三 彼我(ひが)の憂鬱(ゆううつ)
領国内のほぼ全ての工事業を請け負う東の町桐は、碩有達が住まう都『鳳』より三十里ほど離れた場所にある。
領主の住まう都は『洛』といい、名を冠して領民は都を『鳳洛』と呼んだ。
極彩色の甍の連なりは洛ならではの繁栄を表して美しい。にも関わらず、さして感銘も受けない様子でぼんやりと眺めながら、公務用の背広姿の碩有は後部座席に座って部下朗世の報告を聞いていた。
「……上納書を見る限り、ここ半年の交易品の取引高は横這い状態です。しかし、私が独自に調査させた関所での貨物通行量は、増加の一途を辿っています。なのにその報告はなされていない。この数字は改ざんされている可能性があります」
広い車内には彼と主の二人きり。運転席は仕切られている為、上部に設けられた小さな窓を通してしか、彼らの会話を聞くことは出来ない。
しかも今は遮断用の内戸を降ろしているから、車内は完全防音となっていた。
内からしか透過しない車窓、外の景色から視線を外そうとしない碩有に構わず、朗世は白皙の色を全く変えることなく報告を続ける。
「町長扶慶殿に上納書の不備を指摘し、理由の説明を求めましたが七日の間音沙汰がございません。彼は先代より町長を勤めておりまして、支持する者は多いと聞いております」
碩有は初めて、顔をほんの少しだけ車内──向かい合って座る部下──に向けた。
「民の支持『だけ』高いとはな」
朗世も頷く。
「町の貧富格差は以前より激しくなっているのにも関わらず、支持は依然高いまま。人心の操作を考慮してもよろしいかと存じます」
「わが陶家も見くびられたものだ……これは早々に処理せねばなるまい」
碩有は端整な面に冷笑を浮かべた。
元々表情に乏しい朗世は、表面上は何事もなくそんな主の顔を眺めながら、内心疑問を禁じ得ない。六天楼で夫人に接している男と、とても同一人物には思えなかったからだ。
物心ついた時から仕えている彼だったが、『こちら』の顔しか知らなかったので始めはひどく衝撃を受けた。
確かに家族に対しては優しい一面を持ち合わせている主だったが、若くもない、義理でもらい受けた妻に対してあそこまで尽くすとは。
「既に園氏らを現地に潜り込ませてあります。工員達の間に不衛生故の病気が広まりつつある様ですので」
碩有の両眼に苛烈な怒りが宿った。
「処置は」
「薬と知識を。隠密裡にはそれが限界でございます」
「そうだな。ご苦労だった。後は奴を片付けてからの話だな」
是、と短く朗世が返事をすると、彼はまた車外の風景に目を向け始める。
主をそのままに手元の書類を読みながら整理していたが、ふと呟きが聞こえて来て目を上げた。
「何かおっしゃいましたか」
「ん? いや、ちょっとな」
碩有は微苦笑を浮かべた。
表情から朗世はおおかたの内容を察知したが、あえて追及はしなかった。再び書類に意識を戻す。
ややしばらくの間を置いて、予想通り相手の方から問い掛けがあった。
「桐の特産物で土産になりそうなものはあるだろうか」
「……夫人へのお土産でございますか」
碩有は頷いた。聞き返す声に熱が全く入っていなかったのは、気付かれなかったようだ。そこに皮肉が含まれていたことも。
「農耕器具や自動車、産業用機材などが主流な商品ですからね。お土産となると車辺りになりますでしょうか」
「車か……」
悩む様子に朗世は呆気に取られる。
「考え込まれる必要はございますまい? あの御方は館から出ることなどないのでしょうから」
「いや、少し考えていることがあってな」
嫌な予感がして、朗世は自身に驚いた。何故『嫌な』予感なのかがよくわからない。主が女にうつつを抜かしているからだろうか?
