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六天楼の宝珠  作者: 伯修佳
第二部
20/24

六 季鴬と槙文※※

 六天楼に入り一年が経過した頃、季鴬は身ごもった。


「おめでとうございます。これで御子が男子ならば、鄭の御館様もお慶びになるでしょう」


 周囲の侍女の穿った祝いの言葉に、戸惑いを隠せないまま頷く。

 うろたえたのは彼女の言葉にではない。季鴬の傍仕えはほとんどが鄭家から付いてきた者達だ。主以上に、槙文を非難し側室に対抗意識を持っていた。

 問題は自分の身体の変調だ。


──何、これは。


 何を食べても胸の悪さはおさまらないし、頭痛がひどく身体が鉛の様に重たい。あれほど房を出て外を動き回りたいと思っていたのに、今は全てがわずらわしくなっていた。


「初めての時は大抵症状が重いものじゃ。しばらくは安静にして、冷えや締め付ける衣服は避け、身体に負担を掛けぬように過ごせば宜しいでしょう。食事も変えなければなりませぬな」


 六天楼を長く取り仕切っているという槐苑は、皺顔を綻ばせて祝いの言葉を述べ「もうご自分ひとりの身体ではないのですから、ご自愛めされますよう」と結んで帰っていった。寝台の中に、独り呆然としている季鴬を残して。


──この中に、子がいる? あの人の?


 まだ平らなままの下腹部に手を当てて、彼女は自分がいかに「子を生む」という作業を絵空事に考えていたのかと愕然とした。


「よくやってくれたね。嬉しいよ。君に似るのなら、どちらでもきっと美しい子になるだろう」


 槙文は満面の笑みで懐妊を喜んでくれた。それがあまりに予想外だったので、またも季鴬は対応に困り黙って頷くしかなかった。


「具合が悪いのかい? 最初はそういうものらしいが。何か欲しいものがあれば、遠慮なく言いなさい」


 青ざめてまともに返事もしない女に、どうしてこの人は暖かさに満ちた手で触れるのだろう。不思議でたまらなかった。

 槙文は妻の頬を撫でながら、房を見回して「香を焚くのはやめた方がいいね。身体に障るというよ」とたしなめた。

 季鴬はそれでも答えなかった。知っていたからだ。槐苑にも侍女にも言われたが、いつもの香りがしない室内はひどく気に障った。ただでさえ調子が悪くてふさぎ込んでいるのに、あれも駄目これも駄目と禁じられ、懐妊がわかって数日にして我慢は限界を超えていたのだった。


「楼にいる者で、過去に同じ様な真似をして子を流した者さえいるんだ。貴方も気をつけないと──」


 季鴬はそれまで背けていた顔を上げ、槙文を睨み付けた。


「出て行って」

「季鴬」


 夫の表情は初めて見るものだった。張り付いていた笑みは消え、戸惑いさえ浮かんでいる。


「私を気遣うと言うのなら、しばらく放っておいて。静かに過ごしたいの」


 優しさから出た言葉と頭ではわかっているのに。季鴬は顔を背けて庭から視線を動かす事なく、遠ざかってゆく足音を聞いた。


──懐妊したのは私が最初じゃない。詳しくて当たり前だ。


 槙文には既に側室に女児が二人いる。それぞれ別の腹から生まれた子供だ。詳しく知ろうとしないだけで、側室の数を考えればもっといたのかもしれない。流産死産も珍しくはない世の中だ。

 何故これほどまでに、自分は彼を疎むのだろう。相手を思いやる余裕もない。一体いつまで礼儀をわきまえない子供なのか。子供が子供を生むなんて、お笑い種もいいところだった。


