八 束縛と開放
「……というわけで、私は三歳まであの子を育てられはしたけど、その後は隠遁して鉦柏楼に引きこもったのよ。もう育児も出来ないし、夫が亡くなったのはある意味私のせいと言えない事もないわ。だから碩有とはそれっきり。日に日に自分に似てくるから、会うのが辛かったの」
勝手な親でしょう、あの子がひねくれるのも無理はないわね──乾いた笑みと共に伏せていた視線を上げると、季鴬は翠玉の顔を見て目を丸くした。
「ちょっと……貴方、泣き過ぎじゃない」
大粒の涙をぼろぼろと零して、随分と彼女の目は赤い。
「だっ……て……! あんまりです。せっかく仲直り出来るはず……だった、のにっ」
季鴬は自分の耳に下がる、瓊瑶に触れて薄く微笑んだ。
「──もし無事に帰って来ても、仲直り出来たかどうかはわからないけど。せめて耳飾はあの人の希望通りに身に付ける事にしたわ。私の愚かさへの罰として」
「罰……?」
「付けていれば、夫を忘れる事は出来ない。鄭に帰ろうかとも考えたけど……それだといつか、思い出に変わって私は幸せになってしまうかもしれないわ。許されない事じゃない?」
人とも極力触れ合わない様に。日の光を浴びずに夜だけ外に出る。全て自分の望まない方へ生きるしか、償いの方法がわからない──
翠玉は二、三度息を吸ったり吐いたりして、嗚咽を何とか落ち着けてから叫んだ。
「そんなの、間違っています! どうしてお気づきにならないのですか」
「……え?」
「槙文様が実際何をお考えになっていたのかはわかりませんが、貴方は彼を愛していたのではないですか? ただお認めにならなかっただけです。槙文様だって──」
側室の為の館は、いくら身の危険を感じたからと言って手配が良すぎる。以前から用意していたとしか、翠玉には考えられなかった。
「賭けをしようと、槙文様は仰いました。勿論勝つおつもりだったのでしょう。ならば、三年は猶予だったに違いありません。貴方をふるさとに帰すか、帰さないかの」
もし戻って来て季鴬が折れたとしても、心が手に入るとは限らない。側室を出し三年の間に変化がなければ、鄭に返そうとしていたのではないか。
「領主の妻は通常、夫が亡くなれば年齢に関わらず尼僧院に入ると私は聞いております。遺言で指示でもない限り。それを『望むなら』鄭に帰すと言われたのです。元々お考えだったとしてもおかしくはありません。──貴方がご自分を罰しては、槙文様のお心に背くだけではないのですか」
あるがままの自然を愛する人を、六天楼に繋ぎとめておくのは酷だと。
槙文が聞いたままの人となりなら、きっと思ったに違いないのだ。
「そうかしら……」
しばらく押し黙ってから、季鴬は少しだけ瞳を滲ませて「かもしれないわね。誰にでも優しい人だったから」と寂しそうに笑った。
「遺言もそう言えば、側室一人ひとりに希望を取れと指示があったわ。誰もが困らない様に気を配る。最期まで、あの人らしいと思ってた」
いずれにしても、もう二十年以上昔の話よ──そう言って、季鴬は立ち上がった。
「季鴬様」
「ねえ貴方。名前をまだ聞いていなかったわね」
閉じられた雨戸に歩み寄って、首だけでこちらを見て問いかける。
「翠玉と申します。あの、差し出がましいとは充分わかっていますが……碩有様にお会いになっては頂けませんか」
「今更だし、きっとあの子は会いたがらないでしょう。それより貴方が仲直りするのが先じゃないの?」
複雑そうな表情は儚げにも見え、手を伸ばせば消えてしまいそうだ。人はこんな風に笑えるのかと、翠玉の方が哀しくなる位に。
「あの時どうすれば良かったのか、気づいたのはもう相手がいなくなった後だったわ。翠玉さん──貴方も、いつでも取り戻せるなんて思わない事ね」
※※※※
言うだけ言って去ってしまった──季鴬の為に開けた雨戸を閉めようと手を掛けて、翠玉は溜息をついた。
夜の冷たい空気に顔をさらして、涙の火照りを鎮めようとそこにしばらく立っていた。
──亘娥の祝福を受けた瓊瑶……か。
空を見上げても未だ雲は晴れず、ぼんやりとした闇が広がるばかりだ。けれど月があるだろう場所には、うっすらと光の輪が見える。
姿を隠した猊と、一人世に残された女神を思う。
