六 亀裂
「──聞いているのですか、奥方様」
虚ろな内心を押し隠して、翠玉は椅子に座って猫の莉を撫でながら、いつもの『招かれざる客』に愛想笑いを向けた。
「勿論聞いておりますわ、槐宛様」
毎日手を変え品を変え、よくもまあこうも同じ話題で盛り上がれるものだ。
当初はそれでも真に受けて辟易していたが、最近では自然に耳が聞くのを拒んでしまうらしい。受け流す癖がすっかり身に付いていた。
──どうせまた、お得意の『房中の心得』を蕩々と語っていらしたに違いないわ。
桐より戻った直後に会った晩以来、碩有は以前とほぼ変わらない様子に戻っていた。
ただ一つ変わった所と言えば、時折まじまじと翠玉を見つめる様になったぐらいか。
それは息を呑むほどにどこか切迫感をはらんで、尚目を離せないものだった。
決して触れもせず、ただ見つめるだけ。
視線がこれ程までに責め苦を与えられるなんて、今まで知らなかった。
──何を思い悩んでいらっしゃるのだろう。
せめて、理由を話してくれれば良いのにと思う。
強い眼差しは、ともすれば自分に何かを訴えたいのかと勘違いしてしまいそうで、苦しかった。
「おやおや、随分と奥方様は悠長に構えていらっしゃる。いつまでも御館様を遠ざけられるから、こんな事になったと言うのに」
「……え?」
「殿方は基本的には皆永遠に子供な所がおありになります。人の心は移ろいやすいもの。おあずけを食らっては、さっさと他に鞍替えしてしまう場合だとてあるのですよ」
嘆息混じりな言葉に翠玉は眉をひそめた。
この人は、一体何を言っているのだろう?
「あの、槐宛様。それは一体、どういう」
「どうって、南楼の客人の話に決まっているではありませんか」
「南……。もしかして、最近来られた方の事かしら」
ではやはり、碩有は桐から誰かをここに招いて来たのだ。上の空でいた間に、どうやら槐宛はいつもとは違う話をしていたらしい。
怪訝そうに首を傾げる翠玉に、「やはりお聞き逃しになっていたのですね」と老婆はしみじみ溜め息をついた。
「ただの客人ならばこの様な話を致しませんよ。問題は、連れ帰ったのがあの『榮葉』であるという点です」
「榮……? どなたです、その方は」
少なくとも夫の話には出て来た記憶がない。
「槐宛様。お控えなさいませ」
それまで黙って部屋の隅に控えていた紗甫がいきなり口を挟んだ。
「単なる憶測を奥方様のお耳に入れてはならないと存じます」
常にないきつい調子に、言われた当人よりも翠玉の方が驚いて振り返った。
槐宛は鼻を鳴らして、意に介した様子もない。
「何を言う、紗甫。お前こそ侍女の癖に主人に邸内の話を聞かせないとは何事か。もはや奥方様は枯れ気味の老人の愛妾ではないのですぞ。いつ敵が来るとも知れないと言うのに」
「翠玉様! 槐苑様のお話を信じてはなりません」
「だから一体何の話をしているのかわからないって──」
眉をひそめる女主人に、「客人は女だという話ですよ」と槐宛は吐き捨てた。
「女性?」
「桐の榮葉と申せば、二年前まで御館様の情けを受けていた者なのです。邸の人間は誰もが知っている事実。奥方様だけが知らないというわけには参りますまい」
「槐宛様!」
叫び声を上げた紗甫は、次いで恐る恐る主人の顔を窺った。
翠玉は答えない。不思議そうな表情をしたまま、まるで凍り付いたかの様に見える。
突然それまで彼女の膝でくつろいでいた莉が、飼い主の手が毛を掴むのに驚いて「ギャッ」と短く鳴き声を上げた。
「莉!?」
翠玉が我に返った時には既に猫は庭先へと逃げ出してしまっていた。
「奥様……」
気遣わしげな紗甫の声。彼女は普段通りに侍女を安心させる様に苦笑してみせる。
「どうしたのかしら。……困ったわ。また何処に迷い込んでしまうか……」
「奥方様、どちらに行かれるのですか」
槐宛は内廊下へと足を踏み出した翠玉に向かって鋭い声を投げ掛けた。
「莉を探しに行かないとなりません。申し訳ありませんが、お話はまたの機会になさって下さい」
「お待ちなさい! 猫など侍女に探しに行かせれば──奥方様!」
背中を追う声を全く無視して、彼女の姿は見る間に庭の木々の間に消えていった。
後に残された槐宛は呆気に取られている。
紗甫はこの上なく不機嫌そうな顔をしていた。
