七 季鴬と槙文※※※
それきり、槙文の訪れは途絶え一月が過ぎた。
──当たり前だわ。あれだけ拒まれて、愛想が尽きないわけがない。
今や侍女達でさえ、直接的ではないにせよ彼に対して同情を示す様子があった。流石に主に対しては「跡継ぎは碩有様なのですから、ご心配なさいますな」と表向きは非難しないものの、態度もどこか沈みがちだ。
季鴬は寝台の帳をわずかに開け、中ですやすやと眠る息子を見て自嘲気味に微笑んだ。
本来生まれるとすぐ東の奏天楼に移されるのが世継ぎの定めだが、彼女は一度だけ夫に文を出した。生国の母を見習って出来る限り乳母の手ではなく、自分の手で育てたいと。
返事は「三歳をもって東に移す」というものだった。
三年、という根拠はわからなかったが、許しが出ただけでも嬉しかった。初めて見る夫の筆跡は総領らしく達筆で、彼女は返事の文を胸に抱きしめて、知らず涙さえ零したものである。
何もかも予定通りになったのに、この胸の苦しさはどうした事だろう。
答えはある初夏の昼下がり、槐苑の一言がきっかけで訪れた。
「御館様が明日より呉に向かわれるそうじゃ」
解せぬのう、とこれ見よがしに首を捻る。この老婆は常に情報通だが、原因はこういった思わせぶるところにある、と季鴬は思っていた。
それでも黙っていると、さらに言う。
「今あの町に入るなど、危険だと聞きましたがのう。鉱山で盗掘が相次いでおるとか。そんなもの、洛庁の役人を向かわせれば良いものを……一体何をお考えなのか」
槐苑の魂胆は見え透いていた。領主の女達をまとめるのが役目だとかねてより公言している。疎遠になった自分と夫との仲を取り持とうとしているのは明白だったから、手に乗るのは癪だったが、『呉』という地名に思わず反応してしまった。
「あそこは……緋鉱石が採れる町でしょう」
槙文が本を見て指差した、娥玉も採れるという場所。
「そんなに盗掘の被害がひどいの?」
「定期的に何者かが石を横流しにしている疑いがあると、もっぱらの噂ですじゃ」
ひどく胸騒ぎがして、その後の槐苑の話も上の空になった。
直轄で監督している鉱山だと聞いている。彼女は陶の政治にはあまり詳しくなかったが、鄭ではよく父や兄の教えを受けた。
不正を行うならば、現地の上役人が関わらないとまず出来ないのではないか。
だとしたら、彼らにとって槙文の来訪は──危機であり、好機でもある。
止めなければ。そう思ったが、六天楼を離れるのは掟で禁じられていた。
──あのひとに……せめて文を出して、忠告を。
筆を執ろうとして、その手がひどく震えている事に驚いた。
まるで時機を計ったかのごとく、寝台の中の碩有が泣きだす。お腹が空いたでも下布を替えるでもない泣き方は彼女の不安を煽った。
「大丈夫よ……」
抱き上げてあやすものの、言葉の確かさを季鴬自身が一番信じていない。
「随分と大きな泣き声だね。もの静かな子だと思っていたのに」
聞こえるはずのない男性の声に、耳を疑って彼女は寝台から赤子を抱えたまま飛び出した。
房の中に槙文が立っていた。背広ではなく略式の衣衫を着ているという事は、執務が終わったのだなどと、呆然としながらも思った。
「……貴方、なぜ此処に」
「ひと月も会わなかった割には、暖かい挨拶で嬉しいよ」
今までの狼狽など何処かへ行ってしまったかの様に、季鴬は目を吊り上げた。
「それはこちらの言葉だわ。質問に答えて」
槙文は笑った。全く以前通りの、彼独特の屈託のない笑みだった。
「もしかして、怒っている?」
季鴬は確かに怒っていた。だから怒りのあまり答えられなかった。
自分で自分がわからない。表情一つ、仕草一つで身体が引き寄せられてしまいそうになるなんて。
「……明日、呉に行くそうね」
必死に話を逸らすと、彼は「槐苑だな。余計な事を」と顔をしかめた。
「危険過ぎるわ。罠でも張られていたらどうするの?」
「聞き間違いだろうか。貴方が私を心配してくれるなんて」
今までならこんな台詞と共に手が伸びて来たのだと、季鴬は内心身構えた。だが彼はそのまま動こうとしない。
「大丈夫だよ。腕の立つ部下達も護衛に充分連れて行くし。それに万一の事があっても、父上はまだ達者でいらっしゃる。もう碩有もいるしね」
「何を馬鹿な事を。冗談ではないわ!」
槙文は苦笑して一歩、妻の元へ歩み寄った。唇が触れんばかりに顔を近づけて囁く。
