会津藩降伏
あれから、籠城中の鶴ヶ城の中に入ることが出来た。
俺が鶴ヶ城に入った時は、まだ食料補給路があったから何とか入ることが出来た。
その食料補給路も敵の手によって無くなってしまう。
食べる物もだんだん無くなっていった。
そんな中、仙台藩と米沢藩が敵に降伏したと聞いた。
あてにしていた援軍が来るどころか、あてにしていた奥州列藩同盟が崩壊してしまった。
一瞬、援軍を求めに行ったあいつのことが気になった。
大丈夫なんだろうか?
とうとう、会津の周りは敵のみになってしまった。
鶴ヶ城での籠城戦が始まって、はや一カ月近くがたとうとしていた。
籠城戦の中、日光口に戦に出ていた会津藩士の山川大蔵が鶴ヶ城に入る時、彼岸獅子を舞わせ、敵も思わず攻撃の手を止める中、堂々と入城した。
その時は城の中の士気も上がった。
たまに、城の中にいた子供たちが唐人凧をあげていた。
これは、味方の士気をあげるためと、敵に、
「自分たちはまだ余裕がある」
と、見せつけるためだった。
それ以外は、城の中は地獄のようだった。
怪我人がたくさん出たのにもかかわらず、それらを助ける道具が不足していた。
城内に砲弾も飛び込んできた。
城のあちらこちらを傷つけ、鶴ヶ城はやっと建っていると言う状態になっていた。
それでも、この戦に敗けることは許されていなかった。
俺たちは、その日その日を必死に戦い、そして必死に生きていた。
籠城戦も苦しいものになってくると、敵に降伏してはどうか?言う動きも出てきた。
それを聞いた会津藩家老の西郷頼母は、容保公の切腹を迫った。
西郷頼母のその行動は、会津藩の結束にひびを入れただけだった。
砲弾が飛び交う場内で、感情的な言い合いが続いていた。
感情的に言い合っていても、何も解決しないし、何も変わらない。
その後、西郷頼母は越後口で戦う味方への伝令のため、息子を連れて会津を出た。
家老と言う高い身分の人間が伝令に行くと言う事はまずない。
これは事実上の追放だった。
米沢藩に送った使者が帰ってきた。
この状況でよく帰ってこれたなぁと思っていた。
使者が持ってきた言葉は、降伏をすすめるものだった。
米沢藩からは、援軍はもう出せないと言われたらしい。
そして、このまま戦を続けていると、米沢藩も会津を攻撃することになりそうだと言う事だった。
現に、列藩同盟の一つだった庄内藩を落とすために兵を出している。
米沢藩は会津を攻撃するのを避けたい。
降伏をしたら、攻撃をしなくてすむ。
自分たちが間に入るから、降伏をしてほしいと言うものだった。
城内にいる人間の疲労は、限界に来ていた。
食べ物もほとんどなく、怪我人を手当てするものもなかった。
これ以上、犠牲を増やすことは、責任ある行動とは言えなくなってくる。
容保公は降伏を決意した。
会津藩から二人の使者を米沢藩に向かわせ、米沢藩が間に立ち、敵に降伏する意思を伝えた。
その使者は、二日後に帰って来た。
降伏の条件は六つあり、それを容保公は承諾した。
容保公は、全軍に降伏を命じ、女たちには白旗を作るように命じた。
しかし、城内にあった白い布のほとんどが怪我人の包帯に使われたため、旗を作る布はなかった。
だから、着物の端切れを集め、城内にいた女たちは泣きながら白い旗を作っていた。
そして、八月二十二日の朝。
鶴ヶ城内に、『降参』と書かれた白い旗があがった。
会津はとうとう敵の手に落ちた。
昼には降伏式なるものが行われた。
会津藩の人間は悔しさに身を震わせていた。
容保公は、降伏書に調印し、敵の中村半次郎に謝罪書を提出した。
この中村半次郎は、人きり半次郎と呼ばれ、恐れられていた刺客だった。
その中村半次郎は無学だったせいか、容保公が出した謝罪書の内容が理解できなかったらしい。
降伏式の終了後、会津藩士たちはこの時の無念を忘れないため、式の時に下に敷いてあった緋毛氈を切り取り、持ち帰った。
そして家臣たちは、降伏の時の条件の一つに猪苗代で謹慎することとなっていたから、猪苗代へ向かって行った。
会津に残されたのは、子供と年寄りと女だけだった。
俺も、最初は会津藩領だった塩川で謹慎したが、のちに越後高田へ他の藩士たちと一緒に謹慎した。
*****
会津藩の西郷さんが数日前に仙台に来た。
「伝令を頼まれてきた」
と笑顔で言っていたけど、後姿が寂しそうに見えた。
なんでだろう?
「家老に伝令なんて頼まねぇだろう」
西郷さんの後姿を見て、土方さんがそう言った。
そ、そうなのか?
「伝令なら、身分が低い奴がやる仕事だ」
「それなら、なんで伝令に来たのですか?」
「そんなこと、俺が知るわけねぇだろう」
土方さん、知っているようなことを言うから、知っていると思ったんじゃないかっ!