「槐宛様。というわけですので、早急にお引き取り下さい」
「何と。ぞんざいな扱いにも程があるではないか」
「わたくしも主のお手伝いをせねばなりません。無人の部屋に用向きもございませんでしょう。さあさあ」
「こ、これ! 押すなと言うのにっ」
立ち上がったその肩をぐいと押しやり、紗甫は無理矢理老婆を部屋から締め出した。
ぶつぶつとぼやく声が廊下を遠ざかったのを確認すると、彼女は庭を思案げな目で眺める。
「翠玉様……」
部屋を空ける、というのは客人を追い返す口実。
主が戻った時、他の者より自分が迎えるのが一番と、紗甫は猫探しの為の人を呼ぶ事にした。
※※※※
「らーいーっ。──莉、何処にいるの? 出ていらっしゃい」
さわさわと風に揺れる木々を掻き分けて、翠玉は気付けば六天楼より遠く離れてしまっていた。
──ここはどの楼かしら……。
ぼんやりと考えながらも、猫探しも何処か上の空である。
──さっき、槐宛様が仰っていたのは何だったかしら……確か、そう……
女性を。
夫が女性を連れ帰ったと、そう言っていなかったろうか。
不意に胸が苦しくなって、思わず手を添えた。
──それは。
殿方は子供な所があると言っていたのを思い出す。いつまでも放置していると、他所へ行ってしまうとも。
だが、考えてみれば確か結婚前に夫は「他に思う人がいる」という様な思わせ振りな態度を取っていた様な気がする。だとすればそれは、自分の話ではなく。
「……もしかして、琳夫人ではありませんか?」
聞き慣れぬ女の声がして、翠玉はその出所を求め辺りを見回した。
内廊下も階も様子は西のそれとは変わらないが、開け放たれた室内の様子は生活感が薄い。一目で客房とわかる。
声の主は、その中からこちらをじっと見ていた。
──もしかして。
翠玉はその場に縫い止められた様に動けなかった。
「貴女は……」
二十半ばに見えるその女性はあまり顔色がおもわしくなく、疲れて見えた。
だが元々は清廉な美貌であった事が容易に伺える。知的で儚げな、それはまるで。
──私には、きっとない要素。
それきり何も言う事が出来ずにいると、女の方がこちらに向かって二、三歩近寄って来た。
何故か彼女は切なげな表情をしている。
しばらくまじまじと見つめられて、翠玉は幾分落ち着かない気分にさせられた。
「あの、失礼ですが……何処かでお会いした事でもあったでしょうか?」
問い掛けると女は軽く息を吐いて哀しげに微笑んだ。廊下に膝を付いて頭を垂れる。
「いえ。初めてお目に掛かります。……その瓊瑶があまりにお似合いで、つい見惚れてしまいました」
確かに彼女の視線は顔かやや下に向いていた様な気もした。翠玉は首飾りに手を当てる。
「不躾な真似を致しまして申し訳ございません」
「い、いえ。お褒め頂きまして──ありがとうございます」
答えながらも何かが引っ掛かる。
「あの、貴女は何故私の顔をご存知なのですか? 一体何処のどなたなのでしょうか」
女は笑んだまま答えた。
「わたくしは夫人のお顔を直接は存じません。ですが、首飾りの方はよく存じておりましたので、すぐに判りました」
彼女の言葉は柔らかく、他意めいたものは感じられない。なのにその一つ一つが、とても嫌な予感を翠玉に伝えてならなかった。
「……ここは、もしかして蓉天楼ではありませんか」
自分でもぞっとする位、問いかける声は低かった。
女は頷いた。
「はい、その通りでございます」
「では貴女は、もしかして」
その先を続けられず、翠玉は黙り込んだ。
聞かずとももう──わかっていたから。
「わたくしは榮葉と申します。故あって、この度しばらくこちらにご厄介になっております者。夫人には一度お目にかかりたいと」
榮葉の話はまだ続いていたが、翠玉はいきなり踵を返して走り出した。
「琳夫人!」
「ごめんなさい、探し物の途中なの。失礼します」
余りにも混乱していて、振り返る事も出来ない。
背中越しにそう言うのがやっとだった。
──桐で知り合いに譲ってもらったと。そう碩有様は仰っていなかったか。
二年前まで、関係のあった女性。
それは自分と結婚するほんの少し前の話だ。
戴剋が自分を枕頭に呼んで彼と引き合わせたのは一年半ほど前だが、もし以前から内々に話していたとしたら?
