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幕末へ タイムスリップ  作者: 英 亜莉子
慶応4年閏4月
426/506

白河口の戦い(1)

 白河小峰城に入った。

 ここの城は藩主がいなかった。

 元々、阿部正外と言う人間が治めていた。

 この阿部と言う人間は、異国が開港を迫っていた兵庫港を勝手に開港した。

 それをとがめられ、老中も免職され、藩も白河藩から棚倉藩と言う所へ改易された。

 それから隠居と蟄居を命じられ、家督は長男が継いだ。

 よって、ここは藩主がいない城で、幕府直轄領となっており、二本松藩預かりとなっていた。

 俺たちがここへ来た時は、仙台藩の人間がいた。

 仙台藩も色々とあったらしい。

 仙台藩は、会津追討の命を受け、会津藩に一番近い場所でお互いの藩兵がにらみ合ってはいたが、戦火を交えることはなかった。

 と言うのも、仙台藩は会津藩に同情的だったためだ。

 だから、仙台藩の家老が会津藩に来て、敵に恭順するようにと、説得される。

 そして、ついに仙台藩と米沢藩の取り成しで、会津藩が降伏することとなり、容保公は西郷頼母らを使い、嘆願書を書かせた。

 その嘆願所は仙台藩と米沢藩を通じて、総督府、簡単に言うと我々の敵に届けると言う事になった。

 これが先月の中旬あたりの話だ。

 それから、仙台藩と米沢藩の呼びかけて、奥羽諸藩の代表たちが白石城と言うところに集まり、会津藩救済のための会議を開いた。

 そして、その奥羽諸藩が会津藩を助けると言う嘆願書に署名をした。

 その嘆願所と、容保公が西郷頼母らに書かせた嘆願書と、仙台藩主と米沢藩主が書いた添え書きを持ち、奥羽鎮撫総督と言うところに持って行った。

 これも、簡単に言えば敵に持って行ったと言う事だ。

 この嘆願所は受理されることになっていた。

 しかし、奥羽鎮撫総督府と言う所の下参謀と言う職に就いている世良修蔵と言う長州藩士が反対し、受理はされなかった。

 取り成しをした仙台藩士たちは、世良と言う男を強く恨んだ。

 世良は仙台藩の藩校に滞在していたらしいが、評判はものすごく悪かったらしい。

 仙台藩士をばかにしたり、傍若無人な振る舞いをしたりしていた。

 そこで今回のこの事件があり、さらに仙台藩士たちの恨みが重なっていったのだろう。

 その恨みが爆発するきっかけになったのが、世良が一緒に下参謀をしていた奴に書いた文だった。

 そこには、奥羽はみんな敵だと言うようなことが書かれていたらしい。

 それを書いた文を届ける時に、仙台藩士たちが入手した。

 これを見た仙台藩士たちは、もう我慢できんっ!という状態になったのだろう。

 世良の暗殺を計画する。

 これが実行されたのが、今日の未明のことだ。

 福島城下で宿泊していた世良を仙台藩士が引きずり出して捕まえた。

 それから阿武隈川の河原で斬首した。

 この事件の後、奥羽諸藩は俺たちが戦っている敵に対し、徹底的に抗戦する!と言う意思を表明し、会津の近くでにらみ合っていた藩兵を撤退させた。

 それから、敵が白河小峰城に入場する前に奪ったほうがいいと教えてきた。

 だから俺たちがここにいる。

 