「たぶんだが、会津藩から追い出されたんだろう」
「どうして……」
どうして追い出されたんだろうと聞こうと思ったけど、また、
「俺が知るわけねぇだろう」
と言われそうだからやめた。
その後、西郷さんは榎本さんと一緒に艦船に乗って訓練に出かけていった。
ちょうど、西郷さんが出かけていったときに、会津藩が降伏したと言う情報が入ってきた。
「くそっ!」
土方さんは悔しそうにしていた。
宿舎の部屋の柱の傷は、また増えていた。
「援軍を頼む前に落ちちまった。ま、援軍のあてもなかったがな」
そう言った土方さんは悲しそうだった。
だから、
「土方さんのせいじゃないですよ」
と、私は言っていた。
「わかっている。でもな、援軍を送ることが出来たら、会津が落ちることはなかったかもしれねぇだろう」
そんなことない。
「援軍が来ても、敵と私たちとは武器が違うから、鳥羽伏見のように人数が多くても敗戦になっていたと思います」
鳥羽伏見の時は、私たちの方が圧倒的に人数が多かったのに敗けてしまった。
「そうだな」
土方さんは遠い目で窓の外を見ていた。
土方さん、大丈夫かな?
私が土方さんの顔をのぞき込んだら目が合ったからびっくりした。
「なんだ?」
「えっ、いや、何でもないです」
「よしっ!」
土方さんはそう言うと立ち上がった。
ど、どうしたんだ?
「いつまでも落ち込んでらんねぇだろう。会津の戦は終わったが、俺たちの戦はまだ終わってねぇ。蝦夷へ行く支度もしねぇといけねぇし、新しく入った隊士たちも何とかしねぇとな」
そう、仙台に来て隊士の人数が減っていたのだけど、ここに来て隊士の数が増えた。
というのも、桑名・備中松山・唐津藩士は、それぞれの藩主が榎本さんと一緒に蝦夷に行くことになり、自分たちも一緒に行きたいと申し出たのだけれど、榎本さんが同行者の人数を制限したので、行きたくても行けないと言う藩士たちが続出した。
そこで人数が減った新選組が、隊に入ったら蝦夷に連れて行くと言う条件を出したら、五十人近い人間が入隊してくれた。
「そうですね、落ち込んでいられませんね」
土方さんが立ち直ってくれてよかった。
土方さんが立ち直り、ホッとして部屋を出ると、玄関のあたりが賑やかになっていた。
何かあったのか?
玄関まで行くと、永倉さんと原田さんがいた。
「左之、止めるな。俺は江戸へ帰る」
永倉さんが旅に出るしたくをして立っていた。
「いや、止めはしないが、なんで江戸へ帰るんだ?」
原田さんが永倉さんに聞いた。
「えっ、永倉さん、江戸へ帰るのですか?」
思わず永倉さんに駆け寄ってしまった。
「会津が落ちたと聞いた。俺の仕事はここで終わった。俺は恩がある会津のためにここまで来ていた。」
そ、そうなのか?
確かに、永倉さんの言う通り、会津には新選組を預かってくれたと言う恩がある。
「でも、今、江戸に帰ったら捕まりますよ」
江戸も、今は東京と言う名前に変わり、江戸城も私たちの敵である政府軍が入っている。
そこに、新選組に関係のある永倉さんが出てきたら、政府軍は喜んで永倉さんを捕まえるだろう。
「それでも、江戸に帰りたいんだ。生まれ育った町だからな」
永倉さんは松前藩の人だけど、松前藩の江戸屋敷で生まれ育っていた。
「誰も行くなとは言っていない。ただ、捕まったらどうするんだ?」
原田さんが心配そうに永倉さんに言うと、
「安心しろ。俺が捕まると言う事はないっ! 何なら、左之も一緒に行くか?」
そう言われた原田さんは、チラッと私の方を見た。
えっ、何だろう?
「俺は行かない。土方さんたちと一緒に蝦夷へ行く」
と、原田さんは言った。
「そうか。ここでお別れだな」
「そうなりそうだな。新八、気を付けて帰れよ」
と、原田さんは言ったのだけれど、原田さんの言葉を最後まで聞かずに、永倉さんは行ってしまった。
「本当にいいのですか?」
原田さんは、永倉さんと一緒に行きたかったんじゃないのか?
そう思っていた。
「蒼良が心配することじゃないだろう。俺だって、江戸に行きたかったら新八と一緒に行っているさ。でも、俺は、俺しかできないことがここにあるから行かなかった。だから、後悔はしていない」
それならいいのだけれど……。
「蒼良、新八はその後どうなるんだ? やっぱり捕まるのか?」
確か……。
「捕まる前に自首します。でも、松前藩に帰ることはできますよ」
永倉さんは松前藩を脱藩した浪人だった。
けど、松前藩に帰ることを許される。
「そうか。これから先も無事でいるんだな」
「永倉さんは長生きしますよ」
永倉さんは、明治の世も生き抜く。
そして、新選組のことを書いた本を出す。
永倉さんも、現代に新選組のことを教えてくれる人の一人になる。
「それはよかった」
ホッとしたように原田さんは言った。
そして、しばらく二人で永倉さんの去って行った方を見つめていた。