二 妻の役目
いつの間にか手が止まっていたらしく、あまりに静かな部屋に気づいて翠玉は溜息をついた。
薄曇の昼下がり、庭に面した扉を一杯に開けていると柔らかな風が時折頬をくすぐる。手にしていたのは、音箱が真円な事から月琴と呼ばれる異国渡りの弦楽器だった。
外出が容易に叶わない身なので、六天楼での生活は結局いかに暇を潰せるかに懸かっている。幸いにも翠玉は学芸に興味があったので、側妾時代から戴剋に望んで与えてもらった楽器や道具などで退屈を覚える事は少ない。
今弾いていたこの月琴も、故郷の地歌が得意だと言ったら彼が買い与えてくれたものだ。
だから溜息の理由は、退屈などではない。
「奥方様」
いつもと違い改まった紗甫の声がして、彼女はびくりと身構えた。
──来たわね。
側仕えの少女は、普段ならば自分を「翠玉様」と親しげに呼ぶ。表立っての呼称を口にするのは、他に第三者が居合わせる時のみだ。しかも様子からして礼儀に気をつけなければならない相手らしい。
となれば、おおよそ相手の察しはつくというもの。
「槐苑様がお見えになりました」
房の入り口、開け放たれた格子戸脇に控えた紗甫は、主の表情を読み取ってかこちらにほんの一瞬だけ苦笑を向けた。
「……お通しして」
内心断りたい気持ちで一杯だったが、相手が相手だけにそうもいかない。
もっとも、「だからこそ断りたい」というのが正直なところなのだが──
紗甫が廊下を振り返るのを待たずして、質素ながらも隙のない身形をした老婆が「失礼致します」と房内に入って来た。
「槐苑様。ようこそいらっしゃいました」
「奥方様にもご機嫌麗しいご様子で、何よりじゃ」
にっこりと愛想笑いをして椅子を勧める翠玉に、おざなりな言葉で顔色一つ変えずに老女は当然のごとくどっかと腰を下ろした。
噂では八十を優に越えているというこの女性は、娘時代より六天楼に入り人生の大半を過ごしていると聞く。何代か前の当主の側妾であったのを、才能を買われてそのまま世話役として残ったとか。
同じ側妾出身だからなのか、それとも元からこうなのか。槐苑は概ね翠玉に対してぞんざいな態度を取った。
「今日は何の御用でしょうか?」
紗甫が円卓に茶器を並べていく様子をじろじろと眺めている槐苑に、翠玉が辛抱強く問いかけた。
本当は用事などわかっている。碩有の妻となってからというもの、三日に明けずやってきては同じことを繰り返すのだから。
「用事というほどでもないですがね。その後どうですか、御館様はこちらにお泊りになられますか?」
予期していたにも関わらず、翠玉は一瞬返答に詰まった。
「……いいえ」
老婆は大仰に眉を上げて見せる。
「いけませんね。ご結婚されてからもう半年にもなるのですよ? お気楽に構え過ぎなのではありませんか」
「そうおっしゃられましても。こればかりは、私の一存ではどうにもなりません。御館様はお忙しいのでしょう」
槐苑は彼女を睨み付けた。
「女としての努力が足らないのでは、と申し上げているのです」
──またか。
槐苑の問いは、単に「寝泊りしたのか」という意味ではない。
つまり「肉体関係を持ったのか」と聞いているのだ。
領主の家にはこのようなことを気にする人間は多い、それは翠玉も頭ではわかっている。当主が妻に手を出す出さないは、跡継ぎにも関わる重大な問題だからだ。
碩有は今のところ翠玉以外に女性はないが、この先もし他に寵愛する女が出来れば話がややこしくなる。
六天楼ご意見番としての槐苑は「まず正夫人に第一子を。それが争乱なく収まる方法じゃ」と常に言っていた。
言いたいことはわかっているのだが──
翠玉は唇を噛み締めた。
「聞けば、御館様は毎日こちらへはおいでになるそうではありませんか。夕餉を召して、貴女と語らった後自室にお帰りになるとか。御館様のような成年の男子に、一人寝を続けさせるなど以ての外。奥方様は確かにお美しいですが、たまには紅をさしたり香を焚いたり、しどけない格好なぞしてみてはいかがです? 若いお二人のこと、一つ褥に入ってしまえばあちらの方も──」
「槐苑さま! 言い方が露骨ですっ」
延延と続きそうな説教を、彼女は顔を赤らめて遮った。老女はきょとんとしている。
「おや。これは戴剋さまの元寵姫とも思えぬ発言ですの。生娘でもあるまいし」
「……それはともかく。理由なんて、ご本人に聞いてください。私は別に、普通に接しているだけです」
「いけませんのう。このままではその内、足元をすくわれることになりかねませんぞ」
「わかりました、わかりましたから! 私、することがあるので。申し訳ありませんが」
もう礼儀とか半ば追いやって、いつも通りの追い払い文句を言う。にも関わらず、これまたいつも通り槐苑の説教は半刻ほど続いた。
「……今日も長かったですね」
招かれざる客がようやく帰った後、茶器の後片付けをしながら紗甫が笑い混じりに言った。
長椅子の腕置きに顔を伏せた状態で、翠玉は呻く。
「もう、何なのよあの人! そんなに世継ぎが気になるのなら、碩有様に直接話せばいいじゃない。私だって聞きたいぐらいよっ」
「翠玉様──」
紗甫の戸惑う声に、彼女は顔を上げた。
「お前なら毎日見ているから、わかるものね。気を遣わなくていいのよ。……きっと、槐苑様の言う通りなんだわ」
「御館様は、翠玉様を大切になさっているんですよ。一応、戴剋様がお亡くなりになってまだ一年半しか経っておりませんもの」
