箱根の峠
私たちの旅は、桑名宿と宮宿の船で土方さんが船酔いをした以外は、順調に東海道を江戸に向かって進んでいた。
現代でいう静岡県に入ったあたりから富士山が見えるようになった。
その姿は、日を追うごとに見える大きさが大きくなってきた。
「富士山、見えましたよっ!」
最初、小さい姿をチラッと見かけた時に興奮してそう言うと、
「これぐらいなら、江戸からでも見える」
と、土方さんに言われてしまった。
そうだけどさぁ。
「江戸に近づいてきているってことだよな」
源さんが私をフォローするように言ってくれた。
富士山は私たちに様々な姿を見せてくれた。
雲で隠れていたり、青空をバックでそびえたっていたり。
片方には海があり、片方には富士山。
もう景色は最高だ。
そして、吉原宿と言う宿場町を出た時のこと。
「おい、後ろ振り返ってみろ」
土方さんに言われ、振り返ってみると、左側に富士山が見えた。
あれ?今までと見える場所が違う。
前を向いても、今までと違う場所に富士山が見える。
今までは後ろを向くと、右側に富士山が見えていた。
前を向いたり、後ろを向いたりして富士山を見ている私に向かって、
「左富士だ。東海道で、京に向かって歩いた時に左側に富士山が見えるのはここしかねぇ」
そうなんだ。
しかも、松並木がならんでいて、そこの合間から見える富士山がまたとってもよかった。
ああ、カメラ持ってくればよかったぁ。
お師匠様なら持っているかな?
ちなみに、現在は松並木は残っていないらしい。
海に近いところにあるので、津波などで流されてしまったらしい。
それから、原宿と言う宿場町に着いた。
そこで見る富士山は一番大きなものだった。
「大きいっ!」
その大きさに感動してしまった。
そりゃ大きいよね、日本で一番大きな山なんだもん。
「富士山だからな。でかいに決まってんだろう」
「いつも、新幹線ですうーっと通り過ぎていくのを見ていただけなので、こんなにゆっくり見るのは初めてです」
「蒼良、しんかんせんってなんだ?」
源さんに聞かれてしまった。
あ、この時代にはなかった。
あれば便利なんだけどね。
富士山を見ていると登りたくなってきてしまった。
「富士山に登りたいですね」
そう言ったら、
「ばかやろう」
と、土方さんに言われてしまった。
「女は登れねぇんだよ」
そ、そうなのか?
この時代、六十年に一度だけある庚申という申年だけ八合目まで女性は登ることが出来た。
しかも、その六十年に一度の年は、もう1861年文久元年だったので、1867年である今は登ることが出来ない。
この時代で私の登山はあり得ないってことね。
「それに、そんな簡単に登れるものじゃないだろう」
源さんが富士山を見ながらそう言った。
そうだ、この時代、五合目まではバスでとかって事はないのだ。
登るなら、最初のふもとから登らなければならないのだ。
現代でさえ、富士山で遭難する人もいるんだから、この時代の登山は大変だろうなぁ。
「あきらめます」
あきらめよう
「お前、本気で考えてたのか?」
土方さんに驚かれてしまった。
えっ、本気じゃいけなかったのか?
「冗談だと思っていた。いいか、俺たちは江戸に隊士募集のためにこの道を歩いているんだ。富士登山の為じゃねぇ」
そうでした、忘れてました。
富士山は、私たちの視線からだんだん小さくなってきた。
そして、江戸に入るための最後の難関、箱根の峠が近づいてきた。
箱根の峠は三島宿と言う宿場町を出てしばらく行くと始まった。
「最後の難関、箱根の峠だぞ」
土方さんがそう言って歩き始めた。
最後の難関か。
「蒼良、そんな怖い顔するな。この峠の先には温泉があるぞ」
源さんがそう言って励ましてくれた。
そうだ、箱根と言えば温泉じゃないかっ!
「行きましょうっ!」
峠の先には温泉が待っている。
「単純なやつだな。その勢いがいつまでもつかな」
土方さんが私を見てそう言った。
箱根の峠はそう甘いものではなかった。
石畳を敷いてあるのだけど、逆にそれが歩きにくいと思ってしまう。
「これは仕方ねぇな。江戸を守るためのものだからな」
土方さんが石畳を歩きながらそう言った。
えっ、この石畳が?
「石畳って、歩きやすくするためにあるのですよね」
「ここの石畳は違う。江戸に防衛のためにある」
そうなのか?
「歩きずらいだろ? 江戸に入りにくくするためだと言われているらしいぞ」
そうなんだ。
その石畳の登り道を歩いて登った。
「これを登りきったら、箱根の関所があるからな、頑張れ」
源さんが、私の後ろから励ましてくれた。
ん?箱根の関所?聞いたことあるぞ。
「入鉄砲に出女って言われている、あの関所ですか?」
江戸に入ってくる鉄砲と、江戸から出る女性を厳しく取り締まったと言われている関所だ。
「おお、よく知っていたな」
いや、土方さん、感心している場合じゃないから。
「私、大丈夫なんでしょうか?」
出女にあたるよね。
「蒼良の場合は、入り女か?」
源さんも、冗談言っている場合じゃないですから。
「なに心配してんだ?」
土方さんが私の顔をのぞき込んできた。
「だって、関所って監視が厳しいのですよね。大丈夫なのですか?」
突然、捕まったりしないのか?
「お前、なんか悪いことしたのか」
「土方さんじゃないですよ」
「おい、それは余計だろう」
はい、すみません。
「それなら大丈夫だ」
本当に、そうなのか?
