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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第一部 
6/24

五 桐にて※

 鳳洛に戻る前、西邑に車を向けた碩有らは陶家所有の紡績工場へ辿り着いた。

 桐は元々陶家の直轄地、邑の三割近くの敷地を埋める工場は規模も大きく雇っている工員も多い。実に領土内のほとんどの糸の生産をここで行っていた。


「朗世、使いの者を遣って扶慶殿にはしばし遅れると伝えろ」


 車を降りた碩有の言葉で、朗世は主がこの工場を視察するのを内密にしたがっているのを理解した。歯切れ良く返事をして別の車にいる供の一人に指示を出す。その間にも、碩有はさっさと裏門から敷地に入って行った。

 傾斜の急な独特の屋根は色も灰とくすんでいて、かつては白壁であったろう外壁も汚れて漆喰にひびが入っている。百は優に超えるであろう同じ造作の建物が均一に並ぶさまは、まるで廃墟の群に紛れ込んだようだ。建物の煙突から煙は立ち上っているが、人の活気をまるで感じない。


「奥には工員達の住居もあるはずだが……本当にこの様な場所で暮らしているのだろうか」


 碩有は建物の脇道を進んで、換気をする動力施設の方へと向かいながら顔をしかめた。

 「気缶室」と札が掲げられた別棟は、建物の割に扉が小さかった。扉に手を掛けてみるが、木造のそれは見かけよりも頑丈でびくともしない。


「園氏はまだ来ないか」


 朗世は懐中時計を取り出して「少し時がある様です」とだけ告げた。

 そもそもこの視察を行うと桐に告げた後、碩有は潜入させる部下園氏にある指示を与えていた。

 まず工員の身形と健康状態を報告する事。

 それに気缶室の合鍵を作って、決められた時刻にこの場所に来る事であった。

 紡績工場はその作業過程でどうしても糸埃が発生する為、換気を良くしなければ働く者達は肺を患う。

 気缶室がきちんと動作しているかを確かめるのは、「病気が発生している」という報告の裏づけまたは原因の消去法の為であった。扶慶が機械の手入れをさせていないのであれば、案内してもらえない可能性があると踏んで先回りしたのだ。