勢いを付けて、思考は暗い方へと傾いていく。
──お祖父様思いの碩有様。それに当主の遺言は絶対だ。断れるはずがない。
だから自分に今まで触れなかったのだろうか。
庭の半ばまで引き返して翠玉は立ち止まった。
首飾りの留め金を外そうとしたが、指が震えて思うように外せない。
そうこうしている内にふと思いとどまった。
──待って。まだ。……ご本人に、確かめてみよう。
日ごと向けられる暖かな笑顔。
優しい言葉や眼差し、壊れ物を扱う様な仕草。
戴剋も守ってはくれたが、碩有のそれは全く違う。
ただそこにいるだけで安心するのに、それでいて己の何かを深くかき乱される。
あの日々が全て気のせいだったなんて思いたくない。
結局莉を探す事もせず、彼女はとぼとぼと六天楼に戻った。
心配そうにしている紗甫の気持ちはありがたかったが、今は会話する気力もない。
一人にして欲しいと告げ、翠玉は長椅子に伏せって時を待った。いずれ来るであろう、その時を。
※※※※
妻の浮かない顔に碩有は怪訝そうな顔をしていたが、とりあえずすぐにはそれを口に出す気配はなかった。
だからいつもの様に今日あった出来事を話した。しかし翠玉は生返事をするばかりで聞いているのかいないのかわからない。それでもあくまでも優しく、「具合でも悪いのですか」と問いかけて来たのだった。
「いいえ」
今までの返事と同じ様な、素っ気なく短い答えが返される。
碩有は困惑の表情を浮かべた。
「では何か……怒っている様に見えるのは、気のせいだろうか」
「……碩有様こそ、私に何か隠されている事がおありなのではありませんか」
「え?」
低く、何かを堪える様な震えた声。驚いて彼は妻の顔を凝視した。
「翠玉……?」
「今日、蓉天楼で榮葉さんとおっしゃる方にお会いしました。槐苑様より、昔……ご寵愛なさった方だと伺いましたが、本当ですか」
平静を装って言葉を紡ぐのは大変な労力が要った。
言葉が震えない様に、上ずらない様に。
もう泣き出してしまいそうな程、言いたくない台詞だったから。
せめて「出任せだ」と否定してくれないだろうか。
夫の顔を見るに耐えず、顔を背けていたのでどんな表情をしていたのかはわからない。
しばらくの間、碩有は無言だった。
「──本当です。だがもう、それは二年も前に終わった事だ」
ようやくぽつりと、彼は答えた。声音には不快さが滲んでいる。
「ならば何故、今頃こちらにお引取りになるのですか?」
「それは今、残念だが答えるわけにはいかない」
「何故ですか」
「貴女の知るべき事ではないからです」
不快さに苛立ちが加わったかに思える、初めて聞く低い声。
それで翠玉の砦が決壊した。怒りを瞳にみなぎらせて、正面から夫を睨む。
「そうでしょうとも、夫婦とは言っても形ばかりのもの。隠し事の一つや二つあってもおかしくはないでしょうね。戴剋様が亡くなって、もう一年半経つのです。義理は果たしたのではないですか?」
碩有は傷ついた様な顔をした。
「翠玉、貴女は誤解しているのだ。私はそんな」
「何がです? 最初に貴方は仰ったわ。『思う方がいるのなら、それなりの方法がある』と。私の事など構わず、そちらに行かれたら宜しいのです──見えない場所で仲良くされるには、一向に構いませんもの」
怒りは嘘を次々と呼び寄せた。どうせ叶わないのなら、目に付かない場所で幸せになって欲しい。
「翠玉!」
僅かに翠玉の身体が跳ねた。
「本当に──そんな風に思っているのですか」
場違いな位穏やかな声だった。
いつもの様に椅子に並んで座っている。伸ばされた手が彼女の華奢な肩を掴むのにそう時間はかからなかった。
「せ……碩有……様……?」
「私が」
視線は熱をはらんで見る者を射抜き、翠玉は自分が夫の逆鱗に触れてしまったのをようやく悟った。
「どれだけ先に心を掴もうとしても、貴女はそんな風にしか私を見てくれないのですね」
一瞬の出来事だった。翠玉を横抱きに抱え上げると、碩有は房を奥へと大股で突っ切る。
寝台の上に妻のその身体を投げ出した。
「ち、ちょっと、待ってください。落ち着いて──」
常にない様子に恐怖さえ覚え、夫の身体に手を当てて何とか押し戻そうとする。が、びくとも動かない。
灯火の届かない寝室は薄暗く、碩有の下に組み敷かれた翠玉に闇が訪れた。
不穏な気配の、闇。
「それとも──最初から、祖父の妾として扱えば良かったのか」
呻く様に吐息と共に吐かれた言葉は、翠玉には死刑の宣告の様に聞こえた。