碓氷峠越え
中山道も、いよいよ山の中に入ってきた。
今日は、碓氷峠を越えることになっている。
数年前に皇女和宮様が、碓氷峠を越えて江戸に嫁ぐときにある程度整備されたけど、それでも、現代のようにコンクリートで綺麗に舗装されているわけでもなく、車でさっと登るわけでもない。
ひたすら歩いて登るのだ。
標高差は約700メートル。
もちろん難所になっている。
しっかりと休息してこの難所に備えなければ。
碓氷峠の手前にある坂本宿でしっかり休んだ。
日が昇る前の早朝のこと。
ミシッミシッと、私が寝ている横を静かに人が通る感触があった。
襖が静かに開いてから、静かに閉まった。
誰かト……厠にでも行ったのかな?
そう思って隣を見ると、布団が綺麗に畳まれていた。
そこには斎藤さんが寝ていたはずだ。
今出て行ったのは、斎藤さんか?どこに行ったのだろう。
布団がたたまれているから、厠ではないだろう。
厠に行くのに布団なんてたたまない。
じゃあ、どこに行ったんだ?
ま、いいか。まだ朝も早いから寝よう。
今日は碓氷峠越えが待っている。
しっかり寝とかないと。
そう思って目を閉じたはいいけど、眠れない。
眠れないのに布団にいても仕方ない。
バンッと布団を急いで畳んで斎藤さんを追いかけてみた。
布団をたたんだり、着替えたりしてから部屋を出たから、きっと斎藤さんに追いつかないだろうなぁと思っていたけど、斎藤さんは、宿を出てすぐのところにいた。
「なんだ、お前も来たのか」
私に気が付いた斎藤さんは、私の方を振り返ってそう言った。
お前も来たのかって、あんたが起こしたんだろうがっ!
「目が覚めて眠れなくなってしまって」
「俺が起こしてしまったか?」
心の中では、あんたが起こしてっ!と思っていたけど、そう言われてしまうと、
「いや、もう起きる時間だったのですよ。昨日早く寝たので」
と、心の中になかったことを言ってしまう。
「それならいいが」
斎藤さんはそう言うと、じいっと遠くを見る目で景色を見ていた。
「なにを見ているのですか?」
こんなに早く起きて、景色を見ている斎藤さんがすごく気になった。
「日の出を見ようと思ってな」
日の出?今日は正月か?いや、違うだろう。
「正月じゃなくても日の出はいいものだぞ」
私の考えていることがばれてるし。
顔に出ていたのか?
「お前の考えは顔に出るから面白い」
斎藤さんは笑って言った。
顔に出ていたと言う事だな。
斎藤さんの見ている方を見てみたけど、霧がかかっているのか、真っ白になって何も見えなかった。
「何も見えないのですが……」
こんなに早く起きて何を見るつもりだったんだろう。
あ、日の出か。
でも、これじゃあ日が出ても真っ白だぞ。
「みていればわかる」
そう言われてしまった。
本当にわかるのか?そう思いながら見ていると、どんどん周りが明るくなってきた。
白い霧がかかっている部分が、私たちがいるところより下の方でフワフワとしているのがわかった。
これって、雲海じゃないか。
雲海ってあんまり見たことが無かったけど、漢字のとおり、雲の海だ。
周りの山々が白い海に浮いている島に見える。
そのうち、雲海から太陽が上がってきた。
白い海に太陽が上がってくる景色は、とっても綺麗だった。
「ここは、標高が高いから、こういう景色が見れるのだ」
太陽が上がると、斎藤さんがそう言った。
「斎藤さんはこの景色を知っていたのですか?」
私が聞くと、
「前も見たからな」
と、一言言った。
そう言えば斎藤さんは、江戸で旗本を斬ったから、そこから逃げるために私たちより早く京に来ていたんだ。
その時に見たのかな。
この前はツツジを見せてくれたし。
逃げていた時だろうから、どんな思いをしてこの景色を見ていたのだろう。
「何も考えてなかったさ」
また私の顔に出ていたのか、斎藤さんがそう言った。
「考える余裕なかった」
そりゃそうだよな。
「お前みていると面白いな」
斎藤さんが私の顔を見て笑った。
「な、何が面白いのですかっ!」
「会話しなくても、顔見りゃ会話になる」
そう言って再び笑い出した。
そりゃ失礼だろう。
「そう怒るな」
笑いながら言ってきた。
怒ってないぞ。
「面白いな」
私はおもちゃじゃないですよ。
「お前、鈍いところもあるが、鋭いところもあるよな。知っているんだろ?」
な、何がだ?