「お待たせ致しました」


 工員の作業着を着た男が足早に碩有達に近づいて来た。四十代ぐらいに見える、くたびれた出で立ちをしている。髪も櫛を通していないのか、という乱れ具合だ。


「園氏か? 随分と見違えたな」

「冷静に言わないで下さい、朗世様。この格好は工場内では普通なのですから」


 園氏と呼ばれた男は苦笑している。間諜として潜入した彼は朗世の部下、普段は身形に気を遣う風流人で知られていた。


「鍵は作れたか」


 上司に促され、園氏は懐からそれを取り出した。


「よくやった」


 碩有も労いの言葉を掛けて鍵を受け取る。だが園氏の表情は晴れなかった。


「ですが御館様、少しばかり厄介な事態になりまして──扶慶殿が、今この工場に到着されました」

「情報が漏れたというのか」

「何れからそうなったのかは推測の域を出ませんが……申し訳ございません」


 ひざまずいて許しを請う園氏を、碩有は制した。


「お前のせいではなかろう。むしろ扶慶がそう暗愚ではないことの証だ。方向が誤っているのが何とも残念だが──また別の方法を考えれば良い」

「……は! 寛容なお言葉、身に染み入りましてございます」


 感極まって結局ひれ伏した部下に、特に表情も変えずに朗世は問いかけた。


「それで園氏、扶慶殿は我らが到着しているのに気づいているのか?」

「いえ、それはまだですが……工員達の服装を着替えさせております。建物内も、昨日からいきなり清掃をし出しまして」


 受け取った鍵で気缶室の扉を開け、碩有は中に入った。室内を歩きながら吐き捨てる。


「悪あがきを。せめて体裁を整えるつもりか──朗世」


 彼は換気装置の計器を指差した。


「はい」

「報告書を見せてくれ」


 朗世が鞄から取り出した書類を受け取ると、見る見る顔が険しくなった。


「機械のこの目盛を見てくれ。現在の稼動出力が数値でわかる様になっている。一月の工場内装置の稼動数値一覧の総数値を操業日数で割っても、この数値にはならないぞ」


 朗世も覗き込んで眉をひそめた。


「そうですね……確かに、報告書では二倍近くの稼動数値になっています」

「考えられるのは他に機械を操作しているかもしれないという可能性だが、届出のある機械は別に報告数値がある。となればもはやこれは、水増し報告しかあるまい」

「工員が病気になるわけですね……しかし御館様。どの様にこれについて証拠を突き付けますか? 確たるものがなければ、のらりくらりとかわされるのが目に見えています」

「確かにそうだな──」


 元通りに扉に鍵を掛け、碩有はしばし考える素振りを見せた。だがそれもすぐにやめて、再び歩き出す。しかも正門の方に向かって。


「御館様?」


 怪訝そうに後を追う朗世達に、振り返りもせずに彼は言った。


「それは当人に会ってから出方を決めよう」

「ああ、こんな所にいらしたんですか!」


 絶妙の時機というべきか、表の方から恰幅の良い五十絡みの如何いかにも貫禄のありそうな男が姿を現した。背後に何人か供を連れている。

 彼らが近づく直前、碩有は背後の部下にだけ聞こえる程度の声で「むしろ堂々と突き付けて動きを見るのもまた一興。この程度隠せない者、狼狽して余計な足掻きをするかもしれないからな」とわらった。


※※※※


「ああ扶慶殿、申し訳ない。どうやら正門を間違えて裏から入ってしまった様だ」


 剃刀の様な皮肉だ、と感心する朗世を尻目に、主は余裕の笑みを浮かべて扶慶に歩み寄った。


「はは、御館様は仕事熱心でいらっしゃいますな。先に現地を視察すると一言仰って頂けますれば、ご案内致しましたものを」

「どうやら連絡が遅れた様だ。若輩者の至らぬ点、ひとえにお許し頂きたいものです」


 台詞とは裏腹のつらと悪びれない態度に、ただただ扶慶は恐縮して見せた。


「いえいえ、とんでもございません……こちらこそ報告書の作りなおしが遅れておりまして、申し訳ない限りでございます」


 正門へと促しながら、扶慶の口上は続いた。


「作成した担当の者が急病に罹りましてね。何とか報告させながら私が自ら作っております次第で……」


 碩有達は正面玄関に辿り着いてやや面食らった。工員達が勢揃いして入り口から内部へと、一列に並んで道を作っていたからだ。


「扶慶殿。ここまで気を遣わなくとも。私は普段通りの皆の姿が見たいと思っているのだが」


 何を仰います、と町長は大仰に異を唱えた。


「皆御館様のお出でを心待ちにしていたのですよ。せめてもの歓迎の意を表したいと申し出がありまして──何となれば、我々が元気に働けるのは陶家の方々が領地を平和に治めてくださるおかげなのですから」


 碩有は一瞬言葉に窮した。主の表情を一瞥した朗世も、そこに激しい嫌悪を押し隠しているのを看取り対応に迷う。


──皮肉の応酬だな。


 だが次の瞬間、碩有の顔は面を被った様な笑みを取り戻していた。


「それはこちらの言葉でしょう。扶慶殿は民の信頼も篤いご様子。長い年月には様々な出来事があるでしょうに、町を発展させ続けるのはかなりの手腕を問われるものと思います。期待しておりますよ──数値だけではなく、内実の伴った正確な報告を頂ける事を」

「いやはや、お手柔らかにお願いしたいものですが……では工場内をご案内しますよ」


 はは、と笑って扶慶は二人に先立って歩き出した。

 園氏の姿はいつの間にか消えている。持ち場に戻ったのだろうと、朗世は居並ぶ工員達を視線で一撫でした。

 工場の男女の比率はほぼ同数。やや女性が多い、という程度である。領土内の特徴として、男女に職業の別はほとんどない。衛兵でさえも女性がいる位なので、それはごく普通の光景だ。

 問題は──清潔そうな作業着を着てはいるものの、皆一様に顔色が良くない点だった。

 唇は干からびて皮が固まっているし、指も乾燥して荒れている。確かに普段の園氏の格好では全く馴染めないだろう。

 労働者が領主一族の様に装う事は出来ないにしても、多数の人間が健康を損ねるにはそれなりの理由があるに違いない。

 そこまで観察して彼は、一歩前を歩く碩有の視線がある場所に固定されているのに気づいた。


「御館様、どうかなさったのですか」


 どうという事のない状況に見える。並んだ者達の年齢層は結構広い。若い女も何人かいた。彼はその内の一人を凝視している。

 夫人に夢中な先刻の様子を見ていたから、すっかり失念していたが──もしや気に入った娘でもいたのだろうか、と考えて──漸く彼は、その女性に見覚えがある事に気がついた。年の頃は二十ニ、三。記憶が正しければ二十三になる筈だ。


──様子が変わっていたから、わからなかったが。この娘。


 今日は貴重な一日として記憶に残るに違いない。御館様が惚気のろけたり狼狽うろたえたりするなど、かつてない出来事だ。


「……榮葉えいは


 主の呆然とした声を聞きながら、朗世は思わず我が耳を疑った。


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