──出来るわけがない。この子の母親になるなんて。


 いずれにしても、槙文はもうこちらには訪れないだろう。

 自嘲気味に笑って、彼女は生まれてくるわが子を初めて不憫に思った。


※※※※


 だが予想に反して、次の日も槙文は季鴬の元にやってきた。手には盆、上には皿と鮮やかな黄色の果実が載っている。


枦橘ろきつを持ってきたよ。食欲がないそうだが、これなら食べやすいと思うんだ」

「……もう来ないでと、言わなかったかしら」


 相変わらず寝台から離れられない季鴬はすっかり憔悴していて、昨日の様な強い口調さえも出なかった。対して彼はいつもの口調で、

「言われなかったと思うけど。何を怒っているのか知らないが、貴方に今大事なのは丈夫な跡取りを生む事だろう? 失敗したら苦痛が長引くだけだと思うよ」

 とからかう様に笑う。


「今だって充分……苦しいわ」


 流産の苦痛を指して言っているのだろうと思って訴えると、槙文は少しだけほろ苦い表情をした。


「まあ、とにかく人の言う事は聞けって話かな」


 寝台脇に椅子を持ってきて、腰を下ろすと枦橘の皮を器用に剥き始めた。


「厨房で切れ目を入れてもらったんだ。鄭領では今が収穫時期なんだってね」


 恐らく彼は知っていて取り寄せてくれたのだろう。妻が故郷で好きだったものを、侍女辺りから聞いたに違いない。いつもそうだ。そつがない。


「口を開けて」


 季鴬は肩肘を立てて、半身を起こした。


「病人扱いしないで。自分で食べられます」

「じゃ、はい」


 皿ごと差し出された皮と同じ色の瑞々しい果肉を、彼女は匙で掬い取る。

 久しぶりに口にした食物は懐かしい味がした。


「どう? 美味しい?」

「……ええ」

「良かった」


 成熟した果実よりも、槙文の言葉は甘く響いた。それでも季鴬は彼を見ようとせずに、ただ黙って枦橘を口に運んだ。

 沈黙に耐えかねて、小声で礼だけを言うと顎を持ち上げられる。


「……付いているよ。口の横に」


 拭ったのは手ではなかったが、季鴬は特に抵抗するでもなく受け入れた。唇の横から徐々に移動して来ても、歯の隙間から舌が滑り込んで来たとしても。


「季鴬──」


 唇を離した刹那、次に何かを言おうとしている夫に彼女は冷えた視線を向けた。


「具合が、悪いの」

「ああ、わかっている」

「夜伽はしないわ。必要なら、他に行って」


 硬く強ばった面で告げると、彼は「そこまで不自由してないよ」と苦笑して立ち上がった。


「帰るの?」

「まるで帰って欲しい様な言い草だね」


 だが彼は房を去るどころか、枕元に積まれた書物の一つを取り上げてまた腰を落ち着ける。


「そう言えば、貴方は石が好きだと聞いていたけど。この本には瓊瑶はあまり載っていないみたいだな」

「違うわ。私が好きなのはごく自然のものよ」


 手にしたのは、山河にある石の種類と特徴について書かれたものだった。


「女性は大抵、瓊瑶が好きなのだろうと思っていたが」

「貴方の知っている女性が、でしょう。少なくとも私は興味がないわね」


 言ってしまってから季鴬は決まりが悪くなった。これではまるで、自分が彼女達に嫉妬しているみたいではないか。


「……自然の中の石や草花は、そこにあるから美しいのよ。女の身を飾る為にある瓊瑶とは違う」


 恥ずかしさをごまかす為に、今まで侍女にさえ言わなかった思いを口走った。

 ふうん、と気のない相槌を打ちながら、槙文は書物をぱらぱらとめくる。


「瓊瑶だって元々は山奥にあるただの石じゃないか? 美しいと決めたのは人間の感覚さ。そしてほとんどの人間は、美しいものを手に入れたがる」


 たとえばほら、とある頁で手を止めて項目を指差した。


「これは陶の領地の一つで採れる『娥玉』という石だ。一見白い不透明な石に過ぎないが、割れた角度によっては断面に多色の光彩が見えて実に美しいと言われている。だが偶然割れたものを発見されるまでは、ただの石として採掘場でも邪魔もの扱いされていたんだ。緋鉱石と同じ地層に現れるからね」


 石の話題を広げられると思っていなかった季鴬は、俄かに興味を示して書物を覗き込んだ。次いで彼の顔を。


「石に詳しいの?」

「私は色んな事に首を突っ込む性質でね。特に領土内の事には」


 返って来たのは、明らかに愉快そうな笑みだった。


「緋鉱石は鄭では珍しかったのよ。貴方は採掘場に行ったりするの?」

「時折ね。工業に欠かせない石だから、特に気をかけているんだ。ここでも石を狙って盗賊が現れるぐらい貴重な石だよ」

「そうよね。車に使われていると聞いた事があるわ。確か桐でも……」


 彼を何とかして追い出そうとするのも忘れて、気づけば季鴬は夜近くまで夫と話し続けていた。石の話題から始まって、使われているものから山の気候にまで話は及んだが、槙文はそれら一つ一つに造詣が深く、彼女は驚いた。楽しくて笑顔さえ浮かべていた。


