも、穏やかな日々は長く続かなかった。
そんなある日、庭に植えてある木に白い花が咲いていた。
「庭の木に花が咲いていますよっ!」
箱館に来て、初めて花を見たかもしれない。
しかも、その花が自分の家の庭で咲いている。
「北辛夷というらしいぞ」
土方さんがそう言った。
本州では辛夷という花があるけれど、この北辛夷は辛夷の北国バージョンと言うのか?
この蝦夷の地と本州の中部地方にかけての日本海側で見られる花だ。
辛夷と違うのは、花の大きさと香りがすること。
そして、花の下に小さな葉が一枚ついている。
変わらないのは、この花が咲いて散るころには桜も咲き始めると言う事だろう。
春が来たことを一番最初に教えてくれる花だ。
この花を良蔵君にも見せてあげようと思い、急いで良蔵君の部屋へ行った。
良蔵君の部屋からならこの木が見えるだろう。
「北辛夷の花が咲いたよ」
そう言って、少し障子を開けて良蔵君に見せた。
良蔵君は布団の中から顔だけ動かして外を見た。
「本当だ。一瞬、桜が咲いているのかと思いました」
桜かぁ。
「桜はまだだと思う。箱館は寒いからね。京とかなら今頃満開で散っているかもしれないね」
箱館は、他より春が来るのがおそい。
「桜を見ることが出来るかなぁ……」
良蔵君は視線を北辛夷から天井に移してそう言った。
「見ようよ。みんなで一緒にお花見をやろう。もちろん、良蔵君も一緒だよ」
良蔵君が私たちと一緒に桜を見れるかわからないけれど、私はそう言っていた。
少しでも長く生きてほしいから。
「そう言えば、この家の庭に桜の木らしきものが植えてあったんだよね。あれは桜の木だと思うんだけど」
「えっ、わからないのですか?」
「うん。春になって桜が咲いたら、桜の木だよ」
それしかわかる方法がないから。
「だから、その時は一緒に確認しよう」
出来るかわからない約束を、私は必死にしようとしていた。
それをわかっていたのか、良蔵君はうんとは言わなかった。
「一緒に桜を見ようっ!」
と言っても、ニッコリと笑っているだけだった。
それからいつも通り鉄之助君と銀之助君が顔を出してきた。
庭から見える北辛夷を見て、
「もうすぐ春なんだね」
「桜もすぐだね」
なんて、二人で言い合っていたけれど、良蔵君は笑顔で話を聞いているだけだった。
そしてこの二人も、一緒に桜を見ようと約束していたけれど、良蔵君はやっぱりうなずかなかった。
うなずかない良蔵君をみんな気にしていたけれど、私たちは勝手に約束をしていた。
「あの木は北辛夷だったんだね」
二人のどちらかが、部屋から見える北辛夷を見てそう言うと、
「あの花が見れただけでも充分かな」
と、良蔵君が言った。
一瞬シーンとなったけど、
「何言っているんだよ。桜も見るぞ」
という銀之助君の一言で、花見の話になって行った。
誰もが良蔵君に桜の花を見てほしいと思っていた。
桜の花を見たら、今度はツツジを見てほしいと思うのだろう。
ツツジを見たら今度は紫陽花って思うのだろう。
もう少し、少しでもいいから長く生きてほしい。
願わくば、ずうっと生きてほしい。
みんなそう思っていた。
北辛夷の花が咲いてから、良蔵君の部屋に入ると障子を少し開けて北辛夷の花を見せるのが日課になっていた。
この日も、少しだけ開けて北辛夷を見せた。
「今日は寒いので、少しだけですよ」
私がそう言って障子を開けると、
「わかってます」
と、いつも通りの笑顔で良蔵君はそう言った。
いつも通り、鉄之助君と銀之助君が入ってきて、みんなでワイワイと話して盛り上がっていた。
ただ、いつもと違っていたのは、良蔵君が眠たそうにしていたことだった。
「眠たそうだね。帰ろうか?」
銀之助君が気を使ってそう言ったのだけれど、
「いや、ここにいて。大丈夫だから」
と、良蔵君が引き留めた。
みんな、あれ?と思ったけど、気にしなかった。
気にしなかったというか、気にしないようにしていたのだ。
いつもと少し違う。
もしかして……という気配はあった。
でも、その気配に気がついたらすべて終わってしまうから、気がつかないふりをしていた、と言った方が正解かもしれない。
「ねぇ見てよ。早咲きの桜なのかな? これだけ桜が咲いていたから折ってきた」
と、沖田さんが枝にピンクの蕾がたくさんついている桜の枝を持って入ってきた。
「あ、本当だ。一輪だけ咲いていますね」
咲いている桜の花を指さして鉄之助君が言った。
「沖田さん、桜の枝は折るものじゃないって聞いたことがあるのですが……」
折ったらだめだと思うのだけど……。
「だって、良蔵に早く見せたかったから」
そう言われると何も言えなくなってしまう。
「おい、良蔵。桜が咲いたよ。ほら……。あれ? 寝ちゃった?」
沖田さんのその一言で、みんな良蔵君の顔を見た。
安らかな顔をして寝ていた。
いや、寝ているんじゃない。
それはみんなも分かっていたと思う。
でも、認めたくなかった。
「おい、良蔵。沖田先生が桜の花を持ってきたくれたぞ」
銀之助君がゆすっても、良蔵君が目を覚ますことがなかった。
「おい、おいっ!」
鉄之助君もゆすったけど、良蔵君は起きなかった。
段々、みんなの目に涙がたまってきた。
「おいっ!」
という声も泣き声になって言った。
「僕に桜が見たいって、言っていたじゃん。だから持ってきたのに」
沖田さんもそう言って良蔵君を起こしたけれど、良蔵君の目があくことはなかった。
良蔵君は、箱館に春が来る少し前に亡くなった。
それは、とっても早すぎる死だった。




