斎藤さんの間者生活
五条善立寺へきて一カ月がたとうとしていた。
来月あたりに高台寺へ移動する話があるが、今はまだここにいる。
この一か月間に、御陵衛士たちの動きは特になかった。
新井忠雄という、一緒に新選組から御陵衛士になったやつが大宰府に行っている。
後は、富山弥兵衛という、俺たちの少し前に新選組から脱退してきた男が、曲直瀬道策と言う名前の男を殺害したと疑いをかけられている。
曲直瀬道策という男は、勤王派の人間で、金の周りがいい人間だ。
そいつになんの恨みがあったのか知らないが、富山はその男を殺害した。
周りの人間は、借金がらみだろうと言っている。
報告するのはそれぐらいだろう。
それぐらい事件もなく、報告することもなく、平和に過ぎていった。
「斎藤君、薩摩が考え方を変えたようだよ」
伊東さんが俺に話しかけてきた。
報告できそうな話題が出来たな。
「どう変わったのですか?」
俺がそう言うと、その言葉を待っていたかのように伊東さんが話し始めた。
「今までは、どちらかというと平和的に話し合いをし、朝廷が中心となって国作りをしようという考え方だったが、この前、四候会議と言うものがあっただろう?」
薩摩が将軍から権力を奪い取ろうとはかり、人を集めて会議を行うことまでは成功した。
しかし、将軍も察するところがあったのだろう。
薩摩は、長州の処分を軽くすることを主張してきた。
だが将軍は兵庫港開港問題を優先してきた。
結果的に四候と呼ばれた人間は、長州問題を先に解決してほしいという意見を書いた者を上の人間に出すと言う事しかできなかった。
そして将軍は、長州問題ではなく、兵庫港開港問題を朝廷の会議に持って行った。
朝廷の会議は夜通し行われたらしい。
その結果、将軍は兵庫港開港問題の勅許を勝ち取ることが出来た。
その時点で、四候会議を計画して実行にうつした薩摩の負けが決定した。
「ありましたね」
俺の顔は笑っていたと思う。
正直、薩摩はあまり好きではない。
「その会議で、将軍である徳川慶喜を相手に平和的に話し合いなんて無理だという結論に達したらしい。武力による倒幕という考え方に変わったようだよ」
武力であろうと、平和的であろうと、倒幕という考えは変わらないのだな。
「それを証拠に、土佐と密約を結んだ。戦になれば、土佐傭兵を率いて薩摩藩に合流するという条約だ」
土佐藩の山内容堂は幕府派として有名な人物だ。
その人間が、倒幕を前提とした武力行使の協力を約束するなんて、あるのか?
怪訝な顔をしていると、伊東さんも気がついたのだろう。
「斎藤君、密約だよ、密約。山内容堂は話は聞いているのだろうけど、自分は関係ないという立場なんだろう」
それで密約なのか。
「かえってそっちの方が結びつきが強くなっていいのかもしれないな」
伊東さんは機嫌がよさそうに笑顔でそう言った。
実際も機嫌がいいのだろう。
やっと薩摩が倒幕に向けて本格的に動き始めたのだから。
土方さんに報告したいことがあると、つてをたどって文を送った。
直接送ると、俺が間者で御陵衛士に潜入していることがばれるから、色々な人間を間に介して文が届くようにした。
同じ京にいても、文が届くのは数日後になりそうだ。
そして、その数日後に文が返ってきた。
いつもなら、色々な人間を介して送られてくる文だが、今回は直接来た。
しかも、花菖蒲に文が結び付けられている。
「斎藤君、恋文かい?」
その文を見た伊東さんがそう言った。
女が出してきたようによそおっているのだろう。
俺は無言でうなずいた。
「早く読まなくていいのかい?」
伊東さんの前で文を読めと言うのか?
伊東さんは去る気配がなかった。
わざわざそうよそおって出すと言う事は、土方さんにも考えがあってのことだろう。
だから、伊東さんの前で見せつけるように読んだほうがいいのだろう。
俺は、花菖蒲から文をとった。
「島原のいつもの所で待っています」
文にはそう書かれていた。
しかし、字は明らかに土方さんの字だ。
それに気がつかない伊東さんは、
「いつもの所って、斎藤君も好きだね」
と笑顔で言って去っていった。
土方さんの字は女みたいだからな。
伊東さんをだますことまで考えていたのか?
それにしても、いつもの所ってどこだ?
いつもの所という場所があるほど島原には通っていない。
思いつくところは、あいつが芸妓に変装して潜入したあの揚屋しか思い浮かばない。
初めてあいつが芸妓に変装した時、普段のあいつと比べるとものすごく女らしく、俺が見たこともないぐらい綺麗な女になっていた。
驚きと同時に、あいつが女だと言う事がわかった。
しかし、その時はそのことを話さなかった。
あいつが自分が女であると言う事を必死になって隠していたからだ。
だから俺も知らないふりをしていたのだったな。
そこに来いと言う事か?