──触れ合う事が叶わなくとも、同じ空にいられるだけ幸せなのだろうか。それとも尚苦しいのだろうか。
槙文はいざという時には妻を手放そうとしていた。それが彼女を思っての事であったにせよ、最善が常に正解とは限らない。
「碩有様とまるで逆だわ……」
片や手放そうとし、片や自分を閉じ込めようかと言う。同じ親子でもこうも違うものか。
「何が私と逆なんです?」
翠玉は自分の空耳かと思った。だってこれではまるで、さっきの話の様ではないか──
「……碩有様」
階近くに立っているのは、紛れもなく自分の夫だった。槙文の幽霊などではない。
「何故、庭からおいでに。とにかく、お入りください。身体を冷やします」
脇に避けて中に促しても、彼は階を上がろうとしなかった。怪訝そうな面持ちで、今しがた季鴬が去った方角を見ている。
「貴方こそ、こんな時間に雨戸を開けるなんて感心しませんね。庭がどうかしたのですか」
「いえっ。何でもありません!」
さあさあ、とごまかすのも手伝って彼女は碩有の腕を取り、引っ張った。
奇妙な表情をして引かれるがままに中に入り、椅子に座ると特に何を話すでもなく黙っている。
沈黙が重たい。
──仲直りと言っても……どうしたらいいだろう。
季鴬の話なんて今は絶対に出来ないし、重ねて謝るのも何か違う気がする。
「あの!」
とりあえず話しかけてみようと、隣に座って無謀に口火を切った時だった。
「……貴方が、庭から奏天楼に来たから。真似をしてみたのです。まさか戸が開いているとは思わなかった。その上私の名前が出て来るとは」
視線を合わさず、碩有がぼそりと呟く。
「え。という事は、もし戸が開いていなかったらどうなさるおつもりで……」
聞き返しながら、つい最近似た様な会話をしたと気づく。
「まさか様子を窺う為に、庭から来たわけでは……ないですよね」
返事はなかった。
一瞬の間の後、くすくすと翠玉は笑い出した。
「何を笑っているのですか」
「あ、いえごめんなさい。ちょっと思い出しただけで」
──やはり、親子だ。発想が似ている。
「思い出したって何を」
見えない絆がまだ生きていたと、そう思うだけでいくらか救われる気がする。監視されるのは困るけど──
不意に頬に柔らかく掌が触れて、翠玉は目を見開いた。
「……済まなかった」
どれほどの間外にいたのだろうか。碩有の指はまだひんやりと冷たく、腫れて熱を持っている目元に心地よかった。
何かを堪えているかに見える夫の顔に、安心させる様に笑う。
自分を泣かせるのも、涙を拭い去ってくれるのもこの人なのだから。
「碩有様。閉じ込められるのは少し困りますが、間違っても手放そうと思わないでくださいね」
「翠玉──」
「此処が私の居場所なんですから」
頬に触れたままの彼の手を、自分のそれで包み込む。
どうすればいいのか、これしか結論は出ないのだ。最初からきっと。
──同じ空にいるなら、私は寄り添う道を選びたい。
「……本当に貴方はわかっていませんね」
濡れた様な瞳に惹き付けられて、翠玉は瞬き一つ出来なくなる。
「貴方がそうやって容易く私を絡めとるから。──閉じ込められているのは私の方だという事を」
「碩有様……?」
「あの時もそうだった」
碩有は言葉を続ける代わりに妻の額に口付けた。
瞼を伝って頬、耳をなぞり、次いで貪る様に唇を奪う。髪飾りを外した長い黒髪に、指を差し入れて頭を抱いた。
「あの時って──墓参りの? 私は、本当にただ昔の嫌な事を思い出して……そんな姿を見られたくなかっただけで……」
唇が離れた合間に言うと、碩有は笑った。低く漣にも似て、それだけで翠玉の背筋がしびれる。
「いいえ、今日の朝の話です」
また怒るかと顔を覗きこんでみたが、そうでもない様だ。
「執務の前に貴方を見るなんて……おかげで今日一日、何度朗世に叱られた事か」
左腕を首の後ろに回して抱くと、自由な右の手指で髪を巻きつけ引き寄せる。
やや荒くなった指の動きから、朔行の件はもう話さない方がいいのだと彼女は理解した。
そう、今は過去のあれこれよりも単純なものが大切だ。
──望んでいたのは、自分も同じだったから。
目の前にいるこの人に、ただ触れたいと。
心を占めて離さない人が此処にいて自分を思ってくれる。本当に、何と贅沢な事なのだろう。