「俺が何をしているのか」
な、何をって……
「な、何をって、何ですか?」
色々心当たりがありすぎてわからないわ。
「俺が伊東さんと一緒にいる理由、知っているんだろ?」
「し、知らないですよ」
知っているけど、知らないふりをした方が絶対にいいことはわかっている。
「嘘をつけ。顔に出ているぞ」
思わず、自分の顔を自分の手で触りまくってしまった。
「面白い奴だな。だいぶ明るくなってきた。他の連中が起きないうちに帰るぞ」
斎藤さんはそう言うと宿に向かって歩き始めた。
結局、伊東さんのことはどうなったのだろう。
碓氷峠に入った。
ひたすら無言で山道を登っていた。
「おい」
必死になって山道を登っていると、斎藤さんに呼び止められた。
「何ですか?」
私が聞いたら、斎藤さんはニヤッと笑って、
「ここは、出るらしいぞ」
と言ってきた。
「な、何が出るのですか?」
熊なら、江戸に行くときに聞いたぞ。
「山姥だ」
えっ、やまんば?
「何ですか? それ」
初めて聞いたぞ。
「お前、知らんのか?」
前を歩いていた土方さんが驚いて振り返ってきた。
そ、そんなに有名なものなのか?
「しりませんが……」
「山姥を知らん奴を初めて見た」
斎藤さんは笑いながら言った。
だから、山姥って、何なのさっ!
「妖怪だ」
斎藤さんの代わりに土方さんが教えてくれた。
よ、妖怪?
「もしかして、信じているのですか? そんなものいるわけないじゃないですか」
私が笑いながら言うと、
「お前、本当に何も知らないらしいな」
と、斎藤さんに言われた。
それは、どういう意味だ?
「つい最近も出たらしいぞ。さっきの宿で聞いたがな」
そ、そうなのか?本当にいるのか?
「山姥に食われそうになった旅人が、数日前に宿にたどり着いたらしいぞ」
信じられないでいる私に向かって、斎藤さんがそう言った。
ほ、本当にいるのか?
思わず、土方さんを見上げてしまった。
私と目があった土方さんは、
「ま、斎藤がそう言うなら、間違いなくいると言う事だな」
と言った。
わ、笑いながら言う事じゃないともうのですが。
人を食べるなんて、熊より怖いじゃないかっ!
「おい、今からそんなに急いで登っていると、後で疲れるぞ」
土方さんに言われたけど、山姥に食われたくないもんっ!
「本当にわかりやすい奴だ」
斎藤さんの声が聞こえた。
碓氷峠の関所を無事に越え、無事に軽井沢宿に着いた。
今回の宿はここではないので、素通りした。
なんとか山姥に捕まえられなくて済んだぞ。
「蒼良、碓氷峠を越えてほっとしたようだね」
藤堂さんにそう言われた。
「だって、山姥が出るのですよ。怖いじゃないですか」
私が言うと、藤堂さんが笑っていた。
「蒼良はそれ信じているんだ」
えっ、嘘なのか?
「山姥伝説って確かに聞いたことあるけど、実際に会ったって、聞いたことないからね」
そ、そうなのか?