土方さんの字でそう書かれていると言う事は、そこに行けば何かがあるのだろう。
行ってみるか。
そう思い、夜になるのを待ち、夜になってから島原に出向いて行った。
「お久しぶりです」
そう言って揚屋にいる俺の部屋に入っていたのは、そのあいつだった。
「お前、なんでここにいるんだ?」
格好は芸妓の姿になっているが、間違いなく俺の目の前で手をついて頭を下げ、滑り込むようにして部屋に入り襖を閉めたのは、昼間思い出していたあいつだ。
「驚きましたよね。私も土方さんから言われて驚きました」
俺が新選組を出た時と変わらない笑顔で隣に座ってきた。
「とりあえず、飲みますよね」
そう言って、徳利を傾けてきたから猪口を出した。
猪口に入った酒を一気に飲み干した。
こんな小さな物にいちいち酒を入れて飲むのは面倒だと思っていた。
しかし、こいつについでもらうならそれもいいな。
そう思い、空になった猪口を再び差し出した。
「あのですね、斎藤さんが間者として御陵衛士に行っていることは私も知っていますが、それを私が知っていることを土方さんも知っているのですよ」
こいつには以前、俺がそう伝えた。
それを土方さんも知っているらしい。
「話したのか?」
意外と口が軽いのだな。
「話してませんよ。な、何故か知っていたのですよ」
それはないだろう。
目が泳いでいるから、嘘をついているのはすぐわかる。
しかし、本当のことを言っている時もわかる。
話していないという事は本当のことなんだろう。
「それで、本当なら斎藤さんからの報告は土方さんが聞いたり、文を読んだりしたほうがいいと思うのですが、今回は、早めに話が聞きたいと思ったみたいです」
そう言うと、再び徳利を傾けてきた。
俺は猪口を出した。
「でも、土方さんが行って、直接、斎藤さんと会って話をすると斎藤さんが間者だってばれちゃうじゃないですか」
それは土方さんは絶対にしないだろう。
「斎藤さんが間者だと知っている人で、新選組の者だとわからないようにできる人といったら……」
「女装が出来るお前しかいないよな」
俺がそう言うと、わかってくれたかという顔をした。
「そうなのですよ。それで、今回は私が芸妓になって来ました。人払いもしてあるので、誰も来ませんし、周りには誰もいません」
そこまでしたのか。
「と言う事は、俺がお前に何をしても誰もわからないと言う事だな」
それがどういう意味か、分かっているよな?
そう言う思いも込めて言ったのだが……。
「えっ、何かする予定でもあったのですか? もしかして、お座敷遊びがしたいとか?」
こいつにそんな意味が分かるわけないか。
理解を求めた俺がばかだった。
「斎藤さんがしたいというなら、お座敷遊びでもいいですが、私、一つしか知らないのですよ」
逆に、一つだけでも知っていたのか?と驚いてしまった。
「俺は、お前とお座敷遊びをしに来たんじゃない」
「あ、そうですよね。そうでした。すみません」
そう言って、再び徳利を傾けてきた。
そう言えば、こいつもかなりの大酒のみだ。
こうやって徳利を傾けているが、本当は飲みたいんじゃないのか?
「飲むか?」
徳利を差し出した。
「今日は仕事で来ているので、お酒は飲みません」
こいつらしくないことを言う。
「そうか、それは残念だな」
俺はこいつの前で猪口の中身を空にした。
少しだけ飲みたそうな顔になった。
「少しぐらいいいだろう?」
「大丈夫ですかね?」
「少し飲んで酔っ払って仕事にならないのならともかく、お前は酔っ払わないから大丈夫だろう」
酒を飲むことを我慢していたのだろう。
「それなら一杯だけ」
そう言って、徳利を空にした。
その飲み方を教えたのは俺だが、一杯だけと言って徳利を空にする女は初めて見たぞ。
一通り報告を終えた。
こいつに報告するのは心もとないが、真剣に聞き、相づちを打っている姿を見ると、こいつなら大丈夫だろうと思った。
俺が思っているよりも、今の薩摩の状態を理解している。
こいつにはこういう不思議なときがある。
普通の人間が知っていることを知らないと言い、知らないようなことを知っていたりする。
それがこいつの魅力の一つになっているのだろう。
「帰る」
そう言って揚屋を後にした。
「私も用が終わったので、とりあえず置屋に行って着替えます」
そう言ってきたから、一緒に揚屋を出た。
外に出た時、霧雨のような雨が降っていた。
「雨が降りそうな天気だなぁと思っていたのですよ。傘を探してきますね」
そう言うと、揚屋の奥へ入って行った。
持ってきたのは傘が一つだけだった。
「お客さんが持って行ってしまって、今はこれしかないらしいです」
そう言って傘をさしだしてきた。
「斎藤さんが風邪をひいてしまうと大変なので、斎藤さんが傘に入ってください。置屋はすぐ近くなので、私は走って行きます」
その格好で走るのか?普段の男の格好ではないのだぞ。
俺は、こいつの肩を抱き寄せ、傘をさした。
「一緒に入って行けばいいだろう。置屋まで送っていく」
「そんなことしたら、斎藤さんが遠回りになりますよ」
こういう時こそ、変な遠慮しないで入ればいいだろう。
「かまわない。送っていく」
俺がそう言って肩を抱き寄せたまま傘をさして歩きはじめたら、一緒に歩き始めた。
「すみません」
俺を見上げて謝ってきた。
「俺がかまわないと言ったんだから、これでいいんだ。いちいち謝るな」
見上げてきた顔を見て、本当に綺麗になったなと思った。
それを悟られたくないから、そう言った。
「これ、番傘ですね。傘にお店の名前が書いてあるから。宣伝のために書いたのですよね。面白いですよね」
そんなことは俺でも知っている。
もしかして、知らなかったのか?
こんなことも知らないとは、こいつに情報をまかせて大丈夫なのか?
俺は全部話し終わったのにもかかわらず、不安になってしまったのだった。