四 疑惑の兆し
碩有が訪れない最初の一日は落ち着かずにいた翠玉だったが、気晴らしにと始めた花細工に殊の外熱中してしまい、二日は矢のごとく過ぎ去った。
この地方に伝わる活花は、ただ花瓶に切花を活けるものではなく、緻密な技術によって考えた形に則って花を挿していく。完成度が高ければ、正に芸術品とも見紛うものが作られるのだった。当然時間も結構かかる。
「これでよし……と」
出来上がった花細工を彼女は満足そうに眺めた。
流線美を誇る、絶妙な形の色とりどりの花。
──碩有様に差し上げたら、喜んで下さるだろうか。
それでもこの二日、夫のことを考えなかった時はほとんどないと言っても良かった。花を活けている間も、思い浮かべていたのだ。仕草を、声を、言葉を。
触れられた手の平の感触を。
「お美しゅうございますね」
はっと振り返ると、紗甫が食器盆を持って卓の側に立って微笑んでいた。
「まあ翠玉様。食事に手をお付けになっていないではありませんか」
すっかり冷めてしまっている食膳を見て、侍女は困惑の表情を浮かべた。
「あ、ごめんなさい。つい作業に夢中になってしまって」
「あまり根をお詰めになると身体に毒ですよ? 温かいものを代わりに持って参りますから、お食事をなさってください」
そう言って膳を下げようとする娘を、翠玉は手をかざして止めた。
「そのままでいいわ」
「ですが──」
「作り直しなんて勿体無いもの。今食べるから、ちょっと待っていてもらえるかしら」
紗甫はにっこりと微笑むと「わかりました」と脇に控える。
六天楼に入った時より自分に仕えてくれるだけあって、主の行動に慣れてくれた様だ。他の使用人には『流石は卑しき庶民の出』と陰口を叩く者もいると、彼女は知っていたが──そうではない者もいるのが嬉しかった。
着物も食べ物も、生家においては一片たりとも無駄にしないで活用していたから、ここに来た当初は驚愕すると同時に呆れもしたものだ。
民の血税を搾り取って、領主は浴びる様な贅沢をしている、と。
「うん……流石ね。冷めていても美味しいわ」
「料理人に『美味しかった』と伝えておきます」
翠玉は侍女に「よろしくね」と柔らかく微笑んだ。
戴剋は自分に色々なものを買い与えてくれた。それはそれでありがたく、勿体無いものだったと思う。優しくしてくれたのもまた──事実だったから。
ただ、引き換えに『自由』というものは生涯手に入らなくなったけれども。
彼女の生家は事業に失敗し、一家が離散の憂き目を見て翠玉は人買いに売られる羽目に陥った。
滅多に外出しない戴剋が、年に一度の寺参りに向かう途中で偶然馬車に乗せられる現場に通りがからなければ、今頃彼女はどこぞの豪商の妾にでもなっていたかもしれない。
確かに領主の側室、というのは世間一般では妾と同じなのだが。
翠玉は前夫には複雑な気持ちながらも、感謝していた。
「そう言えば」
食事を終えた後、さりげない風を装って切り出した。逸る気持ちを紗甫に悟られるのは少し恥ずかしかったので。
「今日は御館様の戻られる日ね」
「はい、先ほどより表の方が騒がしゅうございますから、もう戻られたかもしれません。奏天楼も人が出入りしている様ですし」
紗甫は膳を手にして「確かめて参ります」と言い残して去っていったが、程なくして怪訝そうな面持ちで戻って来た。
「どうやらお戻りになられたのは間違いない様ですが……蓉天楼の方にも荷物が入っているそうです。お客人を連れていらっしゃっただけだとは思いますが」
「お客様……?」
南の蓉天楼は公用に使われる棟だから、紗甫の言う通りなのだろう。
だが夫は出かける前、極秘に現地調査に行くと言って出かけたはずだ。領主に刃向かう様な地で、迎えるべき客人とはどんな人間なのか──翠玉は少しばかり引っかかりを覚えた。
流石に問うほどの事はないので、その晩碩有がやって来た時にはすっかり忘れてはいたのだが。
食後にまず彼女の方から自分のお手製の花細工を見せると、彼は手放しで喜んでくれた。
「お祖父様から伺ってはいましたが、やはり貴女は多才ですね。僕は文芸の方はさっぱりなので、尊敬します」
照れる翠玉に「代わりと言っては何ですが」と碩有は懐に手を入れる。
久しぶり──と言っても、会わずにいたのはたったの二日。なのに随分と顔を見ていなかった様な気さえして、どぎまぎしてしまう。
「貴女に似合うのではないかと思って、持ち帰りました」
彼は小さな包みを卓に置いた。
細長い、天鵞絨と呼ばれる異国渡りの布張りの匣だった。
「これは……?」
「開けてみて下さい。螺子よりは増しなものが入っていると思います」
碩有は冗談めかして微笑った。