「でも、斎藤さんが宿で聞いたって言っていましたよ」
私がそう言うと、藤堂さんが声を出して笑い始めた。
「それは、からかわれたんだよ」
やっぱりそうなのか?
「でも、山姥は金太郎の母親だって言われているけどね」
そうなんだ。
「山姥と聞くと怖いけど、金太郎のお母さんと聞くと怖くないですね」
私がそう言うと、
「蒼良って、やっぱり面白いね」
と言って、再び藤堂さんが笑ったのだった。
私は、おもちゃじゃないぞ。
そんなことはあってから数日がたった。
今日の宿は、温泉がある例の下諏訪宿になりそうだ。
今日は温泉に入れるぞ。
ここで温泉に入るたびに何かあるような気がするのだけど、そんなことぐらいでめげる私じゃないわっ!
「お前、やっぱり温泉に入るのか?」
土方さんにそう聞かれた。
「入るに決まってんじゃないですかっ!」
何か言われるかなぁと思ったけど、
「やっぱりそうか」
と、一言だけ言われた。
あれ?今回は何も言われなかったぞ。
しかも、下諏訪宿に着くと、土方さんが他の隊士の人たちを集め、
「ここは温泉だから、ゆっくり入るのは構わねぇが、夜遅い時間は入れねぇから気を付けるように」
と言っていた。
「夜遅くなると入れないのですか?」
後で土方さんにそう聞いたら、
「お前が夜遅くに入るんだろ。入っている途中で他の隊士に見つからねぇようにそう言ったんだ」
そうだったのか。
「お前のことだ。俺がなんと言おうと入るんだろ?」
「はい、入りますよ」
「本当に温泉が好きだなぁ」
土方さんはポンッと私の頭を軽くたたいた。
土方さん、なんか優しいぞ。
「何かあったのですか?」
思わず聞いてしまった。
もしかして……
「山姥に食われて、ここにいる土方さんは別な土方さんだとか……」
私が恐る恐るそう言うと、
「ばかやろう」
と、言われてしまった。
「もう温泉に入れねぇぞ」
「す、すみませんでしたぁっ!」
でも、意地でも入るけどね。
一応謝ったら、土方さんは笑っていた。
夜遅くに、温泉に入った。
温泉から出ると、土方さんと斎藤さんが一緒に待っていた。
「土方さんは、こいつに甘すぎる」
斎藤さんが、私の顔を見て言った。
そ、そうかなぁ。
結構げんこつ落とされたりしているぞ。
「甘いも何も、こいつが温泉入っている間って、必ず何かあるからな。他の隊士に見つからないように言っただけだ」
土方さんが、斎藤さんに言い訳するように言った。
「これでコーヒー牛乳なんてあれば最高ですよね」
思わず言ってしまった。
温泉から出たら、コーヒー牛乳だよなぁなんて思ったから。
「えっ、こおひいぎゅうにゅう?」
二人から聞き返されてしまった。
「待てよ。こおひいってかふいの事か? だいぶ前に鴻池家で飲んだやつだろ?」
土方さんがそう言ってきた。
おお、よくわかったなぁ。
「土方さんは、飲んだことあるのか?」
斎藤さんが驚いて聞いてきた。
「ああ、苦くておいしくないぞ。そんなものが飲みてぇって、お前の舌もとうとうおかしくなったか」
いや、とうとうってなんだ?
「あんだけ酒飲んでたら、舌もおかしくなるだろう」
斎藤さん、酒は関係ないだろう。
「ほら、行くぞ。ここで話しているところを他の隊士に見られたら、変に思われるだろうが」
土方さんに言われ、私たちは部屋へ帰った。
「あの、ありがとうございます」
私は、二人にお礼を言った。
多分、私に気を使って待っていてくれたのだろう。
土方さんは他の隊士を寄せ付けないようにしてくれたし。
私がお礼を言うと、斎藤さんは優しく笑い、土方さんは軽く私の背中をたたいたのだった。