確かに、そうかもしれないとは翠玉自身も思う。世間一般では、夫を亡くして『まだ』一年半なのだ。一生独り身を通す人だっているだろう。ましてや、当初自分はこの話に反対していた。
だから今の状況を、これ幸いとしていれば良いのだが。
「……ねえ、紗甫」
「はい」
「やっぱり、紅ぐらい差した方がいいのかしら」
侍女は少しの間呆気に取られたような顔をしていたが、くすりと笑って「畏まりました」と、化粧道具を取りに物入れへと向かった。
※※※※
「今日はいつもと雰囲気が違うような気がしますね」
食材豊かな芸術的とも言える食卓を囲んで、碩有は屈託のない笑みを見せた。
「え……、違うって、どの辺りですか?」
内心どきりとしながら、翠玉はあえて聞き返す。
「どこと言うか……そう、貴女の。顔色がいつもより良く見えます」
気づいてくれたのだ、と喜ぼうとして彼女はふと引っかかりを覚えた。
「それって、いつもは悪いってこと?」
いや、と碩有は幾分か慌てた様子である。
「貴女はそのままでも充分──別に他意はないですよ」
翠玉は思わず顔を赤らめて何も言えなくなった。
「ああ、何だかさらに顔色が良くなりましたね」
「……何言ってるんですか!」
からかう夫の笑顔の眩しさに、直視することが出来ない。思わず顔を料理に向け、食事に集中している振りをする。
戴剋から婚約を言い渡された時が嘘のように、碩有は翠玉に優しかった。
毎日楼には花が届くし、こうして語らう際に少しでも彼女が興味を持っているとわかれば次の日にはその物が届けられた。
さすがに一度たしなめてからは回数が減ったが、戴剋も似たようなことをしていたから、話を聞いているのかもしれない。
黙っている時にはいかにも怜悧そうな顔が、こうして笑うと一瞬にして暖かな印象に変わるのも驚きだった。
「そうそう、明日からしばらく桐に行くので、二日ほど夕餉はご一緒出来ません。お土産を買ってきますので、何か希望はありませんか?」
領主の責務として、彼は度々遠方へも足を運んで現地を視察している。工業の町桐の噂は翠玉も聞いていた。形の良い眉をひそめる。
「お土産はともかく、大丈夫なの? あの町は、最近良い話を聞きませんが……自ら出向かれるのは危険ではないかと」
碩有は微笑んだ。
「だからこそ行くのですよ。領主が椅子に隠れて命令だけでは、油断して従わない者が出てくるのです。それに、朗世や護衛も連れて行きます。心配されるには及びませんよ」
「……そうですか」
持っていた箸を置いて、翠玉は目を伏せた。
戴剋は高齢なのもあり、邸宅からは滅多に外には出なかった。だが碩有は違い、何事も自分で確かめるのを基本としていた。腹心の部下で切れ者と名高い朗世を使って、さらに何人もの精鋭を動かして政治を行っているという。
安寧を貪っていた古参の家臣には、それを良しとしない意見もあるらしい。
「領民から不平の声が上がっているのです。私も以前あの町に滞在していたことがあるが、その時には平和そのものに見えました。何かが変わったのかもしれません」
食事が終わると、彼はいつも翠玉の房でしばし話をした。内容は政治のこと、お互いの趣味のこと、家族のこと。さまざまだった。だから今日桐の話題が続いても、翠玉は全く不思議に思わず聞いていた。
「それより、お土産何も希望はないんですか?」
「え、だって桐は機械工場の町でしょう。特産物なんて、螺子とかでは」
大真面目に彼女が言うと、碩有は吹き出した。
「そりゃあそうかもしれませんが。わかりました、螺子以外で何か見つけて来ましょう」
「あ、いえ本当に、気を遣わなくてもいいの。私は」
自分はまた、その顔が見られさえすれば──と思わず口に出そうになった。
何故か槐苑の言葉が蘇る。
──しどけない格好をするとか。
「~~っ、そうじゃなくて!」
「どうしたんですか?」
顔を上気させて激しく首を振り出す妻に、椅子に並んで座っていた碩有は不思議そうな顔をした。
「いいえ! 何でもないのですっ」
今度は、引きつった笑顔を浮かべつつもやけに強く否定する。
「ならば良いのですが。随分と落ち着かないみたいですよ」
心配そうに、彼は翠玉の額に手を伸ばして来た。温かい手の平が、ひたと彼女に触れる。
「熱があるのでは……」
手を離して、今度は自分の額をそこに付けた。
翠玉は固まった状態で、ただ目の前の夫の顔を凝視している。
──近い!!
「……翠玉」
「は、はい?」
青年は顔を離すことなく、今日初めて妻の名前を呼んだ。いつもと同じく、ほんの少し照れくさそうに。
「どうやら、調子が悪いわけではないようですね。良かった」
額の感触が消え、あっけなく夫の気配が遠ざかった。椅子から立ち上がったのだ。
「碩有さま……?」
「今日はこの辺りで戻ります。明日、朝早くに発ちますので」
「あ、は、はい」
慌てて彼女も立ち上がり、見送りに戸口に付き添った。
笑顔を見せて去っていく姿に微笑み返して、その背中が視界から消えると脱力して椅子に倒れこんだ。
「……紅だって……効かないじゃない」
ぼそりと呟く。
それでも触れられただけ、進歩したのだろうか。いつもはそれすらもないのだから。
翠玉はすでに碩有に恋をしていた。ここに来るまで、恋愛経験がなかったわけではないのでそれは自覚している。
だが夫は、全く自分に手を出そうとしない。
「しどけない格好、するしかないのかしら……」
半ば自棄気味に独りごちて、彼女は──明日からの会えない二日間をどう過ごそうかと──途方に暮れた。