「……賭けをしないか。私がもし、無事に戻れたら。その時貴方は私が贈った瓊瑶で身を飾るという」
意味がわからず、季鴬は目を見開いて静止していた。
確かに彼女は着物以外に装飾品を全く身に付けていなかった。夫からの贈り物の髪飾りでさえも、戸棚の奥にしまいこまれて日の目を見ずにいる。
「貴方には身を飾るものは必要ない。貴方自身の輝きは自然と同じで、脆く儚いものではないからだ──いや『なかった』というべきか」
「い、一体何の話をしているのかわからないわ」
答える声にはかつての様に力が入らなかった。槙文の存在が、吐息が心をかき乱す。再び手の届く場所に戻って来るとは思わなかったから。
彼はほんの少し、哀しそうな表情をした。
「つまり単なる私の我儘だよ。少しだけ、貴方が私を思い出せる様にしたいんだ」
いつの間にか泣き止んでいた碩有の小さな頬に、指を添えて撫でる。
赤子は嬉しそうに笑い声を立てた。母親から抱き取り、腕に包み込んで彼もまた破顔した。
「私がわかるんだね。……長い間放っておいて、済まなかった」
穏やかな、愛情に満ちていると誰でもわかるだろう声音が、季鴬の胸を締め付ける。
──私は。
その言葉は、自分へのものではない。当然だ。
唇を噛みしめて悔しさを堪えていると、不意に槙文がこちらを見た。
かつて見た事がない、訴えてくる様な真剣な眼差しだった。
「それとも、賭けをする必要はない? ……だったら今のうちに、何か言っておいた方がいいと思うよ」
「──なっ」
秘密を暴露された時の気まずさにも似て、季鴬は顔を赤らめた。
「い、言ったじゃない。危険だから止めなさいって。聞き入れないというのなら、他に言う事なんて。気をつけて、ぐらいしかないわ」
「そう。じゃあやっぱり賭けるしかないな」
顔がさらに近づいて、かすめる様に唇が触れる。
びくり、と震えた季鴬に笑って槙文は、赤子をその手に戻す。踵を返して戸口へと向かった。
「今日はもう帰るよ。明日は朝早くに立つ。戻るのは七日後だ。必ず戻るから、賭けに負けた時の心の準備をしておくんだね」
去っていくその背中を季鴬は呆然と目で追った。長い間、微動だにしないままで。
──引き止めるだけでは駄目だったのだろうか。
もっと愛情溢れる言葉を期待されていたのかもしれない。他の側室達はきっとそうしたのだろう。
だが夫を愛しているかと聞かれれば、よくわからなかった。自分がよく知る愛情とは、こんなどす黒く燻るものではない。そう、彼が息子に向ける様な穏やかな感情ではないのか。
来てくれたのは嬉しかった。今日まっすぐに東に戻ったというのなら、恐らく最後に此処を選んだのだ。たとえ息子がいるからという理由だけでも、忘れ去られてはいなかったのだから。
──ああ。それを素直に伝えれば良かった。
少しだけ後悔したが、きっと賭けとやらに槙文は勝ってしまうだろう。不運などには縁のない人種な気がしていた。戻って来たら、もう一度だけでも頑張って向き合ってみよう──今度こそ、きちんと。
久しぶりに触れた唇はほんの一瞬だけにも関わらず、身体の芯を揺るがすほどに鮮烈に心に残った。それが自分が何処か変わりつつあるという、確かな兆しに思えたから。
※※※※
「奥方様! お使者の方が参りました!!」
槙文が戻る予定の前日は、重苦しい淀んだ雲が洛の空を覆っていた。
彼が出立して三日目辺りから、長雨が降り続いていた。今日になってようやく止んだものの建物内は暗く、昼から既に灯火は上がっている。
ほの明るい房の中で季鴬は、危急の報せを持って来たと言うその使者の言葉に、頭を殴られた様な衝撃を受けた。
「な……んです……って……」
槙文が、呉の外れで山崩れに遭ったというのだ。
「盗賊は退治する事が出来たのですが、洛庁へと護送する手配が予定よりも延びたと急ぎ帰る途中でございました。往路の橋が大雨で流されてしまい、迂回をと選んだ山道もまた地盤が緩んでいたものと思われます……上からの落石を避けきれず……」
使者の女性は奏天楼の執務房に使える官吏で、説明は理路整然としていた。それでも沈痛な面持ちが、嫌な結末を連想させる。
「それで──あの人は──御館様は。ご無事だったの」
「重傷でございます。従者ともどもあちこちを数箇所打撲しており、意識が回復しないと……今は呉の治療所に運び込まれていると報告がありました」
目の前が暗闇に包まれて、視界が歪んだ。慌てた侍女が椅子を背後に置く気配がする。何とか腰を下ろして、肘掛に縋りついた。