──今までまともに会話しようと思わなかったから、わからなかった。


 夫としてではなく、一人の人間としてなら仲良くしていけるかもしれない。そのまま彼女の寝台に潜り込んだ槙文の寝顔を眺めながら、季鴬はようやく少しだけ、歩み寄ろうという気になった。


※※※※


 年が暮れて月は満ち、生まれたのは健やかな男子だった。

 六天楼を始め、陶の領土全てが世継ぎの誕生を喜ぶ声に溢れた。季鴬の元には次々と家臣や楼内の人間が訪れ、祝いの言葉と共に様々な品物を置いていく。侍女達は取り澄ました側室の顔を陰ながら眺めて、溜飲を下げたらしい。誇らしげな会話は主の耳にも入っていた。槙文が毎日此処に来る様になったから、尚更なのだろう。


「やはり貴方に似ている気がするな。髪の色や、目元なんてそっくりだ。賢い子になるに違いない」


 赤子を覗き込んで彼が言うと、周囲に控えていた侍女達も楽しそうに笑った。


「御館様。嬰児の髪の色や顔立ちは成長と共に変わりますぞ。勿論どちらに似ても、怜悧な御子になるのは間違いないでしょうが」


 槐苑が横からたしなめて、また笑いが起きる。

 見るからに幸福に包まれた光景を、季鴬はどこか遠くに思いながら冷ややかな眼差しで眺めていた。


「どうしたのだ、身体の調子が悪いのか?」

「い……いいえ。何でもないの」


 心の奥で囁く声がする。この人がこうして私の元へ来るのは今だけだ。跡継ぎが出来たのが嬉しいのであって、いずれまた来なくなるに違いないと。

 以前ならそうあって欲しいと願っていたはずだ。なのに。

 脇に眠る、産着にくるまれた小さなわが子を見下ろす。夫の言葉は誇張ではなかった。慎文は髪の色がやや明るく、肌は浅黒い。女子かと思えるほどに、赤子は自分に似ていた。


「大事を成し遂げてくれたのだ、産後の肥立ちが悪くてはいけないからね。槐苑、侍女達も一層気を配ってやって欲しい」


 それからも何かに付けて訪れては子供の──父親によって『碩有』と名づけられた──顔を見ては帰っていく。だが予想通り、しばらくするとやはり以前の様に定期的な訪れとなった。息子の顔を見ても、泊まらず帰るというのもしばしばあった。


──ああ、やはりそうなのだ。


 かねがね「子を産むのが役目だ」と公言していたにも関わらず、開きかけていた季鴬の扉からは隙間風が入って来る様になった。風はひどく身に沁みて、どういうわけか悔しかった。


「お一人ばかりを寵愛なさっていては、楼内に諍いを生みますからのう」


 槐苑などは当然だという顔をしていたが、季鴬はどうにも納得出来ずに扉を閉める事にした。碩有が生まれる以前に戻ればいい。難しくはないはずだと。

 槙文は妻の態度の変化に気づいていたらしいが、口に出しては特に何も言わなかった。彼自身はずっと変わらないのだ。ただ訪れる頻度が変わっただけ。泊まる時には妻に手を伸ばすというのも変わらない。

 変わったのはむしろ季鴬の方だった。

 最初の内は「まだ身体が戻っていないから」と断り続け、言い訳も尽きると「気分が優れない」と背を向けた。

 そんな事が何回も続いて、遂に槙文は妻に詰め寄った。


「身ごもっている時はあんなに素直だったのに。一体何をそんなに怒っているんだ」


 怒ってなどいない。ただ哀しいだけだ、などとはとても言えなかった。


「……もう、私の役目はこの子を育てる事だけだから」


 出来る事ならもう、その優しい手で触れないで欲しい。身体は心に繋がっている。今夫に抱かれると、二つが引き離されてしまいそうな気がした。

 俯いて目を合わせようとしない季鴬を、槙文はしばらくじっと見つめていたが、ふと息を吐き、

「なるほど。確かに貴方には身を飾る瓊瑶は必要ないな……」

 と謎めいた言葉を残して、静かに房を出て行った。



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