「──他には細工物の装身具などもございますから、そちらの方がよろしいかと」
理論と現実を重んじる彼には似合わず、理由はさておいても車を買わせたくなくて話を逸らした。
「なるほどな、装身具とは良い思いつきだ」
「夫人は瓊瑶を最近お付けにならないと、以前おっしゃっていたのを思い出しまして」
「そうなんだ。お祖父様から贈られたものはしまってあるらしくてな。着物ぐらいは身に付けているが」
「夫人なりに気を遣われているのでしょう」
世間一般的な感情としては、前の夫の思い出の品を見せるのは相手に失礼と思うからか。朗世は男女の機微にあまり関心がないので、あくまでも一般論でしかこういった場合にものを言うことが出来ない。
「御館様が新しいものをお与えになるべきでしょう。そうすれば、気を遣う必要もなくなりますから」
「……ああ」
短い返事の後、主はまた窓の外の風景に視線を戻す。だが長年仕えて来ただけに、朗世にはその顔が上機嫌に──とても、が頭に付く──なったのがわかっていた。
──凶兆ではない。夫人は必要なのだから……例えどのようなものであっても。
いかに新婚早々だったとしても、当主の責務を疎かにする主ではない。それはわかっている。
けれども彼は有能な臣下の顔に戻り仕事を続ける際に、知らず諦めの溜息を静かに吐かずにはいられなかった。
※※※※
車で一刻を駆け桐の町に入ると、予想以上の荒廃ぶりに碩有らは顔をしかめた。
「……何だこの変わりようは」
朗世はその呟きに答えないことで同意を示した。
まず一見して、町の様子が暗い。今はまだ午には時があるとはいえ、あまりに雰囲気が悪く見えるのは、道の隅に身形の悪い者達がうずくまっているからばかりではない。
建物の外壁はくすんで色が悪く、かつて街路樹が植わっていたはずの歩道は殺風景な石畳に変わっていた。役所として町を支える公文関などの公共機関や、周りに並び立つ露天商街でさえもひっそりとしていて活気がない。遠くにぼんやりと見える工場の煙突からは、さすがに稼動の証として青黒い煙が立ち上っていたが、ただ空気が悪いことの証明にしかならないとも思えた。
数年前碩有が領主の政務勉強の為に滞在していた時には、朝から夕方過ぎまでさまざまな食物や物資が所狭しと並んでいたのに──町民にとっても、貴重な市場であったはずである。
「南邑に回ってみましょう」
主の許可を得ると、朗世は仕切り小窓を開けて運転手に行き先を指示した。
町の区画は『正区』と『間区』に分けられる。
内北の正区は公文関や官邸などの役所、東のそれは富裕層の住宅、西は工場が立ち並ぶ。それぞれを北邑、東邑、西邑と言い、北東などの庶民の店や家が並ぶ間区を北肆、東肆、などと言った。
陶家が治める町は大体において、以上の様に造りを同じくしている。故に南の正区は歓楽街──今の時間ならばひっそりと静まり返っているはずの──となっていた。
「区の端に車を止めてくれ。歩いて様子を見よう」
部下の意図を、碩有も理解したらしかった。
南に下ると、打って変わって派手な色の建物が目に入る。道行く人はいないが、建物の傷み具合はさほどでもなく、むしろ豪勢に飾られていた。
「どうやら抜き打ちで視察に来たという情報が漏れたらしいな」
碩有は吐き捨てた。
「だとしても、建物までは急にどうこう出来ますまい。これは相当娯楽施設に力を入れている様子。洛庁への届出もせずに、言い逃れ出来ると思っているのでしょうか」
「……西邑へ回るぞ」
町の産業には決まりがあり、変える場合には鳳洛の公文関『洛庁』に届出、許しが出た場合にのみ変更が叶う。領土内の物資や貨幣の流通に関わるからだ。
守らなければ国は均衡を失い、経済の混乱を招きかねない。
何より領主を主と思わない不遜な行いである。
──扶慶という男、ここまで浅慮を為すとは思わなかった。
声の低さにとてつもない怒りを感じて、朗世も黙って後に従い車に戻った。
脚注:瓊瑶と書いて「ほうぎょく」はあてルビです。
言葉自体は、美しい玉やすばらしい贈り物という意味となっております。