 この城を預かっていた二本松藩も、奥羽諸藩の中に入っていたため、俺たちは簡単に白河小峰城を落とすことが出来た。

 城に入ったからと安心はできない。

 敵は俺たちが白河城に入ったと知ったら、すぐにこちらに向かってくるだろう。

 現に、宇都宮で勝利をおさめた敵軍は、その勢いでこちらに向かってきていると聞いた。

 二十四日には、ここからほど近い芦野と言う場所に敵が宿泊していると言う情報が入ってきた。

 俺たちは城の守りを強化することになった。

 俺は会津遊撃隊長の遠山伊右衛門と一緒に、白坂口と言う場所を守ることになった。

 二十五日の明け方、一番最初に俺たちが守っている白坂口を敵が攻めてきた。

 俺たちが戦っている銃声を聞いてかけつけてきたのが、朱雀隊の日向茂太郎の隊だった。

 会津朱雀隊とは、十八才から三十五才の武家の男子で構成されている隊で主力部隊だ。

 その朱雀隊が、樋口久吾がひきいていた砲撃隊とともに、敵の側面から攻撃を仕掛けた。

 さらに反対側からも、味方の純義隊や青龍隊、集義隊がかけつけ攻撃をした。

 敵は、三方から攻撃されていることになる。

 敵は長雨でぬかるんだ中で足をとられながらの戦闘と、宇都宮からの戦で疲労が

たまっていたのと、弾薬も不足してきたらしい。

 そして、敵には土地勘と言うものがなかった。

 敵は自分たちが不利だとわかると、芦野まで撤退をした。

 明け方から続いた戦が、終わろうとしていた。


 俺たちの士気は、この戦いのよって高くなっていた。

 その証拠が、大手門にかかげられた敵兵の十三人の首だった。

 それぞれの首には、親切に藩の名前を書いた木札も下がっていた。

 あいつがこんな風景を見たら、嫌がるだろうなぁ。

 京にいた時も、三条大橋に首があがっていると聞くと、巡察の時に近づくことを避けていた。

「首を飾るなんて考えられない」

 とまで言っていたよなぁ。

 連れてこなくてよかったかもしれないな。

 十三人の首を見てそう思った。

「一緒に来てほしい」

 白河へ行くことが決まった時、あいつにそう声をかけた。

 しばらく考えた後、

「行きます」

 と返事が来た。

 来ないだろうと思っていたから、その返事に驚いた。

 しかし、行く直前になって断ってきた。

 やっぱりなぁ。

 そう思った。

 別に、あいつ一人いてもいなくても、新選組の戦力は変わらない。

 ただ、俺の気持ちの問題だ。

 流山で近藤さんが捕まり、俺たちは離れ離れになった。

 あいつは土方さんと一緒に近藤さんの助命へ行き、俺は土方さんから新選組を会津に連れて行けと頼まれ、会津目指して旅だった。

 その旅はとても苦しいものだった。

 表街道を通ることはできない。

 敵につかまってしまう恐れがあるからだ。

 間道を通ってひたすら会津を目指した。

 敵と戦いながら会津を目指していた土方さんと同じぐらいに会津に着いた。

 会津に着いた時は、やっとあいつに会えると思っていた。

 あいつに会った時、少しあいつの雰囲気が変わっていた。

 あいつの中心に土方さんがいた。

 ただ、それにあいつは気がついているかはわからなかった。

 あいつが自分の思いに気がついているのか?そう思いと、もう離れたくないと言う思いがあり、あいつを白河へ誘った。

 あいつが、あっさり白河へ行くと言ったら、こっちのものだ。

 そう言う思いもあった。

 最初に土方さんに許可をもらいに行った。

 これはあっさりと許可が出たから、二人の関係はまだ進展はないようだと思った。

 これはまだ俺が入れる。

 これであいつが白河へ来れば……。

 そんなことを思っていた俺は、まるでばかだった。

 あいつに何があったかはわからない。

 しかし、自分の思いには気がついたのだろう。

 行けないと言ってきた。

 俺がやったことは、好きな女と他の男を結ぶ縁結びのようなことだった。

 何をやっているんだ、俺は……。

「隊長」

 そんなことをもって、十三個の首を遠目で眺めていると、隊士から声をかけられた。

「どうした?」

「聞いた話なのですが、三条河原にさらされていた近藤局長の首が消えたそうです」

 近藤さんの首が消えた?

「誰かが持って行ったのか?」

「それは分かりません」

 八木さんあたりがあわれに思って首を持って行ったのか?

 いや、あの人は気味悪がってそんなことはしないだろう。

 それならいったい誰が……?


 戦があった次の日、会津藩家老の西郷頼母が白河口総督として、若年寄りの横山主税が副総督として白河小峰城にやってきた。

 そして、続々と各藩の援軍が到着した。

 その兵力は二千から二千五百ぐらいあった。

 敵があれぐらいのことで大人しくしているとは思えない。

 再び兵力を補充して攻撃してくるだろう。

 そう思った俺たちは、西郷頼母に、

「白坂口の防衛も補強したほうがいい」

 と言ってみた。

 しかし、

「兵力ではこちらの方が勝っている。そこまでする必要もないだろう」

 と言ってきた。

 あの戦の激しさを知らんからそう言えるんだろう。

 しかし、西郷頼母も不安に思ったのだろう。その後、白坂口や棚倉口にも兵を配備した。

 俺は白河口へ行くように指示され、そこで本陣を守ることになった。

 敵は兵力七百と聞いた。

 しかし、兵力などは関係ない。

 鳥羽伏見の時も、兵力ではこちらが圧倒的に多かったのに、大敗した。

 今回も油断はできないだろう。


 二十八日、敵の攻撃が始まり、白坂口が敵に占拠された。

 二十九日、白坂口が敵の本陣となった。

 これにより、白河の入り口が敵のものとなったことと、ここは重要な場所で、ここを守れるか守れないかで、戦の流れも決まる。

 この戦は苦戦を強いられそうだ。

 そして五月一日、敵が白河小峰城に現れた。


 敵は兵力を三つに分けていた。

 中央を進む隊と、左右へ迂回して俺たちを囲み、退路を断ちつつ進軍をし、白河小峰城を奪う隊だ。

 まず、左右の軍が先発したらしい。その後中央の軍が進軍してきた。

 そして小丸山を占拠した。

 この小丸山は、白河小峰城から見ると、味方の主力部隊と砲撃隊がいる稲荷山の後ろになる。

 そこから稲荷山への攻撃が始まった。

 稲荷山は苦戦を強いられていた。

 それを見ていた西郷頼母は、白河小峰城にいた兵と他の場所にいた兵を稲荷山へむかわせた。

 その時に、副総督の横山主税が戦死した。

 そしてその結果、白河小峰城周辺の守りが手薄になった。

 これは危ないと思った時は遅かった。

 手薄になった守りの側面から敵が攻めてきた。

 そして、稲荷山を背後から攻撃してきた。

 稲荷山にいた兵たちから見れば、突然背後から敵が現れたことになる。

 あっという間に敵に包囲され、白河小峰城も奪われた。

 

 この戦で、三百人もの死者を出した。

 その中に新選組の隊士も含まれている。


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