捕まっても知らないからね。
って、捕まったら私が一番困るんじゃないかっ!
そんなこんなで箱根の関所に着いた。
関所は通過する人をじっくり見るだろうから、きっと混んでいるだろうなぁと思っていたら、すいていた。
土方さんも源さんも何事もないように通り過ぎていった。
本当に、大丈夫なのか?
土方さんなんて、
「ご苦労」
って声かけるぐらいだ。
そして、なにごともなく通過した。
「本当に、大丈夫でしたね」
無事に通過してホッとした。
「大丈夫だと言っていただろうが」
そうなんだけど。
「蒼良、数カ月前に慶応の改革ってあっただろう?」
源さんがそう言ってきた。
そう言えば、あったような……。
「その時の改革で、通行手形が無くても通れるようになったんだ」
そうだったのか?
「じゃあ、出女とかって今は……」
「お前は入女だろう」
土方さんにそうつっこまれた。
そうなんだけど。
「そんなもの、無くなったよ」
源さんにそう言われ、なんだとつぶやいてしまった。
もうちょっと早くに教えてくださいよっ!
「いや、蒼良のことだから知っているだろうと思っていたんだ。すまん、すまん」
源さんがニッコリ笑顔で謝ってきた。
「お前もいい勉強になっただろう」
こっちは土方さんに言われた。
確かに、いい勉強になったわ。
それから箱根の峠は下り坂になった。
ものすごく急な下り坂だった。
「ここの坂の名前、なんていうか知っているか?」
土方さんが山を下りながら声かけてきた。
登坂を登るのも大変だけど、下るのも大変だな。
「坂の名前ですか? 知りません」
「そうだろうな。お前は知らんだろう」
わざと聞いたのか?
「女転がしの坂って言うらしいぞ」
そ、そうなのか?
「すごい名前ですね」
土方さんからの話によると、あまりに長く急な坂で、馬に乗った女性が落馬して亡くなったことがあったらしい。
それでこの名前か。
確かにそんな名前がつくぐらいの急で長い坂だった。
「蒼良、この坂を下ったら、温泉があるぞ」
源さんが後ろから励ましてくれた。
そうだ、温泉があったんだっ!
坂に気をとられてすっかり忘れていたよ。
峠を無事にこえ、無事に箱根湯本温泉に着いた。
温泉、温泉。
ルンルンな気分で荷物を整理していると、あることに気がついた。
「私、女湯ですよね」
「当たり前だろうが。男湯に入るか?」
いや、それは遠慮します。
やっぱりそうだよね。
でも、男装している私が女湯に入って行ったら、大騒ぎにならないかなぁ。
「女装すればいいだろう。着物持ってきてんだろ?」
土方さんが何事もないようにそう言った。
「いいのですか?」
いつもなら、俺に無断で女装するなとかって言うんだけど。
「蒼良のかわいい姿が見れるのか。楽しみだなぁ」
源さんにいたっては、楽しそうだ。
いいのかな?
「あっちで着替えて来い」
部屋のすみに置いてある屏風を指さして土方さんが言った。
それなら、遠慮なく女装しよう。
温泉に心置きなくつかった。
峠の疲れが癒されるわ。
着替えて外に出ると土方さんが待っていた。
源さんは、峠を越えて疲れ切ってしまったみたいで、
「後で温泉に入る」
と言って寝てしまった。
「長かったな」
あ、ずいぶんと長い間、温泉につかっていたからなぁ。
「すみません。待ちましたか?」
私が言うと、優しい笑顔で、
「待ってねぇよ。行くぞ」
と言って、手を出してきた。
女装をすると土方さんが優しく感じるのは気のせいか?
「大丈夫です」
ちょっと意地を張ってそう言ってみた。
「慣れねぇ格好じゃあ歩きずらいだろう」
そういって、私の手を取って歩き始めた。
土方さんの背中を見て、手を引かれて歩いた。
土方さんの背中って、意外と大きいんだなぁ。
男の背中ってやつか?
ずうっと背中を見ていたら、土方さんが急に振り返ってきた。
急にこっちを見られると、びっくりするじゃないかっ!
顔が熱くなり、うつむいた。
すると、ぬれた髪が一筋落ちてきたから、耳にかけた。
「お前、綺麗になったなぁ。色っぽくなったというのか……」
土方さんのその声に驚いて顔をあげた。
すると土方さんと目があった。
土方さんが変なことを言うから、ドキドキしてしまったじゃないかっ!
「へ、変なこと言わないでくださいよ」
「変なことじゃねぇだろう。本当にそう思ってんだから」
そ、そうなのか?
恐る恐る顔をあげると、土方さんが今までにない優しい顔で私を見ていた。
目があってしまった。
どうしよう……。
って、土方さんと目があったぐらいで、なにうろたえてんだ、私。
まるで、好きな人と目があってうろたえている人みたいじゃないかっ!
えっ、好きな人?
再び土方さんの顔を見た。
「なんだ? 人の顔見て何かついているか?」
なんか恥ずかしくなってうつむいてしまった。
「女になると、性格も変わるのか? お前らしくねぇな」
そ、それは土方さんだって同じじゃないかっ!
土方さんらしくないぞ。
「行くぞ」
そう言って、手を引かれて歩き始めたから、再び土方さんの背中を見た。
私が、土方さんを好き?
まさか、まさかね。
そんなこと、あるわけないよ。
私は、一生懸命、土方さんの背中を見て否定をしていたのだった。