「奥方様──其方、もう少し言い方があろう!」
「も、申し訳ございませんっ」
怒りを露にする侍女を制する為に季鴬は腕を上げようとしたが、何故かいくら力を入れても動かせない。
「……医匠は何と申しているのですか」
自分の耳にさえ聞こえるかどうかわからない、小さな声しか出なかった。
使者には何とか聞こえた様だ。身を硬くして彼女は口を開いた。
「非常に申し上げにくい事ですが──今夜意識が戻らないのであれば、ほぼ絶望的だと」
回転を続ける季鴬の世界は、今度こそ闇に包まれ意識を失った。
──必ず戻って来ると。そう言ったのに。きっとこれは悪い夢なのだ……。
実はこの時点でもう槙文は息を引き取っていたのだと、戴剋が分別を働かせてささやかな嘘をついたのだと。
そして後一日待てば、川の氾濫は治まり普通に帰れるはずだったという事を。
彼女が知るのはもっとずっと先の話になる。
※※※※
結局若き領主の不運な死は公に知られる事となり、数日後槙文はもの言わぬ骸となって奏天楼に戻って来た。
慣例に従い、六天楼の女達に葬儀に加わる許可は与えられなかった。ただ一年の間喪に服す事と、忌みが明けたら執行されるべき彼の遺言が──何を思ったのか、槙文は出立の前にしたためていたと言う──戴剋によって公開され、命じられた。
一つには、次期領主を碩有と定める事。
成年になるまでは祖父戴剋が領主に戻り、後見を務める旨が頼まれてあったという。
その他領地の政務についての項目が驚くほど細かに記され、最後には六天楼について触れてあった。
側室は見合った財貨を与え、それぞれの希望を聞いた上で便宜を図って身の振り方を決めよと。但し二人の姫についてはしかるべく嫁ぎ先を見つけ、成年までは郊外の館にて養育する様に──既に館も用意してあるという周到さだった。
『宣旨』と呼ばれる遺言公布の者が、朗々と夫の言葉を読み上げて行く。己が房で抜け殻の様に黙ってそれを聞いていた季鴬は、自分の名前が出てきた時にようやく顔を上げた。
三歳を迎えるまで碩有は母季鴬の元で養育するが、以降は奏天楼に移す事。
そして正室季鴬は、当人が望めば生国に帰してやって欲しいと──そう槙文は遺言を結んでいた。
「奥方様には、槙文様の形見分けがございます」
宣旨がそう言うと、背後に控えていた侍女が静かに前に進み出た。両手には高台を掲げ持っている。
椅子に縫いとめられたかの様に重たい身体を何とか持ち上げて、季鴬はそこに載せられている小さな匣に手を伸ばした。
蓋を開き、中を覗く。一言も言葉を発しないままで。
息を呑んだ。
「従者の方のお話によると、呉にて以前、奥方様の為にお作りになられたものだそうでございます。事故に遭う前日に、職人より引き取られましたとか」
見つめるばかりで何も答えない彼女の代わりに、槐苑が「見事な娥玉でございますな。耳飾とは珍しい意匠にしたものですが。素晴らしい逸品じゃ」と涙を零した。
「……この、匣」
掠れた声で搾り出す様に、季鴬はようやくそれだけを呟いた。
華やかな柄の布地で出来た匣、上蓋に黒く渇いた染みが付いている──それはまるで、血の様な。
彼女の凍り付いた表情を読んだのか、先回りして答えがあった。
「いえ、これは泥でございます。拭き取りきれませんでした」
申し訳ございません、と侍女が頭を下げる。
「他の匣に移そうとしたのですが、戴剋様がこのままで良いと仰せになりまして」
季鴬はその時、全てを悟った。
「奥方様……」
「……しばらく、一人にして」
気遣う侍女や槐苑を人払いして、碩有でさえも預けると季鴬は寝台に顔を埋めて泣いた。
嗚咽を聞かれるのをはばかっても、悲鳴に近い声が口から漏れるのを止められない。
鄭を離れる時ですら、こんなに涙を零す事なんてなかった。
あの時、せめてもっと優しい言葉を掛けてあげられたら良かったのに──後悔ばかりが彼女を苛む。
槙文はもう戻っては来ないのだ。自分の憎まれ口に呆れたり、笑っていた顔を思い浮かべる。甘やかな声で髪を撫で、抱きしめられる腕も、共に碩有の成長を見届ける未来も失われてしまった。永遠に。
──戴剋様は、わかっておいでだ。でなければ、この様な生々しい状態で渡そうとなさるはずがない。
耳飾の入ったままの匣を握り締めて、彼女はとめどもなく泣き続けた。
消えない染みは、恐らく泥などではないのだろう。そして義父は自分を責めている。そんな気がした。