碩有の腕の中で己を満たす潮流に我を忘れそうになりながら、翠玉はいつもより少しだけ積極的になろうと反応を返した。
絡めとられているのは自分も同じなのだと、せめて与えられるだけのものに少しでも近いものを感じて欲しかったから。
碩有に伝わったかどうか──その後結局倍返しをされてしまったので、詳しくはわからない。
※※※※
あの事故には後日談があってのう──と、翌朝訪れた槐苑は珍しくもの憂げに語りだした。
「落石に遭ったのは間違いないのじゃが、騒ぎに紛れて槙文様を襲った者達がいたのですよ。呉の町長は傀儡でしてな、官吏が陰で盗掘の指示を出しておった。情報もそやつらが操って、洛に届くのがただでさえ遅れたのです」
碩有が執務へと出て行ったのを見届けたかの様に、上機嫌にやってきた彼女を今日ほど歓迎した事はなかっただろう。
「仲直りなさったらしいですな。重畳重畳」という言葉を無視して早速紗甫を呼んだ。老婆の好みのものを用意し、話のついでに昔話をさせるのはさほど難しい作業ではなかった。
仲直りへの安心感が、槐苑の口を軽くしているらしい。
「戴剋様が槙文様の亡骸に不審を持たれてのう。烈火のごとくお怒りになられて、一族郎党全てを挙げての解明を命じられましてな。かつては厳君と畏れられたお方、捕らえられなければ呉を滅ぼすとまで仰せでした。愛息を殺された怒りは、それはそれは烈しかったものです」
「それで、犯人がその官吏だとわかったのね?」
「はい。皆自分が殺されると思い躍起になって調査しましたからね。捕らえた者達を戴剋様は極刑になさいました。のみならず、呉の壊れた橋を非常に堅固なものに造り変えたのです」
当時の戴剋の悲しみを考えて、翠玉は目を伏せた──いくら後事を治めても、息子は取り戻せない。どれほどに嘆いた事だろう。
でもそれだと、季鴬は自分を責める必要はないのではないか。戴剋が悪意を見せる理由も。
「今の話……六天楼にも知れ渡っていたのよね?」
「うむ、まあそうじゃのう。公に知らされたわけではないが、女の口と耳は風の如しと申しますからな。知らぬ者はおらんかったでしょう。ただ──」
「ただ?」
「戴剋様は呉に向かわれるのを随分と反対なさっていた、という話ですのう。それでなくとも、その頃六天楼の事でしばしばお二人は揉めていたとか。仲の良い親子だったのに、一体何が原因だったのかは存じませぬが」
季鴬と槙文、そして槙文と戴剋の間に何があったのか。
だが悔やんだのはきっと、季鴬だけではなかっただろう。
やり場のない怒りは負の連鎖を生み、今は季鴬と碩有の間にも影を落としている。
「いずれにせよ、もう全て昔の事です。奥方様がお気にされるには及びませんぞ」
思索に耽っていた翠玉は、顔を上げて老婆の顔を見つめた。
この人は、もしかしたら全てを知っていて黙っているのではないか。そんな気がした。
「槐苑様は……本当はご存知なのではありませんか? 槙文様は六天楼から側室を出そうとして戴剋様と衝突された。違いますか」
さあ、と空とぼけて老婆は出された茶をゆっくりと啜る。じれったいほど時を置いてから答えた。
「そうだったかもしれん。だがのう奥方様。──今となっては、それはどうでもいい事じゃとお思いになりませぬか」
季鴬と碩有が疎遠になった事の方が問題だったと、槐苑は溜息混じりに言った。
「仮にも御館様のお母君をこう申し上げるのは無礼じゃが、もう少し季鴬様が母としてお強くなられたらと儂は時折思っておりました。奏天楼に引き離されるまで、碩有様をそれは大切にお育てになっていたというのに、移るとなると見向きもしなくなっておしまいでしたからのう。──全く愛されずにいるよりも酷な仕打ちじゃ」
返す言葉を見つけられず、翠玉は黙っているしかなかった。
果たしてそんなに簡単に、わが子を手放せるのものだろうか。
──日に日に自分に似てくるから、見るのが辛かったの──
己を責めていた季鴬は、もしかしたら恐れたのかもしれない。
いつか近いうちに、自分が息子を愛せなくなってしまうのではないかと。
あるいはそれも罰として科したのか。
相手がいなくなってから、ああすれば良かったと思っても遅い──
翠玉には、このままでいいとはどうしても思えなかった。