恐る恐る匣を手にとって、繊細な意匠の金具を外し蓋を開ける。布に埋もれた中身が目に入った瞬間、思わず息を呑んだ。
「すっかり失念していましたが、桐は装飾品の加工も行っている町なのですよ。北の瑶から石を運び込んで作るのです。貴女には、碧玉が似合うのではないかと思いまして」
絶句している妻の代わりに彼は説明した。対する翠玉はというと、余りの見事さに声が出ない有様である。
それは大きな碧玉を縁取った首飾りだった。
瓊瑶の周りには小さな黄緑色の石がならんでいる。その造形美の見事さもさることながら、留め金や首周りの鎖にも蔓の模様が幾重にも重なり繋がっていた。新しいものではないらしく、鈍く光るさまが逆に何とも言えない風合いを醸し出している。
戴剋の元で豪華な装飾品に少しばかり慣れた筈の翠玉の目にも、この首飾りは素晴らしいものに見えた。同時に非常に貴重な芸術品であろうということも。
「──こ、こんな高価そうなものを、私に?」
彼は頷いて、並んで腰掛けていた長椅子から身体を前にかがめると「付けてもらえますか」と、首飾りを手に取った。
「い、いえそんな。あまりにも……」
恐縮する翠玉には構わず、引き輪の形になった留め具を外す。
「もう持ってきてしまいましたから、辞退はなしです」
笑いながら彼女の首に腕を回して、項の辺りで留め具を繋げる。ぱちり、と音がした。
翠玉は視線を下げ、襟元に広がる美しい光景と──これを夫が自分の為に選んでくれたという事実にただ唖然としていた。
「ああ、やはりよく似合う」
さっきよりも間近で紡がれる声は心なしか低く、彼女の心に染み入る。
既に息苦しいほどに早鐘を打つ胸を宥めるべく、彼女は「この縁の石は何というものですか?」と質問で場を凌ごうとした。
「橄欖石と言うそうです」
「……聞いたことのない名前ですね。桐ではよく知られているのかもしれませんが」
「いえ、多分珍しいものだとは思います。あそこには知り合いがいたのですが、たまたま装身具などに詳しい人だったもので。その人を通して譲り受けたのですよ。百年ほど前に作られたものとか」
「ひゃくっ……!?」
本来それ相応の宝物殿に納められる様な代物ではないか──驚きのあまり、翠玉は伏せていた目を見開いて──故に、自分を見つめる碩有のそれにまともにぶつかってしまった。
「碩有様──」
何かが来る、としか言いようのない感覚に縛られて言葉を失う。
次の瞬間、彼女は碩有に抱きしめられていた。
──えっ。
顔が近づいた瞬間、正直なところ「これはもしかして接吻では!?」と軽く身構えていた翠玉は、夫の身体の感触に真っ白になりながらも頭の中では混乱を極めていた。
順番を飛ばして来たのかもしれないし、どちらにせよ今日こそこちらにお泊りになるのでは──そう期待したのも確かだ。
碩有の腕の中は、予想以上に心地よい居場所だった。
──気が遠くなりそう。
自分の鼓動が、彼に聞こえてしまうのではないだろうかと心配する。ふと気づけば、逆に翠玉の耳にもそれは然りで──少し早めに思える心音が、寄せた頬の辺りから聞こえてきた。
どの位そうしていたものか、いきなり碩有は彼女の身体をぐいと引き剥がした。
「せ、碩有様?」
呆気に取られて見上げた顔は、複雑そうな表情をしている。そこで初めて、翠玉は彼自身もどうやら混乱しているらしいと理解した。
理由は全くわからないけれど。
「──今日はそろそろ戻ります」
「えっ!?」
思わず大きな声を上げてしまった彼女を一瞬不思議そうに見たものの、彼はすぐさま扉に向かって歩き出した。
まさに房から出ようとする時、首だけで振り返る。
「その首飾り、僕と会う時には付けてもらえますか」
「は、はい。あ……りがとうございます、大切にします」
慌てて礼を言うと彼は少し照れた様に笑みを浮かべて、去って行った。
「……私、何かしでかしたのかしら」
取り残された翠玉はしばし呆然と先ほどの出来事を反芻していた。
でもまあ、抱きしめてくれたということは全く望みがないわけでもないのかもしれない。
首を彩る、新しい贈り物に触れた。碧玉の輪郭を指でなぞる。膚にあってもひんやりと冷たいのは、貴石の証と聞いていた。
それにしてもどういうことなのだろう。最後に離れた時の、彼の顔はまるで。
「私に、触れないと決めているみたいだわ……」
戴剋様と約束でも交わしていたのだろうか──そう思えるほど、碩有の態度は理解しがたいものだった。
石は冷たいのに、彼女の身体の熱は鎮まらない。
翠玉は己を醒ましてくれるものを求めて、侍女を呼ぶ声を上げた。
脚注2:橄欖石は、ペリドットをイメージしてください。